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茨と薔薇と少女の夢

 「夢」とは、眠った人間が一定の条件を満たすと目にする、いや、意識するものである。しかし、それが必ずしも人間の脳内で完結するだけのものとは限らない。そこにたった一滴の不純物が偶然にもこぼれ落ち混じってしまうだけで、それはただの夢とはかけ離れ、闇という調味料で味付けされてしまった限りなく絶望に近い悪夢になる。


 一滴の不純物。


 仮定としてそれが誰かの意図的な悪意だったとすると、如何なものだろうか。その悪意の主はいとも簡単に人間を自らの世界に引きずり込むことが出来てしまうと考えられる。

 我々にまだ解決の糸口は見つけられない。見つからないのだ。それが夢の中である限り、物質としての手掛かりが全くもって存在しないのだから。

 これが、我々人間の限界である。



破壊される夢に関する調査書




 ―――――――――――――――。




 少女は迷っていた。

 年の頃は13、4歳と言ったところであろうか。まだ発育途中であろう身体とそれに似合う大きなエメラルドグリーンの瞳が特徴的であった。少し癖のあるブロンドに近いブラウンカラーのロングヘアーは、痛むことを知らず艶やかに綺麗なウェーブを描いていた。彼女の几帳面さや慎重さがその様子から見て取れるだろう。

 そんな少女は胸の内で、煮えたぎるような恐怖と踊るような好奇心を同時に奏で、奇妙な色を見せながらこの空間の四方を眺めていた。

「ここは一体、どこ……?」

 少し上擦って震えた声でそれを口にする。


 …………。


 僅かの反響もなく、少女の声はまるで受け入れられるかのように、そして拒絶されるかのように感情のない闇に溶けて消えた。

 少女が振り向くと、彼女のクラシックガーリーな洋服と臙脂色のポンチョが衣擦れ音を立てる。

「何も……ない……?」

 確認をするように口に出す。今度ははっきりとした声で、自分に伝えるかのように。しかしその声すらも闇に溶けるのみであった。

 少女は暫くその場を歩いてみたり走ってみたり、座ってみたりもすれば飛んでみたりもした。しかしそこに生まれるのは少女が動くことで発生する音のみであった。反響は依然無い。いくら進んでも壁に突き当たることもない。少女の可愛らしいキャメルカラーのトレッキングブーツは、まるでタイルの上を歩くかのような抜けの良いカツカツという音を立てるのみであった。

 床に触れても「触っている」という感覚はあるが熱くもなければ冷たくもない、全く味のないチキンを食べているかのようななんとも言えぬ苦い気分になるのみである。

「ううん……困ったなぁ」

 少女は呆然と立ち尽くし、顎に手をやり無い頭で必死にこの状況を把握しようとした。その時の少女の表情は、誰もいないこの空間では分かり得ないものであろう。


 刹那、カツン、という革靴が床を叩く音が一度だけ響いた。

 その音のみが、その空間で反響したかのように少女には感じられた。依然収まらない煮えたぎるような恐怖と、それに相対するように状況の進展を期待する少女の瞳の翠が混ざり合い、美しい色を奏でた。

 音の先を少女は迷わず見やったのだ。

 僅か10メートルほど先、なんとも言えぬありふれたデザインの木製扉が、そこにはあった。

 ただ一点、その扉は吸い込まれるような緋色であった。

 少女は魅せられるかのように、緋色の扉をただ無心に見つめていた。怯えているのではない、感動しているのでもない、ただ目を離してはいけないような気がする。そんな曖昧な感情でただ眺めていたのだ。

「さっきまで、なかったよね」

 またも少女は自分に確認するように呟く。今回ばかりは恐怖と期待が声に乗ってやや震えながら、やや嬉しそうだと少女自身でも自分の感情を把握できた。

 この奥に進めと暗示されている。誰もがそう思う、そしてそうせざるを得ない状況に置かれている。少女は他に為す術もなく扉に近づき、丸い金属のドアノブに手を掛けた。

「……冷たい」

 少女は少し微笑んでいた。今まで感じ得なかった冷暖の感覚をこの空間で感じることが出来たからだ。少しだけ現実に近づいた気がした。

 冷たいという感覚に浸りながら、少女はドアノブを回した。扉を引くとキュッという音の後、特有のギギィという摩擦によって発生する耳障りな音が耳に届く。見た目より古い扉のようだ。

 少女はそんな音に顔を顰めながらも、間違いなく扉が開いたという事実を確認し少しだけ安堵した。

 しかし少しだけ開いた扉を見ながら、この先が変わらず闇であったらどうしようかと少女は一瞬考えた。考えてしまった。

 その一瞬で脳が溶けるほど煮えたぎった感覚とともに軽い偏頭痛が起こる。眼の奥が少し痛い。先程まで安堵に満ちていたはずの全身が強張り震え、反転して恐怖に満ちた。

 もう進むしか無いのに。内側から圧迫されるような頭痛に耐え、手に掛けたドアノブをゆっくりと引く。力はほとんど入れていない。ただ手を引くだけで簡単に扉は開いていった。相変わらず摩擦によって起こる耳障りな音は止まないがそれでも扉は幼子の手を引くように軽く開いていった。招かれるかのようにその扉の奥に、少女は歩みを進めた。

 やがて陽の光のような眩しさが、少女の目を貫かんばかりに突き刺す感覚を覚え、少女は反射的に目を閉じた。

 暫く待つ。まぶたの向こうの光に瞳が慣れてから、今度は少しずつ目を開く。それと同時に瞳孔は閉じていき、瞳は彼女に景色を与えた。

 そこは鮮やかに緑の茂る森だった。陽の光を遮らない、多くなく少なくない木々達。まるで人間が歩くことを考慮されているかのように数センチ程度の短い芝の道が先に続く。

 小鳥のさえずりが生命の存在を示した。

 少女はその森で、限りなく穏やかだった。

 なんて美しい場所なのだろう。

 少女はまずそう思い、幼子の頃初めて「学校」というものを知った時と似たような強い感動を覚えた。

「素敵……」

 口から零れたのはまずその一言であった。意識して出したものではない。ただ心が満ち、満杯になってしまった感動が口から言葉として溢れただけなのだ。

 ここまでに心穏やかで、静かで美しく、微笑みを隠し切れない空間は少女にとっては初めてのものであった。

 近くの木々の枝で色とりどりの小鳥たちがまるで彼女を歓迎するかのように囀る。どれも聴いたことのない鳴き声であったが、少女はこの小鳥たちをよく知っているような気がした。一体どこで知ったのかは全く記憶に無いのだが、やはり何か懐かしい感覚を覚えた。

 小川のせせらぎと共に凪いでいた空気が風に乗り微かな音を立てる。

 この場所の、この空間の全てが彼女にとっては安らぎだったのだ。

 しかし、一抹の不安。少女はこの空間がどこにあり、何故自分がここに訪れたのかが全く理解できなかったのだ。

 このまま帰れないのではないか、一生ここに居ることになるのではないか。そんな不安が、安らいだ心の中で僅かに顔を見せるであった。

 少女が立つ場所から先は一本道である。まるでこの奥に進めと言わんばかりに追い風が少女の背中を押す。

 少女はそんな追い風の誘いに乗って一歩前に進んだ。

 その時初めて、少女のスカートの右ポケットに少々の違和感を感じた。

「なんだろう……?」

 少女は意外と深く作られたスカートのポケットに手を入れ、その違和感に触れる。指の腹で触れた感触だと硬い。木材のような気もすれば、それ以外の材質のような感覚もある。

 何やら金属のようなもので模様が装飾されているようで、その模様を薬指でなぞる。少々複雑な模様のようで、たまにザラッとした感覚になることが確認できた。「違和感」の感触をひと通り把握してから、彼女はそれを取り出した。

 ――――ナイフだ。

 柄から刀身まで全て金属で出来ているようで、刃先は特徴的とも言える反りがあった。どうやら鞘は木材で出来ているようだ。その上から柄や刀身と同じと考えられる金属で装飾が成されていた。鳥の翼にも見えれば、海で起こる大波のような姿にも見える少々抽象的なデザインの装飾であった。

 いつポケットの中に入ったのかは不明だが、少女にはやはりそのナイフに見覚えがあった。

 少女は前を向く。

 何時何処で見て、何故持っているかすら分からないナイフを握りしめ、行くしかないと今にも揺るぎそうな多少の決意をした。

 この安らぎが何時まで、何処まで続くか判ったものではないが、やはり進む以外に状況の進展は無さそうだと本人が緩く自覚し始めたからである。

 握ったナイフを左側のポケットに仕舞う。何せ彼女は左利きだ。

 ――――さあ、行きましょう。

 心の中で自分自身にそう語りかけ、前へ前へ、その脚を動かした。

 暫く歩く。彼女の脳内時計ではせいぜい5分といったところであろうか。実際は60秒ほどしか歩いていない。小川のせせらぎが、だんだんと近づいているような気がしていた。

 さらに歩みを進めると、そこには彼女でも軽く飛び越えられてしまうほどの小さな小さな水流があった。

 これは小川の上流であろうか。勢いも弱く、音に例えればちろちろといったところだ。せいぜい80センチメートルほどの幅しか無い。深さに至っては10センチメートルあるかどうかも判別が難しいほどのものであった。

 しかしその小川は美しかった。陽の光を浴びて宝石のような煌きを帯びていたのだ。その中に更に輝く何かがあることに、少女は気が付いた。

 躊躇わずに小川の中へ手を伸ばし、輝くものを手にとった。

「わ、冷たい」

 緋色の扉のドアノブとはまた違う、気持ちよさのある冷たさであった。夏に氷を口にするような、そんな爽やかな感覚に近いと少女自身が思った。

 だがやはり、その冷たさは金属によるものだったようだ。

 少女は手にしたものを持ち上げる。

 それは紛れもない、金色に光る懐中時計であった。美しく繊細な装飾が成されている。商売や金銭に疎い少女でも、ひと目でそれが高価なものだとわかるほどに、惹かれるものがあった。

 純金で出来ているためか、それとも小川の中に入ってからそれほど時間が経過していないせいか、懐中時計とそこに伸びる50センチメートルほどの細いチェーンには錆ひとつ見当たらなかった。

 やはり少女には、その懐中時計に見覚えがあった。しかし何処で見たのかが思い出せない。心当たりが見つからない。だが何か懐かしい感覚があった。

 その感覚を手放すことが惜しく、少女はそれを臙脂色のポンチョの懐に仕舞った。

 その懐かしさに少しだけ安堵を覚え、美しい小川を軽く飛び越えて、彼女は更に前へと歩みを進めるのであった。

 ――――――――。

 気が付けばそこは、陽の光の届かない深い深い森の中だった。

 少女はいつの間に森が深く、暗くなったのかが分からなかった。僅かな希望を持って進んだはずの道の先が、こんなにも暗く不安にさせる場所だと知った少女は落胆した。

 見上げてもそこには木々があるだけだった。開ききった瞳孔が、僅かな光を捕まえては少女に最低限の視界を与えている状態。爽やかだったはずの木々もまるで彼女を威圧するかのような悍ましい姿に見えた。

 変わったのは明るさと木々の量、小鳥のさえずりの有無程度のものであったが、彼女にとってはたったそれだけの差が世界の見え方を反転させていた。

 戻りたい。戻りたい。彼女はそう心の中で叫びながらも進む足を止めることが出来なかった。

 立ち止まるのが恐ろしかったのだ。振り向くのが酷く怖かったのだ。改めて自身の弱さ、精神面の脆さを知った。

 背後から。側面から。上から、下から、斜めから正面から、自身に突き刺されたものを少女は既に犇々と実感している。

 視線だ。

 人間のものではない。獣のように獲物を狩るような視線とも違うと彼女は本能的に判断した。しかし、その視線は全く良いものではなかった。四方八方から拳銃を突きつけられ構えられているかのような殺意を感じたからだ。今までに感じたことのない、少女を生きた「何か」としか見ていないかのようにも感じられた。

 逃げなければいけない。早くこの暗闇を抜けなければならない。

 歩き続ける少女の視線の先にはまだまだ暗闇が続いていたが、やはりその道は限りなく直線であった。

 全身が緊張で満ち、溢れた分は冷や汗となって少女自身を更に焦らせた。

 振り返ることは出来ない。引き返すなんてもってのほかだ。逃げろ、逃げろ。少女の動物的とも言える本能が彼女自身に強い命令を下していた。

 体は恐怖で震えているが、頭は冴えていた。どうするのが最善なのか、それを判断する冷静さが彼女には十分残っていた。

 震える脚を掌で叩き、気を引き締める。まだ走れる。大丈夫だ。彼女は自身の体にそう言い聞かせる。

 短い初動の後、少女は今自分が出せる全速力で真っ直ぐに走りだした。勿論早いわけではない。少女は運動が得意なわけではないのだ。それでも歩くよりは何倍もマシだと思えるほど、少女はただ走ることだけに集中出来た。

「きゃっ!」

 少女のか細い右腕が、背後から何者かに掴まれた。

 右腕を掴まれた瞬間、少女は転びそうになった。しかしそれさえも許されることなく右腕は引っ張られ、棒立ちの状態にされた。

 茨だ。

 見たこともない、まるで人間の血液でも吸ったかのような紫斑を連想させる悍ましい色の茨が、少女に絡みついていた。それは生きているかのように、動くたびに彼女に絡みついた。

「やだっなにこれっ!」

 茨の刺が少女の身体に食い込み、彼女の服に血を滲ませた。

 咄嗟に空いた左手で茨を引き剥がそうとするが、それは冷静な頭で考えれば間違った判断であった。

 茨を掴んだ瞬間。少女は言葉にならない短い悲鳴を上げて左手を離した。

 左手の平の所々から血が溢れてきたことを少女は自身の目で確認した。茨の鋭い刺は少女に掴むことを許さなかったのだ。

 少女は更に混乱した。既に冷静さの欠片も失いそうなほどに煮詰まった恐怖で埋め尽くされていた。

 掴まれた腕を解こうと藻掻けば藻掻くほど、"それ"は少女の二の腕へ、肩へ、首へ、胸元へ、腹へと絡みついた。

 怖い、怖い怖い怖い。嫌だ、嫌だ。誰か助けて。

 少女の中にそんな言葉だけがただただループするように巡っていた。

 緊張と恐怖のせいで既に声が出ない。必死に舌の形を作って息を吐くも、そこからは酸素の薄い空気が抜けるのみであった。

 もう悲鳴すら上げることも叶わず、涙ばかりがボロボロと零れて少女の視界を埋めるのみであった。

 動いてはいけない。

 本能のように、少女は自身のその命令に従った。動かなければそれ以上茨は絡みついて来なかった。藻掻かなければ茨は少女をそれ以上捕えようとはしなかった。

 左腕と腰から下、そして首から上。現在自由に動かせる身体の範囲だ。幸いにも左手が利き手だった少女だが、いったいこんな状態で何が出来よう。恐怖に埋め尽くされた少女は既に思考すらも儘ならない状態だ。

 それでも「何か、何かないか」と自身の左腕以外を動かさないように自身の周辺を模索した。

 周辺に腕を振るも、空に触れるのみで何も見つからない。腕を振るたびに暗闇の中で自身の左腕から血液が抜けていくような感覚にも苛まれた。茨の棘による怪我は深いものではない。流血も大した事はないが、少女の強い恐怖がそれを深い傷なのではないかと錯覚させていた。

 その時である。

 偶然にも、少女は自身のスカートの左ポケットに手を触れた。

 少女は思い出した。


 ――――――――。


 ナイフの切れ味はなかなかのものだった。

 そう。少女は思い出したのだ。自分の左ポケットに、誰のかも、何時入り込んだのかも分からない救いの刃があることを。

 最初は恐怖や緊張で手が震えて強張ってしまい、左ポケットに手を入れることのみで時間を取られた。さらに少女の中でひしめき合いドロドロになった良くない感情が原因で呼吸が乱れ、抑えきれない分は焦りとなって全身から汗が吹き出したのだ。

 しかし、ポケットに手が入ってからは少女自身でも驚くほど速くナイフを取り出した。ポケットの中で鞘からナイフを抜き去り、そのままの勢いで思い切り茨に斬りつけたのだ。

 ブチブチブチ、とまるで動脈が切れる瞬間を連想させるような気色の悪い音と共に、少女を絶対に離さないと言わんばかりに絡みつき捕えていた茨は渾身の力を込めた少女の刃に切り落とされた。

 茨は全て彼女の右腕を絡めてから全身へ伝っていく形だったため、一度に何本もの茨を切ることが可能だった。

 少女は涙目になって必死に何度も何度もまだ残っている右腕の先の茨へ左手でしっかりと握ったナイフを振り下ろす。

 その度にブチ、ブチ、と嫌な音を立てて茨は切れていった。

 時間の感覚が麻痺していた。彼女にとっては何十分も経過していたように感じたが、実際は十数秒程度の出来事であった。

 やがて全ての茨が少女の右腕から分断され、茨とは逆方向に体重をかけて極端に重心の偏った彼女の身体は自然と倒れる。ある程度の勢いをつけて尻もちをついた。

「いてて……」

 少女が全身で犇々と感じていた恐怖や緊張、焦りといった感情は彼女の脱力とともに身体から抜けていった。分断された後も少女に絡みついた茨は、まるで命を失ったかのようにボロボロと少女の身体から落ちて離れ、残った茨も指で剥がす事が安易であった。

 暫くの間、少女の乱れた呼吸を整える音のみが空間に響いた。やがてふらふらとした足取りで立ち上がり、体勢を立て直そうとしたがまたも尻もちをついた。

 精神的疲労が身体にも影響を出しているといって差し支えないだろう。

「ちょっとだけ、休もうかな」

 動かなくはなったものの、自分を捕えようとした茨を前にした休憩はあまり心地の良いものではなかった。しかし少女の体力を回復させるには十分の環境ではあっただろう。不安だったこの場所の暗さも、まるで拍子抜けしたように平気になっていたのだから。


   *


 ――――。

 少女は「慣れること」と「我慢」が特技であった。

 自然と身についてしまった、彼女自身もあまり自慢の出来ない特技であったが、幼い頃はその特技をよく大人たちに褒められた。

 少女には両親がいない。列車の整備不良による事故によって彼女がまだ3つの頃に亡くなってしまったからだ。幼くして少女は兄と二人きりになってしまった。残った血縁者は当時一度しか顔を合わせたことのない祖父のみであったが、学者であった祖父は現在行っている調査の都合上同じ場所に留まれなかった。そのため、祖父の手続きの後少女と少女の兄は孤児院で生活することとなった。

 自分の他に20人を超える子供がいたためか、我儘の通らない孤児院では大人しくしている子供が一番褒められた。大人しい自分は周りの子供とどこか少し違うと自覚していたが、それでも褒められて悪い気はしなかった為かそれを良しとしたのを今でも少し気に留めていた。

 孤児院で暮らして4年ほど経過した。15歳になる、もしくは里親が現れるなどして子供達は孤児院を去り、それと同等のペースで新たに行く先を失った子供が迎え入れられられて、当初少女が孤児院に来たばかりの頃の半分は孤児の顔が入れ替わっていた。

 新しく入ってきた孤児の中に、一際目立つ存在がいた。この国では見たこともない、真っ白な頭髪を持った少年であった。

 少年は少女と同じであった。何かを頑なに我慢し、一つの我儘も言わなかったのだ。その為か少年はだんだんと孤児院の中でも孤立するようになった。少女はそれが気にかかり、兄にそれを伝えた。

 兄は正義感の強い人間だった。小さな頃から誰にでも優しく、笑顔の見えない同世代の子供をいつも気に掛けていた。そして幾度となく笑顔を失っていた子供を持ち前の元気で救っていた。

 兄は同様に、少年に手を差し伸べた。その後は言うまでもあるまい。兄と少年は、生涯の親友となったのだから。

 やがて兄と少年は15になり、少女と一緒に孤児院を後にした。3人は共に生きることを決めたのだ。少女もその頃にはもう12になっており、沢山の人情の機微に触れてきた。その中には勿論、孤児院内での恋愛も含まれている。複数の女の子に恋愛相談をされた。幾人かの男の子に恋心を告げられた。そんな経験をして、少女もやがて恋をした。否、自らの恋に気付いたと言うべきであろう。

 少女は、白髪の少年を慕っていた。


   *


「……会いたいなぁ」

 少女は白髪の少年の顔を思い浮かべていた。既に少女の中で少年の存在は兄よりも大きなものになっていた。

 こんなことを知られたら兄は何と言うだろうか。それを想像しながら少し微笑んだ。

 少女には既に時間の感覚は薄くなっているが、敢えて言うのであればせいぜい20分から30分ほどの時間休憩していただろう。

 少女はよいしょと呟いて立ち上がり、自身の疲労がある程度取れた事を伸びをしたり軽く飛んでみたりして確認した。これなら暫くはまた歩けるだろうと確信を持ち、少女はまた終わりの見えない道を歩き出した。


 ―――――――。


 最初の休憩から2時間ほどの時間が経過しただろう。

 少女は適度に休憩を挟みながら、終わりの見えない道をただひたすらに、何の目的もなく進んでいた。

 そうやって進んでいる間にも少女を追うように蠢き近づいてくる茨は絶えなかったが、最初の大きな衝撃で慣れてしまったためか彼女は左手に握ったナイフでその茨達を軽く往なしていた。

 やがて、少女の前に今までの道ではない何かが見えてきた。

 広い空間に出た。とは言っても歩いてきた一本道の幅が狭かったためにそう感じるだけであって、実際は先程の道幅5つ分の幅、それと同等の奥行きがある程度のものであった。

 明るさは依然変わらない。鬱蒼と茂る木々が少女を閉じ込めんばかりに囲い、光を殆ど遮断している状態であった。

 少女は警戒して暫く立ち止まりナイフを構えるが、何かが襲ってくる気配はなかった。視線は常に感じているが、もはやそれも少女を狙うと言うよりただ見詰めているだけのようなものに変わっていた。

 少女は安堵の息を一度漏らす。それと同時に少女は、彼女の脚で6,7歩ほど先にある"それ"に気が付いた。

 赤。溶けるような(あか)。溢れるような(あか)。吸い込むような(あか)。この世のものとは思えないほどに澄んだ(くれない)の薔薇が一輪、そこに植わっていた。

 常識的には有り得ない生え方である。薔薇が一輪だけ、数枚の葉とともにそこから顔を見せているのだから。

 しかし、少女はそんな異様な薔薇の在り方は全く気にしなかった。ただただ、その薔薇のような何かを「美しい」と感じたのだ。

 異様なほどに澄んだ鮮血の色。その色に今にも散ってしまいそうな脆弱さと、絶対に枯れ落ちないという永久を感じさせた。

 少女は草花が好きであった。

 暇があれば街のフラワーショップへ、そして街の近くにある丘の花畑へ足を運んでいた。お陰でフラワーショップの店員とはとても仲良しになり、草花に関する知識も相当のものになっていた。

 丘の花畑でも出会いはあったが、彼女の記憶に靄がかかっており、思い出すことが出来なかった。

 あそこで出会った人は一体誰だっただろうか。少女は目の前にある奇妙な紅の薔薇を見詰めながら考えるが、思い出そうとすると吐き気を催し気分が悪くなる一方。それが暫く続いても答えが出ることはなかった。

 この広い空間の先にはもう何もない。薔薇の周りに一定の距離を保って木々や岩が此処に留まれと言わんばかりに彼女の精神を圧迫しているのみ。

 ……一歩前に出る。

 奇妙な薔薇に彼女は近付いた。たった一歩だけで、その紅い薔薇の存在感は何倍にも膨れ上がったように感じられ、少女は後退りしてしまいそうになる。しかし、その後退りさえも許されない。

 薔薇に逆らうことが出来なかったのだ。往くな。留まれ。こちらに来い。そう言われているような気がしてならず、彼女の耳よりも奥の聴覚にその言葉は間違いなく届いていたのだ。

 何故だろう。それが彼女には心地の良いものに感じられた。奇妙で悍ましい、鳴っていないはずの声が響く耳の奥で、少女はただ安堵と多少の快楽で満たされていた。

 やがて彼女は"それ"を当然のように受け入れるようになる。傍から見れば震え上がるほどの狂気に満ちた光景であったが、不幸にもそれに気付ける人間は存在し得なかった。

 更に一歩、少女は薔薇に近付く。まるで誘惑されるかのように頬を火照らせ、辿々しい足取りで確実に傍に寄っていった。

 薔薇が足元まで来ると、少女はそこにしゃがみこむ。少女の瞳は薔薇に近付くにつれて虚ろになり、やがて光を失った。

「そうなんだ。今、少し元気が無いんだね」

 少女は唐突にそう口にした。小さな声であったが、迷いも不安もない声。しかしその声は、既に生きているものとは思えないほど凍える"音"であった。意思の無い絡繰り人形と同等であった。

「お水が欲しいの? ……分かった。取ってくるね」

 無論、少女の他に声を発するものはいない。

 少女を喰い尽くそうとするこの悍ましい灼熱色の薔薇が、少女に語り掛ける振りをしているのだ。人間の真似事をし、人間を陥れようとしているのだ。

 

 ――――――――。


 どれほど時が過ぎ去っただろうか。

 途方も無い時か、刹那的な時だったか。もう誰にもわからない。

 少女からは、既に時間の感覚が失われていた。一心不乱に鮮血の薔薇に水を与えてるのみ。

 鬱蒼と茂り光を遮る木々に隠れていた小さな泉。そこに覚束ない足取りで近付き、その細く小さい両手で水を掬っては、ふらふらと薔薇の元に歩いて戻る。その間にも力の入りきらない少女の掌の器からは、透き通った綺麗な水が指の隙間を通り、彼女の白い腕を伝って零れていく。

 薔薇の下に辿り着く頃にはもはや濡れた掌しか残っておらず、指先を下に向けて濡れた手から表面張力を突破した水滴をぽたぽたと落とすのみであった。

 その一連の動作はまさに操り人形そのものであった。生気を失った瞳と体に、上から無数の見えない糸を吊るして操っていると言われても不自然ではない程に。

 一つ一つの動作に彼女の力が入っていない。

 彼女を操れるものが居るとすれば――――そう、このこの吐き気を催すような気色の悪い紅の薔薇であろう。

 薔薇は操っているのだ。水を寄越せと言って。彼女は従うしかなかった。拒むという選択は、彼女の中からすでに削除されていた。

「まだ、足りない? ……そっか、じゃあもっと持ってくるね」

 薔薇に向けられた言葉であったが、独り言にしか見えない。

 彼女には、彼女だけには聞こえているのだ。薔薇の声が。

 しかし、その薔薇の悪意に満ちた何かに気付くことは出来なかった。唯只管、満足するまで水を与え続けている。

 もう、救えない。誰が見てもそれは明らかであるほどに、少女は何度も何度も薔薇に水を与え続けている。

「うふふ、元気になってね」

 もはや人間の微笑みではなかった。

 彼女は気付いていない。水を与える毎に、薔薇の根本の茨が増えている事に。

 彼女は気付いていない。水を与える毎に、彼女の全身は茨に絡みつかれている事に。

 彼女は気付いていない。体がだんだんと茨に絡まれて動けなくなっている事に。

 彼女は気付いていない。もう既に水ではなく、彼女自身が薔薇の養分になっていることに。

 彼女は気付けない。最早人間の感情は眠っている。

 彼女は気付けない。この恐怖にも、この痛みにも、この絶望にも。

 彼女は気付かない。もう二度と、この悪夢から逃れられない事に。

 彼女は、望みもしない笑顔を貼り付けたまま、動かなくなった。




 ―――――――――――――――。




 悪夢は未だ続く。


 動かなくなった少女の前に、一人の男が降り立った。

 全身を黒い衣装で覆い、フードを深く被っている。辛うじて見える顔の下部分に皺や髭がなく綺麗で、線の細い体をしていたところから、まだ若い、下手をすれば少年の域である可能性も否めないだろう。

「こんなみっともない顔をして、最期はこんなものか」

 独り言を言う。少女のように薔薇に話しかけていたのではない。唯々呆れたように声が漏れた。

「弱い精神だ。現実世界でもきっと、まるで何かに依存するかのように生きてきたのだろうな」

 少女の精神が壊れるのが早すぎて、男には退屈だったのだ。

 赤は攻撃の色。興奮の色。警告の色。

 しかしこれほどまでに鮮やかで美しい赤色はないだろうと、足元の薔薇を見ながら思った。自分で創りあげたものではあったが、やはり多少の感動はあっただろう。

「次はもう少し骨のある<アリス>が来てくれると面白いんだけどな」

 口角を上げて気味悪く笑うと、男は足元の薔薇をどうでもいい小石のように踏んづけて姿を消した。

 男が消えた後のこの空間には、もう何も残されていない。

 『生命』は既に停止している。誰も観測できる者は居ない。

 男が望むのならば、彼女のように扉を開くものは後を絶たないだろう。


 そう。悪夢は、まだ続く。




  to be continued


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