最終話 緋色に染まる宵闇の水
冷静な猩々が顔を青ざめて駆け寄るのを、八重子はぼんやりとした目で見ていた。なにごとかと尋ねる前に、猩々の腕が八重子の身体を抱きかかえていた。
「猩々?」
「逃げるぞ」
一体なにが起きたのか、彼の羽織を濡らしたものに気付いた瞬間理解する。
「貴方、血が!?」
緋色の羽織のせいで気付けなかったが、彼の背中にはべっとりと赤黒い血が滲んでいた。多少の怪我ならすぐに治る彼が、これほどの血を流していることに八重子は言葉が出ない。
「黙っていろ」
猩々は苦痛の表情を見せながら八重子の身体を抱きしめ、跳躍する。気付けば夜空に浮かんでいた二人だったが、八重子は鍾乳洞を見下ろし絶句した。
「あれはなに……?」
松明を手に多くの人間が森を切り開きいて進んでいるのが見えた。血走った眼で槍や弓を手に持つ集団は、脇目も振らず鍾乳洞を目指している。
「……お触れとやらが出回っている。森に住む、物の怪を退治したら金が出ると」
「そんな」
「先日外出した際に、森で狩りをしていた人間に見つかったらしい」
空に浮いている明らかに人外のものを見て、人間たちは恐怖に陥った。総出で化け物を退治してやるとばかりに、数え切れないほどの人が押し寄せている。
「すぐに別の場所に――っ」
突如急降下していく二人の身体だったが、かろうじて猩々は力を込めた。しかし背中の傷が痛み集中力に欠け、上手に力を操作することは困難だった。
「猩々、あそこなら人も少ないわ。降りましょう。このままだと二人とも落下してしまうわ」
八重子は森の中にある人気の無い湖の方を指さし、猩々は言われるまま最期の力を振り絞りその場へと降り立った。
地面に足がつくなり崩れ落ちた猩々に、八重子は慌てて駆け寄る。着物を脱がせ、彼の背中についた傷跡を確認し顔色を失う。
「ひどい、どうしてこんな……。治らないの?」
「おそらく矢に質の悪い呪詛が施されていた」
普通の弓矢であればすでに猩々の傷は治っていたはずだった。けれど物の怪にも効くように呪いが施された矢は、彼の背中に火傷のような傷を残していた。爛れてた傷跡は痛々しく、回復する気配もみられない。
「……一人で逃げろ」
「なにを言っているの」
「お前はほとんど人間と変わらない。我に拐かされていたといえば助けて貰えるだろう」
「嫌よ!」
八重子は絶叫し、彼の傷に触れないように肩に抱きついた。
「夫を置いていくなんて出来ないわ。当たり前でしょう」
猩々が振り向き、細い少女の腕をとり己の胸にかき抱いた。額にそっと口づけが落とされ、八重子の肩がわずかに震える。
「ここから北へ歩いて行けば人里に出る。そこへ行くが良い」
「猩々……」
「お前の目の呪いもほぼ消えかかっている。今ならば一人でも逃げられるはずだ」
嫌々とかぶりを振る八重子を宥めるように、猩々は少女の髪の毛を梳き何度もそこに口付けた。
次第に嗚咽を漏らす八重子を優しく抱きしめ、猩々は息を吐いた。
「泣くな。お前に涙は似合わぬと言ったはずだ」
「だって……っ!」
「我の願いを聞き入れてはくれぬか」
「そんなの聞けるわけがないでしょう! 貴方のいない世界なんて、私にはもう耐えられない」
むせび泣く八重子の唇に指で触れ、そしておとがいをを持ち上げ口付けた。彼の口の端から滲む血が、八重子の桜色の唇を赤く染めた。
「ならば無理にでも逃がすまで」
「猩々……? 貴方、なにを――」
少女の言葉は最後まで紡がれることはなかった。その前に、猩々は残った力を振り絞り八重子を遠くへ飛ばしていた。
「……行ったか」
今の猩々では、彼女を遙か遠くまで飛ばす力は残っていない。せいぜい、多少離れた場所へと誘う程度だった。それでも、今この場所にいられるよりは良いだろう。
「幸せになれ」
猩々はゆらりと立ち上がり、湖の中へと入っていく。
それと同時に、一斉に火矢が放たれ今まで八重子がいた場所を貫いた。
「覚悟しろ化け物が!」
ひとりの男が叫ぶ声がこだまし、次々と火矢が猩々を襲う。しかしそれを避けることはせず、猩々は右手を振り上げた。
「愚かな」
猩々の言葉と同時に、背後にあった湖が振動し勢い良く水柱を立てた。まるで意思をもつかのように、水柱は線を描き敵へと向かっていった。
「我は猩々」
物の怪の正体を、一目で判断した八重子には驚かされた。もっとも、彼女は単純に色だけで猩々と名を付けただけだったが。
「猩々とは水の精。その我に、水場で戦を仕掛けるなど笑止」
緋色を身に纏うために炎を連想させる猩々だったが、実際には水を司る物の怪だ。
猩々の命令通り水はうごめき、大勢の人間の命を奪っていく。
「……八重子には見せられぬ」
好戦的な今の姿を、八重子にだけは見られたくなかった。
純粋に自分を慕う、穢れなき少女にだけは――。
「うわああ」
人間たちの悲鳴がとどろき、逃げ惑うもの、錯乱し武器を片手に突撃するものがいる。けれど猩々はそれらを全て水の力で切り伏せる。
しかし猩々のほうも無傷ではいられなかった。いくつもの火矢が水を避け、彼の身体に突き刺さる。呪詛のかかった矢が刺さった場所からはすさまじい痛みが襲い、猩々の意識を奪おうとする。それでも男は、倒れることなく襲いかかる人間たちを倒していく。
「くっ……」
力の加減が近づいてきているのが猩々には良く分かる。尽きそうになる力と命の灯火に、猩々は苦痛の表情を浮かべた。
「……これまでか」
大方の人間は倒せたはずだった。八重子が人里に向かう程度の時間稼ぎはできただろう。
その場に崩れ落ち、猩々は四つん這いになり肩で大きく息をする。
口から血の塊を吐き出して、拭うこともせずに真っ正面を睨み付けた。
「化け物が!」
生き残った男が矢を放ち、しかし猩々はそれを避けようとはせずに目を瞑った。
胸に突き刺さる火矢――しかし、猩々がいくら待っても衝撃は襲ってこなかった。
訝しげに瞼を開け、猩々は顔を強ばらせた。
そこにあったのは、猩々を庇うように両手を広げ胸に矢を突き刺した少女の姿。
「八重子!」
後ろに崩れ落ちそうになった少女の身体を抱き留め、猩々は懸命に名を呼んだ。
「しょ……じょう」
「喋るな」
呪詛のかかった矢は急速に八重子の命を消そうとしている。必死で手のひらで止血するが、流れる血の勢いは留まることをしらなかった。
猩々は怒りにまかせ、湖にたまる水を人間たちに叩きつけた。
ようやく静かになった辺りに胸をなで下ろしながらも、猩々は八重子に向かって叫んだ。
「なぜ、なぜ戻ってきた!」
「……妻は、どんなときでも夫の側を離れないものなのよ……」
蒼白の表情で微笑み、八重子は震える手を持ち上げた。猩々はそれをしっかりと握りしめ、冷たくなっていく少女を抱きしめた。
八重子の身体から流れる血が湖に流れ出し、ほの暗い色を携えた水は猩々が持つ緋色のように赤く染まっていく。
「死ぬな」
「……おかしいわね。貴方と離れるのが悲しいのに、でもこれで私のことを忘れないだろうと思うと、とても嬉しいの」
「決して忘れぬものか。……我が妻、八重子よ」
「……ありがとう。……猩……々」
「八重子……?」
猩々は何度も少女の名を呼び続けるが、閉じられた瞼が再び開かれることはなかった。
冷たくなった頬に触れ、猩々は涙を流しながら自分の羽織で少女を優しくくるんだ。
緋色の羽織が湖に浮かび、暗やみの中でもはっきりと映し出された。
「……祝言を挙げよう、八重子。我らは未来永劫共にあると」
猩々は、彼女の身体を抱きしめて湖の底へと二人で沈んでいく。
八重子の血で緋色に染まった水面を残し、二人の身は二度と浮かび上がることはなかった――。
あるところに、年に一度の宵闇に、森の中の湖が色を変えるという伝説があった。
それは、目の見えぬ少女と物の怪の悲恋にまつわるものなのだと。
猩々と呼ばれた水の精は、愛しい妻を誰にも見せぬよう水面の底へ隠しているのだという。その妻は、愛しい夫のためにいつも琵琶を弾くという。
だから、湖が緋色に染まる日はどこからともなう琵琶の音と、それに合わせて舞を踊る足音が聞こえるのだという。
それを見た者は未来永劫幸せな夫婦になれると言い伝えられているが、誰も目にしたことはない。
少女と物の怪の逢瀬は、今はまだ二人だけのものだから――。