第9話 地獄の底 前編
裕子が自分のネクタイをはずし、古見は思わず自分の左腕を抑える。
「腕だけを食べさせることはできると思う。おとなしい内なら話が通じている」
古見はへなへなとうなだれた。
「あと少しのはずでしょ? 空腹になるペースは遅くなっているし、バケヘビが来る間隔も空いている。腕一本でも今まで以上の時間を稼げるはず……『ふたりとも残る』ために、試す価値はあると思う」
古見はうつろな目で小さくうなずく。
「止血の手順をおぼえて。わたしは激痛で動けなくなるから」
「……え? わたしの腕じゃ……?」
古見がとまどった声を出す。
「え? いえ、わたしのを……」
裕子も困惑した。しかし急いでいた。
古見が誤解した理由を深くは考えなかった。
止血の方法を説明しても、古見はそっと上着のブレザーを脱いだ。
「あの……わたしじゃおぼえられないし、あせって藤沢さんを死なせちゃいそうだから」
こわばった笑顔を見せられ、裕子はあわてて首をふる。
「自分以外の人にできるわけないでしょ!? 一生に関わることだから……」
「わたしだと、なにか起きても判断とかうまくできないし……体の小さいわたしより、藤沢さんの両腕を残したほうが、いざとなった時にも動きやすいよ」
裕子はまだ首をふる。
古見はワイシャツのそでをまくっていた。
「わたしのせいでふたりとも死んだら意味がないし……わたしなんかがひとりだけ残されても、正気でいられそうにないし」
古見はぎこちない笑顔のまま人喰い巨人へ近づき、裕子は押しとどめる。
「わかった……わかったから。先に縛っておかないと」
裕子は自分のネクタイで古見の上腕を縛り、止め金としてピンをはさむ。
「きつくなりすぎないようにして。切断の後も時々ゆるめないと……痛くても自分で調整できたほうがいいでしょ?」
「グォ! グォ! グォオ! グゥオ!」
「……やっぱり、もう少し待つほうに賭けない? 狂暴になるまではもう少しもつかも。空腹だって、今までよりは長くもっているから……」
裕子は古見が思いきれる理由がわからない。
今までずっと後ろのほうに隠れ、発言も少なく、怯えた表情ばかり見せていた。
今は薄く笑っている。
「空腹のまま戦わせて、傷を増やすほうが悪循環なんでしょ?」
「片腕を失ったら、どれくらいもつかもわからない……医療品のない戦場で手足を失っても、生きのびた人もいるという程度。本当にいいの?」
古見は無言で、巨大怪物の前まで歩いた。
裕子は驚いてとまどう。
古見もなにか責任を感じているのか、あるいは土壇場では強い性格なのかと考えるが、やはり理解しがたい。
「腕だけ。わかる? 腕だけでがまんして」
裕子は念入りに怪物へ語りかける。
「わかるなら、かがんで口を開いて……手はださないで」
怪物は言われたとおりに両ひざをつき、両手をだらりと地面にはわせた。
背を丸めて、口を開く。
ものわかりのよすぎる人喰い怪物に、裕子も古見も困惑した。
古見は怪物の口へむきだしの左腕をのばしたが、そこで止まってしまう。
「古見さん……やっぱり、わたしの腕で」
「だいじょうぶ。でも、押しこむの、手伝って。ごめん……これ以上、動けない……でも、急がないと」
小柄な古見は冷や汗にまみれながら、力なく笑っていた。
裕子は背後から抱きとめて古見の腕を握り、その細く柔らかな感触に悲痛な表情を浮かべる。
時間がない。
校舎からはバケヘビの群れが、ふたたび侵入路を広げはじめていた。
思考を止めて行動にでなければ、最も悪い結末になる。
裕子はうつむいて、古見のネクタイに目がとまった。
「舌をかまないように……」
ネクタイの先を丸めて、古見の口へ押しこむ。
その作業で裕子の意識は『手術』へ集中しはじめた。
合図のかわりに、古見の腰へまわした腕を強く締める。
古見は自分で自分の腕を握りしめながら、裕子に押されるまま、ひきずるように足を進めた。
間近に見る怪物の牙は包丁のように大きく、包丁よりもはるかに厚い。
縛り口より下に巻いたハンカチの『目印』へ、巨大な下アゴを押しつけた。
「腕だけ、食べて」
裕子は意識して深く呼吸していたが、だいぶ速くなっている。
古見はもっとひどい。
怪物のアゴから流れる唾液は増えていたが、動く気配がなかった。
「……なにをやってるの!? 早く!」
このままでは古見の呼吸や意識がもたない。
巨大な口が動きはじめた。
その気なら古見を上半身ごとかじりとれる大きさ。
裕子は腕から手を放し、古見の頭を抱えこむ。
「腕だけ……わかってる?」
それだけ言って、裕子もまた顔をそむけた。
ゴリッ
意外に小さな音と震動。
裕子はすぐさま上着を傷口にかぶせて縛り、引き倒して寝かせる。
古見は背を丸め、足を激しくバタつかせていた。
「んぐううう!?」
裕子はかぶさって、腕と頭を押さえこむ。
「暴れないで! ……どこをつかんでもいいから」
古見に残った片腕は裕子の長い髪をつかみかけてずり落ち、肩へ指をくいこませた。
悲鳴が低くなり、一度は動きも止まる。
ふたたびゆっくりともがき、足で地面をかきむしり、とぎれとぎれにうめきをもらした。
「い……っ!? う……んう……!?」
押さえている裕子の握力がなくなりかけたころ、ようやく落ち着きはじめた。
裕子は古見の顔を見てがくぜんとする。
苦悶の表情こそ薄まっていたが、あまりにも蒼白だった。
小さな口からネクタイが押し出され、かぼそい声がつぶやく。
「だいじょうぶ……でも立てない」
うつろな目。疲れきった顔。
裕子は『手術』を終えた今、恐怖と悔恨に震えて見守るしかなかった。
クチャッ、グチャッ、クチャッ、グジャッ。
巨大な怪物は、味わうようにゆっくりと咀嚼している。
人喰い巨人は咀嚼を終えると、足をひきずらないで動けるようになっていた。
地響きのほとんどない、これまでにない身軽さでバケヘビの群れへ迫る。
破裂音は鋭くなっていた。短い間隔で連続した。
校舎玄関前のバケヘビたちを染みに変えた後も、黒い巨体には一切の傷がなかった。
「体の調子がもどっている……これでしばらくはだいじょうぶそう」
裕子には巨大怪物の肉体が硬くなっているだけでなく、ひきしまってきたようにも見えた。
はじめは醜怪な団子じみた体型だったが、今は直立したゾウ程度には均整がとれている。
「そう……よかった」
古見の青い顔には濃いクマが浮かんでいた。
裕子は心の中で祈り、許しを乞う。
「古見さん……救助に順番があれば、あなたを先に逃がすから。まだ犠牲が必要なら、次はわたしが……」
裕子の途切れた言葉に、古見は声をしぼりだして答える。
「思ったより、もつみたい……少し、眠っていい?」
古見に重傷を負わせた今、裕子は暗い顔も悲しい顔も見せられなかった。
明るく気丈に、さも助かることが当然のような笑顔で不安を除かねばならない。
しかしどうしても、こわばってゆがんでしまう。
周囲を警戒するふりで、背を向けておいた。
「そのほうがいいかも。バケヘビもしばらくはだいじょうぶそうだし」
古見は荒い息のまま、ゆっくりと目をとじる。
口の動きは声に出せない言葉をつぶやいていた。
『なんでこんな、ひどいことをできるの?』