第一話 猩々緋
「猩々? 猩々、いないの?」
八重子は手探りで鍾乳洞の壁をつたいながら、透明感のある声で男の名を呼ぶ。声は反響し遠くの方まで届いているはずだったが、少女が探し求めている男の姿は現れない。
何度も名前を呼びながら、八重子は豪奢な着物の裾を引きずりながら歩いて行く。
彼女の瞳には周りの景色は映らない。光を知らない二つの眼差しを携えながら、八重子は男を捜し続ける。
「猩々? ……あっ」
足下に転がっていた大きな石に気付かず足を引っかけ、八重子の身体は大きく傾いた。
しかし彼女の身体が岩場に倒れ込む寸前で、何者かの腕が彼女の身体を抱き留めた。
「なにをしている」
「猩々、やっと見つけたわ。どこへ行っていたの?」
男が不機嫌な声を上げるにもかかわらず、八重子は嬉しそうに微笑んだ。
「一人で出歩くな」
忠告しながらも、男の手は優しげに少女に触れて身体をまっすぐに立たせた。
「朝一番、貴方の顔を見ないと落ちつかないのよ」
視力を失ったはずの八重子の両目――。
しかし、彼女が唯一視認できるものがいる。それが目の前の男、猩々だった。
「……我の顔は、有り難がるものようなものでもない」
眉間に皺を寄せ、猩々は嘆息しながら少女の手を引く。しかし八重子は少し怒ったように頬を膨らませた。
「そんなことないわ。猩々の色はとてもきれいだもの」
容姿だけをみれば、猩々は決して良いとはいえない。しかし八重子が気に入っていたのは彼が身に纏う色だった。
――猩々緋。
父が好んで羽織に使用していた、血のような赤色。男はその色を髪と目に持ち、さらに同色の着物を好んでいた。
「お前は自由だ、好きにしろと言ったはずだ」
「だから貴方の言う通り、好きにしているじゃない。猩々の側にいたいって」
笑みを崩さない八重子に、諦め心地に男は息を吐き少女を連れて鍾乳洞の奥へと戻っていく。
目の見えぬ少女と、人間にはありえぬ緋色の目と髪を持つ男との出会いは、遡るほど一ヶ月前のことだった――。
「姫様。ご夕食のお時間でございます」
衣擦れの音と下女の声を聞いて、布団に横になっていた少女はわずかに瞼を開いた。
裳着を迎えてまだ数年しか経っていない少女は、あどけない表情で布団から起き上がる。
少女は声が聞こえた方へと顔を向けるが、その瞳に光は宿されておらず、わずかに視線もふすまからは外れていた。
「そこに置いて」
「かしこまりました」
八重子の指示に下女がいなくなった気配を感じてから、少女はずるりと膝で畳を這ってふすまにたどり着く。手探り状態でふすまを開け、そっと指でお膳の場所を確認してそれを引きずりながら部屋の中へと戻った。
名のある武家の姫君とは思えない所作だと自身でも思うが、以前立ち上がって食事を取りに行き蹴飛ばしてからはこの有様だった。
手前にお膳を並べ合掌をしてからすまし汁を口に運ぶ。しかし、あまりの汁のぬるさに八重子は眼を細めた。
眼の見えない少女が火傷をしないよう慮ったせいか、それとも余り物なだけなのか八重子には分からない。
早々に食事を食べ終え、再びお膳を廊下へと押し出した。こうしておけば、下女が八重子には声もかけずに持ち去るはずだった。
そのまま布団には戻らず、ゆっくりと立ち上がり枕元に置いてある琵琶へと近づいた。
腰を下ろし琵琶を抱きかかえて軽くつまびくと、張りのある音色が室内に響き渡った。
八重子はそのまま音色を奏でる。
父からのお下がり品のため、大変質の良い琵琶は優雅な音を出す。琵琶は、目の見えない八重子でも楽しめる、数少ない娯楽品だ。この贈り物を受け取った日が、たとえ父と言葉を交わしたのが最期の日であっても、少女にとっては大事な思い出だ。
琵琶の音色はどこか物悲しげな旋律だ。八重子はひたすらに指を動かし、琵琶の音に没頭する。
どれほどの時間が経過したのか、ようやく八重子は周りの異常さに気付いた。
慌ただしい人が走り回る足音と、そして焦げ付く臭いと肌を焼くような熱さ――。
それが火事だと気付いたときには、すでに八重子の周りは炎で包み込まれていた。
狂乱する人の声を遠くで聞きながら、八重子は静かに琵琶を抱きかかえた。
一体今どのくらい屋敷が燃え上がっているのか、八重子には視認できない。けれど、決して無事ではいられないだろうということだけは感じ取れる。
がらがらと音をたてて離れが崩壊していき、いつの間にか周りに人の気配は絶えた。逃げるのにお荷物になる娘は置いていったのだろう。どうせ一生涯幽閉されることが決定した身、捨て置いても当主から責められることはない。
――ああ、これでようやく死ねるのだ。
けれど、そんな気持ちでひたすらに死を待っていた八重子を抱きかかえる腕があった。困惑する少女は、見えない瞳で辺りを見渡して目を丸くする。
「誰?」
「……我が見えるのか、お前は」
八重子以上に驚いたように男が声を発した。
男は、武将である父よりも上背がある巨躯だった。お世辞にも見目が良いとは言えない、むしろ醜男と言って差し支えのない男の顔。
しかしそれよりも八重子が心を奪われたのは、男の髪色だった。炎のような、血のような――ほの暗い赤みを帯びた、美しい色。
八重子は無意識のうちに、男の腰まで伸びる長髪に手を伸ばしていた。髪と同色の目をすがめた男だったが、少女の為すがままになっていた。
「なんてきれいなの」
まだ八重子が光を失う前に見た、父が好む色とそれは同じ色だった。八重子を愛おしそうに抱きかかえ、父はその色をこう称えたのだ。
――これは南蛮から伝わった猩々緋と言うのだ。
勝利を導く色だと父はそう言った。誇らしげにかの色の羽織を身に纏った父を、八重子は愛していた。
男は軽々と片手で八重子を抱き上げると、顔にかかった少女の前髪を払い露わになった八重子の目を見つめた。
紫色の靄がかかったような少女の瞳を見て、男は呟く。
「お前も、物の怪の血が流れているのか」
男は自らの右肩に八重子のを乗せた。
炎はすでに勢いを増し、今にも八重子たちに襲いかかろうとしている。ちりちりと肌が焼け付くが、男は平然とした態度のままだった。
「しばし揺れる。少し眠っていろ」
男の言葉と同時に、不思議と八重子の瞼が自然に落ちていく。
――まだ貴方のことを見ていたいのに。
その我が儘は聞き入れられることはなく、八重子の意識は暗闇に落ちていった。
目を覚ますと、冷たく固いものに手が触れる。今まで通り真っ暗闇に包まれた視界に少し落胆しながら手探りで立ち上がった。
ひんやりとした風を感じ、自分が屋敷ではない別の場所にいることに気付く。
「起きたか」
背後から声をかけられ、八重子は音のほうへと振り向く。
「やっぱりきれいだわ」
「本当に我が見えるのだな」
「ええ見えるわ。残念ながらここがどこなのか、そういった物はまったく見えないけれど。貴方の姿だけはしっかりと」
真っ暗闇の中で、なぜか男の姿だけがはっきりと八重子の目に映し出されていた。周りの景色はまったく見えないというのに、今まで経験したことがない不可思議な現象だった。
初めての体験に八重子は興奮して青年に近づいた。
「ねえ、どういう絡繰りなの? 貴方だけ見えるなんて、変よ」
男はそっと八重子の前髪を払い、彼女の目を見つめた。八重子の眼球はまるで紫水晶のような色の靄で覆われていた。
「お前には物の怪の血が流れている。その目が証拠だ」
「物の怪? ……私が?」
首を傾げて問うと、男はこくりと小さく頷いた。
「お前は人間より物の怪に性質が近い。本来人には我の姿は見えないはずだが、その目のせいだ。お前の父か母から受け継いだのではないか」
「父は普通の人よ。母のことは、顔どころか名前も知らないわ。私を産んで亡くなったと聞いているけれど」
八重子の目は五歳まで見えていた。それがある日の晩から、急に視力を失い八重子の目は二度と光を見ることはなくなった。
「お前の父に手籠めにされた物の怪の女が、お前を産むときに呪ったのだろう。成長するにつれ、見えなくなるようにと」
そう言って、猩々は八重子の目を覆うように手のひらをかざす。わずかに彼の手のひらから冷気が漂うが、決して悪い気分はしない。
「少し呪いを弱めたが解呪までは出来ぬ」
「不思議な気分。他にはなにも見えないのに、貴方のことはしっかりと見えるの。とてもきれいな人」
一生懸命手を伸ばし、さらさらの紅色の長髪を撫でると、男は一歩たじろいた。
「……この我にきれいなどという言葉を使うな」
男は自分が美しい容姿ではないことを良く知っていた。唸るように言うと、八重子は居心地悪そうに肩をすくませる。
「気を悪くしたならごめんなさい。……そういえば、なぜ貴方は私を助けたの?」
八重子はあのまま死んでも全く困ることはなかった。きょとんとした顔で首を傾げると、青年は苦渋に満ちた表情を見せた。
「別に、助けたわけではない」
「でも結果的には助かったもの」
彼がいなければ、今頃八重子は火に巻かれてあの世へと行っていたのには間違いなかった。なぜ男が助けたのか理解できずに問うと、男はむっとした表情を見せる。
「誰が助けたと言った? もしかしたら我はお前を喰らうために連れてきたと思わないのか」
脅すような男の言葉に、八重子は煤けた袖を口元にあてて笑う。
「ならば今すぐ喰らっても良いのよ? 私としては、最期に人の姿を見られてこの世に未練はないもの。さあどうぞ」
目を瞑り我が身を差し出す八重子の姿に、青年は呆れたように嘆息した。
「……人を喰う趣味はない」
「あら、そうなの?」
目を開けて少し落胆したように八重子は言い、再び手探りしながら単衣が汚れるのも気にせずその場に腰掛けた。
「貴方も腰掛けたら? 立ったままだと疲れるわよ」
男は一瞬戸惑いを見せながらも、言われるがまま八重子の隣に腰を下ろした。いつの間にか彼の手元には酒瓶が携えられており、八重子の鼻にも酒特有の香りが届いた。
「ねえここはどこなの?」
「都から幾ばか離れた鍾乳洞だ」
生真面目に答えながら、男は嘆息した。
「……お前は先ほどから問いばかり口にする」
「だって、こうして人とお話しするのも久しぶりなの」
幽閉されてから八重子の元にはわずかな仕え人しかいなかった。しかも彼らは必要最低限の世話のみしかせず、良家の姫とは思えぬほど八重子は自分のことは自らしなくてはならなかった。
「虐げられていたのか」
「どうかしら。本当に虐げられていたのなら、とうの昔に切り捨てられていたと思うの。幽閉されていたとはいえ、今日まで生かされていたのならば多少娘への情はあったのだと思うわ」
必要であれば人をも殺すのが父だ。不必要であればもはや八重子の命はとうに尽きていただろう。
「父を愛していたわ。だからこそ、この想いが消えないうちに父と離れられたことが嬉しいの」
いずれはきっと、自由にならない身を嘆き父を恨む日々が来ただろう。そうなる前に、八重子の身は晴れて自由となった。
「それより、私はこれからどうすれば良いの? 貴方の餌になるのを待つの?」
「人は喰わないと言っただろう。……別に、お前の好きにするが良い。どこへ行くのも自由だ」
「そう。なら貴方の側にいるのも自由ということね」
満面の笑みを浮かべた八重子に、猩々は眉間に皺を寄せ睨むように眼光を鋭くする。けれど少女は怯えた様子もなく微笑んだままだった。
「……なにを言っているか分かっているのか」
「ええ。それに目の見えないな私を市井に放り出すつもりなの? ここに連れてきたのは貴方でしょう。無責任だわ」
男にはそれ以上なにも言えなかった。ここで突き放しても、少女がひたすらに自分を追い続けることは目に見えていた。
「そういえば、まだ貴方の名前を聞いていなかったわ。なんて呼べば良いの?」
「なんとでも」
青年は酒瓶の蓋を器用に片手で外し、そのまま口に運んでいる。
八重子はしばらく考え込んでから、閃いたとばかりに顔を輝かせた。
「では猩々で良いわよね」
猩々緋を纏う男には最良の名前だと告げる八重子に、男は無表情で「好きにしろ」と言った。
こうして、目の見えない少女と猩々の奇妙な生活が始まった。