Chapter 8
「…………え?」
『カエシテ』
もう一度――今度ははっきりと――、不自然にくぐもった少女の声がする。
辺りを見回しても、ここには私とクローチェの二人しかいない。他にこの場にあるのは、無機質で質素な家具と――こちらをじっと見つめている、横倒れになっている引き裂かれたクマのぬいぐるみだけ。
そして、異変は目の前で起きた。
『ソレハワタシノモノヨ』
ぬいぐるみが口をぱっくりと開け、片手をあげて私の持つ真紅の勾玉を指したのだ。
「し……しゃべった……」
『ワタシノシンゾウ、カエシテ……』
取れかけているぬいぐるみの目がギロリと光り、それに呼応するように手の中にあった勾玉がどくんと一つ跳ねた。
『カエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエセカエシテカエセカエシテカエセカエシテカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセ』
「ひっ……!」
恐怖を覚えて後ろに下がると、背中に家具が当たって音を立てた。それを合図に、ぬいぐるみがさらに大きく口を開けて不気味な笑い声を立てた。
『カエシテクレナイナラ、ワタシトオニゴッコシヨウヨ! ワタシガカッタラ……オネエチャンノシンゾウ、チョウダイネ!』
刹那、開け放していた部屋の扉が勢いよく閉まり、ガチャンと大きな音を立てた。その音に驚いて一度そちらに視線を向け、戻してみると――ぬいぐるみは私たちの目と鼻の先に浮き、ケタケタと声を出して笑っていた。
「っ……きゃああああああああああああ!!」
直線状に飛んできたぬいぐるみを間一髪でかわし、戸口に駆け込んで持ち手を引いてみる。鍵などないシンプルなドアだったはずなのだが、不思議な力が働いてるのかピクリとも動かなかった。
「そんな!」
ぬいぐるみの方を一瞥すると、なおも笑い声を上げてゆらゆらと宙に浮いていた。
「もしかしたら、こいつを倒さないと出れないのかもしれないね……」
「そ、そうと決まれば……!」
私はぬいぐるみに向けて手をかざし、その行動で何かを察したクローチェは影となって地面に溶ける。続いて私の手から光る玉が生まれ、ぬいぐるみの方へ飛んでいく。
しかし、ぬいぐるみは器用にも光る玉を余裕でかわし、真っ直ぐこちらに向かってきた。
『オニゴッコ、オニゴッコ! オネエチャント、オニゴッコタノシイナ‼︎』
再びギリギリのところで横に逃げると、ぬいぐるみはドアに激突して少しの間動かなくなった。体勢を立て直すため、その場から離れてぬいぐるみと距離を置く。
「こっちは楽しくないわよ……!」
『ひまり、先にあいつの動きを止めなきゃ当たらないよ!』
「そんなの分かってるわよ! 何か……何か、あのぬいぐるみを止められるものは……!」
なおも収まらないぬいぐるみの猛攻から逃げつつ、部屋に配置されている戸棚を物色していく。すると、食器が入っていた戸棚の引き出しから、客人用のであろう綺麗に磨き上げられたナイフが何本か見つかった。
「これでどこかに固定すれば……!」
そうこうしてるうちに、ぬいぐるみが嘲笑しながら宙を旋回して私の右側から迫ってくる。それをぶつかる寸前まで引き寄せ、ナイフをその頭に突き立て勢いよく床に叩きつけた。
ナイフで縫い止められたぬいぐるみは手足をジタバタさせ、口をばくばくさせて私に噛みつこうとしている。そんなぬいぐるみの四肢にも得物を突き刺し、最後に勾玉のあった位置に魔力の光を叩きつけた。
『ギ……ギギ……ギャアアアアアアアアアア‼︎』
醜い断末魔をあげ、ぬいぐるみはそれきり動かなくなった。続いて背後でカチャリと小さく音がする。おそらく扉が開いた音だ。
「よかった、これで出られるね」
「…………」
「さ、早く外に出てその勾玉を……」
「クローチェ、あんた今のを見て、よく平気でいられるわね。どうして……?」
ぬいぐるみの残骸を見つめながら、影の中から抜け出したクローチェに問いかける。クローチェはしばらく黙って、私の前にやってくるとその大きい両手で私の顔を包み込んだ。
「それはやっぱり、俺が人間じゃないから、だと思うよ」
「……何よ、それ」
「まぁ、普通そうなるよね……とにかく、今は先に進もう。俺のことは、もう少し後で話すよ」
私を気遣うようにはにかむクローチェを見つめ、つられて笑顔を浮かべてこくりと頷いた。