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第二話 舞

 猩々は酒が好きらしい。

 八重子がそう気付いたのは、彼と過ごして二ヶ月の時が流れた頃だった。

 彼には常にお酒の香りが漂っていた。香りからして強いお酒なのだろうと八重子は睨んでいるが、彼が酔った姿は一度も見たことがない。


「ねえ猩々。私にも一口頂けないかしら」


 八重子が懇願してみると、男はにべもなくそれを黙殺した。少女にお酒を飲ませるつもりは全くないらしい。

 仕方なく濃い酒の香りを楽しみながら、八重子は彼の隣で食事をとる。


「……旨いか」


 彼はいつもどこから調達してきたのか、八重子のために温められた食事を与えていた。けれど、これらをどこで手に入れたのか聞いたことはない。おそらく真っ当な手段でないとは分かってはいるが、咎めることはしない。八重子のためを思って手に入れてきてくれていることは分かっていたからだ。与えられるだけの八重子に、彼の手段を咎める権利などないのだ。


「おいしいわ、いつもありがとう猩々。……でも出来れば庶民の食べ物は止めて欲しいの」

「口に合わぬか」


 良家の姫らしい我が儘と捉えられたかもしれないが、それでも構わなかった。さすがに困窮している庶民の家から盗み出した食事は居たたまれなかったというだけだ。金持ちの家だろうと盗みには違いないのに、自己満足だと八重子は思う。


「貴方はご飯は食べないの?」

「本来、物の怪は食事を食べずとも生きてゆける」

「私は食べないとお腹が空くわ」

「お前は合いの子だからだろう」


 ぐびりと酒を呷りながら、猩々は考え込むように立て膝をついた。そして、ぽつりと口を開く。


「お前に渡す物がある」

「贈り物? 嬉しいわ、なに?」


 男は黙って八重子へと贈り物を彼女の膝へと置いた。少女は細い指でそれをたぐり、それが何なのか気づき驚いた声を上げた。


「これは琵琶?」


 琵琶をなぞると、馴染みのある質感に触れる。形態、弦の張り方すべてが良く知るものだった。


「……焼け落ちたのだと思っていたわ」

「修復に時間がかかった」


 無傷ではいられなかったのか、琵琶にはやや傷がついていた。この一ヶ月の間で、修復を頼んでくれていたのだろう。


「弾いてくれ」


 彼に促され、八重子は久しぶりに触れる琵琶を抱えた。


「どんな曲が好き?」

「任せる」


 元来彼はあまりお喋りな性格ではない。淡々と言われると、本当に彼が琵琶の音を聞きたいのかと疑問に思うが、八重子は言われたとおりに琵琶を紡ぎ出す。選んだ曲は、物悲しい旋律だ。


「貴方は琵琶の音が好きなの?」


 手は休めずに八重子が問うと、猩々はわずかに頷いた。


「……酒のつまみにはなる」


 遠回しな言い方だったが、彼なりに琵琶が好きなのだと伝わった。八重子は嬉しくなり笑顔で琵琶を弾き続けた。

 外が暗くなった頃にようやく音を止めた八重子は、滲む汗をぬぐいとった。


「どうだった?」

「まあまあだ」


 つれない言葉だが、反して猩々の顔がどこか穏やかで、八重子は満足そうに頷いて彼の隣に寄る。


「猩々もなにか得意なこととかある?」

「得意、か?」


 考え込むように猩々は俯き、逡巡しながらも呟いた。


「舞なら」

「舞!? 猩々が舞!?」

「……似合わないか」


 少し傷ついたような顔の症状に、八重子は慌てて首を横に振る。


「そういうわけじゃないわ。ただ、猩々がそういう芸事を嗜んでいるとは思わなかっただけ。見せてくれる?」

「嫌だ」


 いじけるような声色でそっぽを向かれ、八重子は気付かれないように小さく笑う。

 猩々の手に触れて、


「お願い」


 本当に彼の舞が見てみたいのだと、懇願するように告げると猩々はしぶしぶ頷いた。


「分かった。ついてこい」


 てっきりこの場で舞を披露してくれるのかと思いきや、場所を変えるようだった。八重子は琵琶を持ったまま、彼に手を引かれるまま後を追う。


 目的地は八重子が思ったよりも存外と近く、鍾乳洞の奥まった所だった。地下水が湧き出て大きな湖が作られた場所は、八重子たちが生活する場所よりも冷たい空気が漂っていた。

 八重子の目にも、はっきりと美しい緋色の姿が映っている。そして、なぜか彼の周りの水景色も。


 こうして彼の側で過ごし始めてから、八重子の視力が徐々に戻りつつあった。日常生活にはいまだ多少の不自由はあったものの、おぼろげながら今自分がどういう場所にいるのかは分かるようになった。


 猩々に相談すると、少し言い辛そうに「解呪の効果と……我と共にいることで、お前の性質がより物の怪に近づいたからだ」と言われたのだ。

 物の怪に近しいと言われても、悲しいと思ったことはない。むしろ、毎日目に映る物が多くなるにつれ八重子の心は喜びで一杯になる。


「猩々、ここは地底湖なのかしら」

「そうだ」


 宵闇のような色をした湖は、とても深く人の身ではあっという間に溺れてしまうだろう。


 猩々は八重子の手を離すと、一人地底湖への中へ足を運んだ。てっきり沈んでしまうのかと思い心配した少女だったが、猩々は足首まで水を浸らせただけだった。


「驚いたわ。水面に浮いているの?」

「浮いているわけではないが。……説明が面倒だ」


 猩々は八重子へ説明を放棄し、水を足で撥ねながら湖のふちで立っている八重子に向き直った。


「琵琶を弾け」

「分かったわ」


 言われたとおりに八重子はその場に座り込み、再び琵琶を手に取り奏で出す。

 そして同時に、猩々は目を瞑りその場でひらりと舞を踊り出した。


 優雅に腕を動かし、軽やかに足を運び、猩々は八重子の音色に合わせて舞った。彼が身につける猩々緋の羽織物が宵闇の水に浮かび上がる姿は扇情的で、八重子はいつの間にか琵琶を弾く手を止めて彼の姿に心を奪われていた。

 それでも猩々は舞い続ける。彼の動きがあまりにも扇情的で、八重子は思わず頬を赤く染める。


 一体どれくらいの刻が経ったのか、それすら忘れるほど少女は彼の姿に釘付けだった。


「琵琶は弾かぬのか」


 ふいに動きを止めた猩々に尋ねられ、八重子ははっと我に返る。


「ごめんなさい。とても素敵で見惚れていたわ」

「……そうか?」


 猩々の顔はやや乱れた前髪のせいで見えなかったが、どこかその声色には照れが混じっているようだった。


「素敵よ、本当に。こんなに素晴らしいものをこの目で見られるなんて、思ってもいなかった」


 視力を失って以来、色褪せていた八重子の世界に彩りを与えた男と出会えた奇跡。八重子はそれを思うと胸がつまる。


「……泣いているのか」

「え?」


 いつの間にか八重子の前で跪いた猩々に、荒れた指で目尻を拭われていた。自分が涙を流していることに気付き、八重子は顔を伏せようとした。しかし猩々がそれを許さず、柔らかな頬を両手で挟み込み顔を上げさせる。


「泣くな。お前に涙は似合わぬ」


 猩々のかさついた唇が八重子の涙を拭った。まるで冷たい水のようなひんやりとした唇が触れる度に、八重子の顔が熱くなる。


「猩々! もう泣いていないわ」

「そうか」


 素っ気ない態度の猩々に、八重子はなぜか一抹の落胆を覚えた。


「……猩々、ありがとう」

「礼には及ばぬ」


 猩々は八重子の手をとり、立ち上がらせる。よろよろと覚束ない足取りで、彼に連れ荒れるままに地底湖をあとにした。


「猩々。私は貴方とずっと一緒にいられるかしら」


 人間と物の怪という、相容れぬ存在。それでも八重子は彼と共にいたいと思う。


「知らぬ」


 けれど猩々は突き放すようにそう言った。


「我は少なくとも残り数千年の刻を過ごせるが、お前は違う。物の怪の血を引いていれば人間よりは寿命は長く生きられるだろう。けれど、もって百年、二百年だ。人間からすれば長い刻だろうが、我からすれば人生の経った一部分にしかならぬ」


 八重子に背を向きながら、珍しく饒舌に話す。


「いくら物の怪の血が流れているとはいえ、お前の身は両名以外は生身の人間と大差ない。怪我をすれば血は流すし、食事を取らねば飢えて死ぬ。一方我は食事もしなければ、傷の治りも早く、その身は大きく異なる」


 未来永劫ともにいることはできないのだと告げる猩々だったが、八重子は知らずの内に笑顔になっていた。


「それって、逆に言えば私が死ぬまでは一緒にいてくれるってことよね。百年、二百年ずっと一緒に過ごしてくれるの?」


 しくじったとばかりに猩々が顔を歪ませる。


「そうは言っておらぬ」

「そう意味でしょう」

「違う」


 堂々巡りの口論に、ついに八重子は吹き出した。猩々は面白くなさそうな表情だったが、八重子は気にせず彼の隣に並んだ。


「好きよ猩々」


 ふと自然に紡いだ言葉が口からこぼれる。無意識だったが、嘘偽りのない本音だ。


「好き」


 再び伝えると、猩々はぎょっとしたように飛び上がった。


「なにを言うのだお前は」

「だって、本当のことだもの」


 彼が好きだと自覚さえしてしまえば、彼に対する戸惑いや恥じらいも納得だった。


「……解せぬ」


 怒るよりも戸惑いのほうが大きいらしい猩々は、眉間に皺を寄せて黙り込んでしまった。それでも繋がれた手を放すことはせず、ひんやりとした手のひらを感じながら八重子は口元をほころばせた。

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