「青いオートバイの香り」
その店の壁際に青いオートバイが止まったのは、ほんの少し前。いくぶん季節が秋に近くなったのを教える風が吹いた時だった。それでも太陽はまだ十分に夏の輝きの中心だった。彼女は、スリムのストレートパンツとスイレンの絵がプリントされた白地のTシャツの上に、デニムのGジャンを着ていた。キャンパス素材のハイカットのスニーカはまだ新品で外側のグレーと、内側の白と紫のチェックが鮮やかに彼女の気持ちを弾ませていた。その女性は名前を石井奈美子と言い、彼女の被ってきたヘルメットは、オートバイのステアリングミラーに被せてあった。
奈美子は、店に入ってから濃い紫色の、彼女の人指し指の長さぐらいのボトルが並んでいる、木製のコイル巻きを重ねた陳列棚を見た。そして、そばに寄って、並べられているボトルガラスの表面に貼り付けられているラベルの内容をじっと読んだ。彼女は手に取ったエッセンシャルオイルのボトルキャップをまわして、静かにゆっくりと自分の顔に近づけながら香りをかいだ。それから、期待した結果に満足したかのように薄い唇に端をほんの少し上に上げて微笑んだ。近くにいた女性店員が笑顔を作って彼女に、他のボトルも自由にどうぞお試しくださいと言うと、彼女は女性店員の方を向いて微笑みを返し、先ほどのボトルを戻しながら、もう一つ別のボトルも同じように手にとって香りを確かめた。
二つのボトルが入っている紙袋を持って止めているオートバイの前に戻った時、道路を挟んだ向かい側の枝垂桜の枝葉が風に吹かれて揺れているのを見た。この前ここに、オートバイを止めた時、その枝は深いピンク色で染まり、散りゆく花びらの中にその答えがあるかのように彼女は眺めていた。
「結婚しよう」電話の向こうから聞こえてきた響きには自分に自身がある男の幻想のようなものが混ざっていた。
「結婚してどうするの」奈美子は電話の向こうにある表情を想像しながら答えた。
「君と一緒に起きて、食事をし、一緒に寝る」最後の言葉の終わりに「以上」と電話の向こうの男は付け加えた。
「それだけなの」
「それだけだ」奈美子は口をへの字に曲げて、
「ばか」と言って受話器を置いた。
桜前線は今住んでいる地方を過ぎて、さらに北に向かって行く途中だった。それから数日経ってから一枚のはがきが届いた。差出人は奈美子に求婚した男からだった。投函場所は南の地方からで、裏をめくるとその所では有名な時計塔の夜の佇まいが写っていた。それから奈美子はそのはがきを表に返し、宛先の下に書かれている彼からのメッセージを読んだ。そこには今、仕事でここに来ている。夏の終わり近くまで帰れそうもない。だから、電話で話したことの答えは、そちら戻って僕が君のところにオートバイを取りに行った時に聞かせてほしい。と書かれていた。奈美子はガレージに置いてある彼のオートバイのことを思った。彼が奈美子と付き合い始める前から乗っているオートバイで、いつも彼女のところに置いてあった。奈美子が自分もオートバイの免許を持っている、と言うと、それでは自分のところに置いておくよりも、奈美子のような美しい人の側のほうがオートバイも喜ぶだろうと、置いていくようになった。はがきをベッドの上に置くと奈美子は長い髪を両手で掻き揚げて後ろで縛り、ヘルメットを手に取り、彼のそのオートバイに乗って春風が吹く街の中へ走り出した。それが彼女に起こった春の出来事だった。
ガレージの扉の前で奈美子はオートバイのエンジンを切った。扉を開けて何も置いていない空間へ、乗ってきたオートバイを押して入った。サイドスタンドを右足のつま先で下げるとオートバイのグリップから手を離し、夏用のライディンググローブをオートバイのシートの上に置いた。次に、顎にかかっていた紐をはずすと両手でヘルメットの耳のあたりを押さえて一気に斜め後ろに引き上げた。ヘルメットで抑えられていた髪が四方におどり、首をかしげて奈美子はふうっと息 をはいた。ひんやりと涼しいガレージの中で奈美子はその青いオートバイを見つめた。そして、アパートの部屋からお湯を入れたマグカップをそのオートバイのシートの上に置き、ショルダーバックから取り出した紙袋に入っていたラベンダーの精油をドロッパーで一滴だけそのマグカップの中にたらした。そうして暫くの間だけ奈美子はオートバイから漂ってくる香りをゆっくりとした呼吸で吸い込み、過ぎ去る夏を目を閉じて感じていた。きっと来年の夏にはこのオートバイが二人のところにいつも置いてあるだろうと思いながら。