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第三話 記憶

 ゆるやかに刻は流れ、八重子が猩々と暮らしてから一年が経とうとしていた。

 八重子が琵琶を奏で、猩々が舞を披露するというのが日課になりつつあるということ以外、二人の関係が大きく変わることはない。


 変化があるとすれば、彼と過ごしていく内に八重子の視力が戻りつつあるということだ。子どもの頃と同様とはいかずとも、生活に支障がない程度は見えるようになっている。


「外へ行ってみるか」


 ある日、突然に猩々にそう言われ八重子は驚いて目を丸くした。


「良いの?」

「外出を禁じた覚えはない」


 言われてみれば、八重子は一人で出歩くのが危ないと言われたことはあれど、外へ出ること自体咎められたことはなかった。


「嬉しいわ、猩々。でも、どうやって行くの?」


 人里離れたこの場所には、牛車も馬もない。けれど彼は毎日のように外に出て、どこからか食事を手に入れてきていた。


「飛ぶ」


 どういう意味かと問う前に、猩々は八重子の細い身体を抱きかかえた。そして、その姿が鍾乳洞からふっとかき消える。

 八重子は身体に衝撃を感じて思わず目を瞑った。そして、全身に風を感じて恐る恐る目を開いた。


「――っ! 凄いわ猩々!」


 彼に抱きかかえられたまま、八重子の身体は空を飛んでいた。眼下には、八重子たちが住まう鍾乳洞の入り口がうっすらと見える。深い森を目で追い、その先にある町並みに心を奪われた。


「あれは私が住んでいた場所?」

「そうだ」

「凄い、凄いわ猩々。空を飛べるなんて。貴方はこんな力もあったのね」


 視力を取り戻しつつある目に、多くのものが飛び込んでくる。

 緑の深い森、紺碧の海、羽ばたく野鳥――それらが、どれも八重子には新鮮だった。


「……世界はこんなにきれいなのね」


 もう忘れかけていた、世界を彩る多くの色を楽しんみ感激の声を上げる。すると、ぽつりと猩々が呟いた。


「お前はあそこへ戻ろうと思えば戻れる」


 彼が指しているのが、遠くに見える都だと気付いた。


「今のお前なら、父親も受け入れるだろう」


 視力の戻った今なら、八重子が幽閉されることもなくなるだろう。父が無事なのかと気になる気持ちもあった。

 しかし八重子は首を横に振って否定する。


「今更戻ってもどうしようもないわ。私はとうに死んだと思われているでしょう。それに私の歳なら、早々に婚儀を挙げさせられるに決まっているもの」


 八重子の年齢ならどこかの家に嫁いでいても不思議ではない。目のことさえなければ、むしろ今頃もう誰かの妻になっていた可能性が高かった。


「婚儀? ……そうか、人間は誰かを妻や夫にするものだったな」

「物の怪はそういうことはしないの?」


 物の怪にも男型や女形がいるのは知っているため、八重子は不思議そうに問う。現に、彼が言うには八重子の母も物の怪でしかも出産までしているのだ。


「結婚という形に縛られることはせぬ」

「そうなの……?」


 落胆しながら首を傾げ、八重子は嘆息した。

 もう一度眼下を見下ろし、彼の腕にすがりつく。


「降りるか」

「……そうね」


 彼女が寂しげに顔を伏せたのを、遙か高いところにいるのを恐れたと思った猩々が言い、八重子も頷いた。

 再び二人の姿はかき消え、あっという間に八重子たちは鍾乳洞の中へと戻っていた。

 二人はいつもの場所に腰をかけ、猩々はまた酒を取りだした。


「ねえ猩々」


 八重子は隣で酒を飲む猩々に向き直った。


「そういえば、貴方の名前ってなんて言うの?」

「……猩々ではないのか」

「それは私がつけた名前でしょう。本当の貴方の名前よ」


 猩々は八重子を一瞥してから口元に酒を運んだ。


「忘れた」

「もう、そんなこと言って」


 むくれた八重子だったが、猩々は首を横に振った。


「我に名付けをしたものはもうこの世を去り、名前を呼ばれなくなって久しい。故に忘れた」

「そう……」


 彼の真名を知れないことは寂しいが、猩々という名を嫌がってはいないことに安堵する。


「でも、物の怪にも親がいるのよね」

「だがそれすらも忘れた。遙か遠くの記憶ゆえ、もはや思い出すことは不可能だ」


 数千年の刻を歩む猩々にとって、昔々の思い出は曖昧だった。多くの記憶は、新たな記憶に上塗りされて消えていく。


「なら、私のこともいつかは忘れてしまう?」


 八重子にとって長い刻を過ごしても、猩々にとっては一瞬の出来事に過ぎない。わずかな刻を共にいても、彼はいつかは忘れてしまうのだ。


「……その時にならねば分からぬ」


 彼は忘れないとは言ってはくれない。気休めを言う男でもない以上、八重子が喜ぶような言葉は一生伝えてはもらえない。


「忘れると即答されないだけ、良かったと思うことにするわ」


 本音を言えば、忘れて欲しくないし覚えていて欲しい。八重子という、猩々に好意を持った女がいたことを。


「お前は酷な女だな」

「なぜ?」

「お前は我より先に死ぬからだ。忘れてしまったほうが良い記憶もある」

「猩々は、私を忘れられないと辛い?」

「そう思いたければ、思えば良い」


 辛い記憶ほど、消し去りたいものだ。八重子の死を辛いと思うなら、それは猩々にとって八重子が大きい存在だと言っているものだった。

 だから少女は破顔し、男の側に寄り添った。


「嬉しいわ」

「……本当に酷な女だな」

「ねえ、猩々。私を妻にしない?」


 突然の八重子の言葉に、猩々はむせ混み緋色の目を丸くした。しかしすぐにしかめ面になり、横を向く。


「くだらぬ」

「どうして」

「お前は正気でないのだ。それとも我の隙をみて酒でも飲んだか」

「失礼ね。一年も一緒に生活して、私に手を出そうともしない貴方のほうが問題よ」


 再び酒を吹き出しそうになる猩々は、呆れ顔で八重子を見た。


女子(おなご)がそういうことを口にするものではない」

「本気なのに。妻になれたら、貴方の記憶にもずっと残れると思ったの」


 唯一無二の存在として、八重子を彼の心に刻むことが出来たのならば、数千年の刻を経ても彼の記憶に残るかもしれない。すべては可能性の問題で、断言はできなくても期待はできる。


「それとも私はそんなに魅力の無い女?」

 

 顔を曇らせ、猩々の顔を不安げに見つめる。

 彼と出会ってからたった一年、けれどその期間で八重子も成長したと自負している。彼への想いは変わっていない。けれど、猩々にとって八重子は拾った童子のままなのだろうか。


「我らに妻や夫の概念はない」

「でも知識としては知っているでしょう? 大事なのは気持ちよ。私は貴方の妻になりたい。あとは猩々が私の夫になっても良いという気があれば、それで構わないわ。祝言を挙げるわけでもないもの」

「本気か」

「そう言っているでしょう」


 八重子は猩々へと手を伸ばし、彼の長い緋色の髪に触れた。ぴくりと猩々の肩が動くが、気にせずそのまま彼の胸に飛び込んだ。


「私を妻にして、猩々」

「……我は醜い」

「貴方はとても素敵よ。今日見た景色のなによりも、あなたの色が一番素敵だった」


 彼の世界はとても華やかで、八重子は美しいと思う。猩々の緋色は八重子の心を奪って放さない。


「しょう――」


 八重子の言葉は途中で途切れる。彼の力強い腕が、八重子の頬を持ち上げ唇が吸われてたからだ。


 猩々緋から連想するのは燃えさかるような炎と熱。

 けれど彼から与えられるのは、その色の印象とは正反対の冷たさだ。その冷たさが、八重子の唇を飽きることなく触れている。 固い岩場にゆっくりと身体を押し倒されて、ようやく唇が放される。


「後悔せぬか」

「しないわ」


 即答し、猩々の首に腕を回して抱きしめた。

 ――そして二人は、誰にも祝福されることないまま夫婦となった。





「猩々、どうしてあの日、私を助けたの?」


 身体を横たえた状態のまま、隣で眠る猩々に話しかける。

 男は気だるそうに目を開けると、八重子との出会いを思い出すように鍾乳洞の天井を見上げた。


「……琵琶の音」

「琵琶?」

「時折屋敷から聞こえる琵琶の旋律は、酒のつまみになった」


 毎日のように八重子は琵琶に触れていた。あの日も猩々は、彼女の音に引き寄せられるように屋敷へと立ち寄っていた。


「屋根の上で酒を飲んでいたら、屋敷に火が回っているた。それまで奏者のことなど気にもしていなかったが、つい気まぐれで見に行った」


 琵琶は本来男性が楽しむものだ。猩々も彼女の姿を見るまでは、てっきり名のある武家の男かと思っていたが予想は外れた。

 そこにいたのは、誰に助けを呼ぶでもなく、死を覚悟してその場に座る少女の姿。


「お前が物の怪の血を引いているのは想定外だった」

「なら、猩々は前から良く屋敷に来ていたの?」

「……ああ」


 人の目に猩々の姿は映らない。ならば屋敷に潜り込むのは簡単なことだっただろう。

 頷く猩々の胸に八重子はすり寄った。


「私の琵琶が好きだったのね」

「悪くはない」


 曖昧な返答だったが、猩々の性格を考えれば充分な答えだ。八重子は嬉しそうに微笑み、冷たい身体を温めるように猩々に抱きついた。


「好きよ猩々。私の夫」


 猩々は黙ったまま何も言わない。けれど、八重子の背中に回された腕が強かったことに満足して、そのまま疲れた身体を休めるために目を瞑った。

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