第8話 生き地獄 後編
雲は多いが晴れていた。
地獄のはじまりから、まだ三時間も経過していない。
人喰いの怪物ヘビに囲まれた校庭で、人喰い巨人のそばに、たったふたりの女子生徒が座りこんでいた。
砂地だとバケヘビは体表の水分を奪われ、まともに進めなくなる。
しかし粘液の範囲はじわじわと広がり、いくつかの方向から『侵入路』が校庭の中央へ延びつつあった。
そして破裂音。体液をぶちまける音もすぐに続く。
伸びてきた粘液だまりからバケヘビたちの頭が持ち上がっても、飛びかかる前に巨大怪物が蹴散らしていた。
そうして侵攻が止まると、またドズドズと別の『侵入路』を殴りつぶしに向かう。
「バケヘビの動きが、下水路よりもずっと鈍い……もうしばらくはここで待てるかも?」
古見は努めて明るい声をだした。
裕子は泣きじゃくった後もふさぎこんでいる。
体育座りで膝に顔を突っ伏したまま、暗く投げやりな声をもらした。
「わたしたちだけ、助かるかもしれない?」
これまで毅然と先導してきた裕子が、不様をさらしている。
不意にガリガリと、放送スピーカーが鳴った。
『あ……まだ、いるの……逃げ……て。……はら……へった……』
間のびした男の声で、古見は顔をしかめる。
「校内放送を使えるのは放送室か職員室? あとは宿直室?」
『も……たし、たす……からない……へった、は……』
ガツンとぶつかる音がして、すぐにブツリと放送は途切れた。
裕子がゆっくりと顔をあげる。
直後に校舎一階の窓が割れ、人らしき塊がベチャリと落ちてきた。
白衣を着た三十代くらいの男が、中央玄関の粘液だまりでもがきながら立ち上がる。
ひしゃげたメガネを顔にひっかけたまま、フラフラと近づいてきた。
大きくずれたシャツやズボンから、ドロドロに溶けた肉がはみでている。
たれ落ちて引きずるそれらは、地面ではバケヘビと一体になってうごめいていた。
「に……げ……」
男の右肩が溶けたようにごっそりと下がり、手の甲を地面にひきずる。
左肩も不意に崩れ、転倒した。
這いつくばって起き上がりかけ、首がとろけるように胴から伸びて落下する。
そのまま寝そべるように崩れて広がり、肉片と管まみれの粘液の中で判別がつかなくなってしまう。
古見はあっけにとられていた。
しかし裕子の表情に気がつくと、思わず顔をそむける。
切れ長の目は鬼気にあふれ、残された白衣を凝視していた。
「このバケモノたちを作ったのは、誰……?」
声は低く静かだったが、強く握りすぎた両手は震えている。
「それだけは確かめないと、死ねない」
歯ぎしりが響き、古見の肩がビクリと震えた。
巨大怪物がドズドズと歩き出す。
白衣の残骸へ続くように、校舎玄関口から粘液が延びはじめていた。
「バケヘビは、近づいてくる間隔が空いてきた?」
裕子の問いに、古見はかすかにうなずく。
「近づいてくる方向もだんだん減って……」
いくつも伸びていた『侵入路』は途中でつぶされたまま動きを止めていた。
今は校舎からの一本にしぼられている。
水分のない砂地へ入りこむほど、バケヘビは動きが鈍った。
何匹か殴りちらせば、しばらくは進行が止まる。
何度もくり返していたので、次も巨大な腕が何度かうなれば済むはずだった。
しかし破裂音が鈍っている。
まとめて爆散させていたはずが、直撃でないとバラバラの肉片にならない。
くりかえし飛びかかられて、咬みちぎられる。
踏みつけ、握りつぶし、ようやく一掃していた。
「グォ、グ……」
巨体のあちこちに残る傷は、今までよりもずっと浅い。
皮膚がさらに黒ずんで、ゴムタイヤのような硬い質感になっていた。
傷は浅いのに、巨大怪物は足をひきずるように歩いている。
裕子は嫌な予感がして、注意深く観察した。
「皮膚があまり落ちなくなっている……それとやっぱり、空腹になる間隔も長くなっている」
剥がれる皮は小さく薄くなり、よく見ないと落ちている様子もわかりくい。
古見はうわべだけの愛想笑いでうなずく。
裕子は硬い表情で分析に集中していた。
「でも、あまり長い時間が経つと……」
皮膚が落ち続けている状態には変わりない。
剥がれる量が半分以下になってもなお、新陳代謝としては異常な速さだった。
そして次の空腹が近づけば、校庭の中央は安全地帯から処刑場に変わる。
人喰い巨人は暴れそうな兆候をまだ見せていないが、腹はへこみはじめていた。
ひたすら救援を待つしかない裕子と古見の疲労も深い。
「もしかしたら、もう街の人も……?」
小柄な古見はグッタリとよどんだ顔でつぶやく。
裕子は少し考えて、小さく首をふった。
「そこまで騒ぎが大きくなっていれば、救助や取材のヘリコプターが見えるはず」
自信はない。わからないことが多すぎた。
「はじめから殺す目的にしては、まわりくどい……事故がからむはず。あの白衣の人も錯乱していたし……」
それしかわからない。
裕子は動けないあせりを抑えて、可能性を求める。
「通学バスや業者の車まで巻きこまれている最悪の想定でも、それらが帰らないことで異常は伝わる。夜まではかからない。異常に気がついて森で引き返す人がいれば、もっと早い。学校にいた誰かが通報した可能性だって……」
前提となる推定さえも疑わしい。
「あと少し……あと少しのはず。そう思わないと……」
自身へ言い聞かせながらも裕子の表情は険しく、古見はメガネの端でそっと盗み見る。
バケヘビの次の侵攻で、巨大怪物の動きはさらに鈍くなった。
いちいち咬みつかれてから握りつぶし、踏みつぶし、どうにか追い払う。
「傷がふさがりにくくなっている?」
傷は浅いが、多すぎた。
治りきっていない傷の上に、新しい傷が多く重なっている。
今までなら人の腕ほども深い傷ですら数分で消えていた。
その半分以下の浅い傷に、倍以上の時間がかかっている。
裕子は不安と困惑の入り混じった目で巨体を見上げた。
(なんで今、こんなに腹をへこませたまま、こんなにおとなしいのか?)
顔いっぱいに乱立する牙は友人たちを喰い殺し、残った自分たちも狙っているはずだった。
しかし下水溝の出口では柳をかばうように腕をのばし、自らの傷を増やしている。
空腹でない時なら、不気味なほど協力的だったようにも思えた。
今の動きは襲う気がないという以上に、積極的に守っているようにすら見える。
(偶然? 意図的? 協力の意志がある? あるいは食料として大事に……)
言葉を理解し、片言を話せた。
元は人間と考えたほうが自然に思える。
「あの研究員の口調は、単調さと空腹感で似ていた……あのバケモノも研究員のひとりか、研究の協力者?」
仮に責任の一端を背負う人物だとしても、同情したくなる肉体だった。
人間を喰い続けなければもたない胃袋と理性……ここから脱出できたところで、まともに生きられるとは思えない。
「グッ、グォウ……、グォッ」
呼吸音が多くなってくる。
裕子は空腹が進んでいる時の特徴だと気がつく。
しかし抑えるように小さく、頭や体をふる動作も少ない。
うずくまって地面を向いている。
閉じた牙の隙間からは、ボタボタと唾液が落ちていた。
「グォッ、グォ……オ、グォオッ」
古見は苦しげにうつむく。
裕子も黙って観察するしかなかった。
「ガ……ガ……ガ!」
巨体の人喰いが、ふたたび這いよってきたバケヘビへ突撃する。
もたもたと暴れまわり、咬み傷を全身につけてもどってきた。
「ガァ、グ! グォッア! ググ……!」
ふたたびうずくまり、声を低める。
「グォ! グォ……ア! グァ! グォオ!」
うなりは小さいが、呼吸は荒くなっている。
「このままだと、かみ傷の多さで空腹が早まる悪循環になる……?」
古見は答えないで、黙ってうつむいていた。
裕子は立ち上がって、巨体の傷を間近に見回す。
「グォ! グォア! グォ! グゥオ!」
長く迷ってから、静かに声をかけた。
「血は……足りているの?」
「タリナイ……チ……! ガ……グォアア!」
またしばらく、うなる呼吸音だけが聞こえる。
「もう少し食べたら、まともに動ける?」
地面を見つめていた古見の呼吸が、乱れはじめていた。
そっと顔を上げた時、裕子もふりむく。
「古見さん……」
古見は目をそむけられないまま、呼吸がさらに荒くなる。
「腕を一本、食べさせようと思うの」




