第7話 生き地獄 前編
下水溝を囲む地面全体にでこぼこした筋が浮き上がり、うごめきはじめている。
それらは集束して太い管となり、脚ほどになると真上へゆっくり伸び、大量の牙を剥きだす。
裕子は一瞬だけ前後の状況を確認した。
数歩先の巨大怪物の足元は、すでに何匹かのバケヘビが首をもたげはじめている。
その先の校舎と体育館に挟まれた通路は粘液が薄く残っているだけで、バケヘビの姿は見えない。
さらに向こうの校庭は砂地の大部分が乾いていた。
背後の柳と古見は何歩も離れていない位置で、粘液に踏み入れたばかり。
予想外の異変に絶句し、立ちすくんでいた。
「走って!」
裕子が叫んで駆け出し、ようやく古見と柳も気色悪い踏み心地をこらえて追った。
伸びかけた膨らみに柳がつまずき、転びかける。
人喰い巨人はバケヘビに背へ喰らいつかれ、吠え声と共にふりむいた。
裕子はその横をすりぬけてから背後を見る。
ドラム缶のような巨腕がふりまわされ、何匹ものバケヘビがちぎれ飛ぶ瞬間だった。
古見はおさげ髪をふり乱して走っていたが、柳は鉄柵にしがみついて動けないでいる。
「柳!?」
目の前で腰近くまで伸びてきたバケヘビに肉体が硬直しきっていた。
背後からも伸びていたバケヘビのアゴには気がつかない。
「走って! 早く!」
裕子は引き返して走りだす。
「まだ間に合う!」
バケヘビは飛びかかると弾丸のように速いが、それまでの動作は遅い。
最悪なことに、柳は耳元への吐息でふりかえってしまう。
「シューウウゥ……」
半透明な黄土色をした巨大ミミズの先端がペキパキと割れ、めちゃくちゃな配置の牙の群れがゆっくり開いた。
「ひっ!? い……!?」
悲鳴をあげた柳の首をめがけ、バケヘビが粘液をひきながら飛びかかる。
喰いつかれたのは、巨大な腕だった。
人喰い巨人は次々と咬みつかれて暴れまわっていたが、その一瞬だけは腕をのばし、余計な負傷を増やす。
裕子はとまどいながら、柳の腕を引きよせた。
体育館や校舎の周囲はバケヘビの残骸が飛び散っているだけで粘液は薄い。
バケヘビが潜んでそうな厚いぬかるみも見当たらなかった。
巨大怪物はあちこちからバケヘビにかじりつかれ、殴りとばしながらも全身を削られ続けている。
先に校庭の中央へ出ていた古見は周囲を見まわしていた。
裕子と柳も救助を探す。
「誰かいない? 警察は?」
「いない……あと、やっぱり……」
古見は苦痛そうにうつむき、耳を澄ます。
カシャンッと校舎玄関でガラスの破片が鳴り、這いずる音も聞こえた。
校庭を囲む四辺のうち、校舎と体育館がない二辺は金網ごしに広大な森へつながっている。
その全体から這いずる音がまばらに、したたる粘液の音がかすかに聞こえていた。
「……囲まれている……」
「どこか、逃げられそうな場所は!?」
裕子の言葉をあざけるように、いたる所からバケヘビが姿を見せはじめる。
森から、校舎から、体育館ぞいの排水溝から、ズルズルと這いずる音は増え続けていた。
校庭の砂地に深くは侵入してこないが、包囲を厚くして広がっている。
柳は足を止めても息の乱れがおさまらない。
「どこかって、どこへ!? このあたり、ぜんぶ森でしょ!? どこに行ってもバケヘビだらけでしょ!?」
森にはバケヘビがどれだけ潜んでいるかもわからない。
「グォ……ガッ!」
ドズッ。
「グ、グガッ!」
ドズズッ。
重い足音が近づいていた。
いつの間にか、破裂音は消えている。
「ガ、ガッ……ガ! グゴァ!」
ドズッ。
体育館の角を曲がって、無残な咬み痕だらけの人喰い巨人が姿を見せる。
黒ずんだ褐色の巨体は全身のえぐり傷から粘液をたれ流していた。
バケヘビが増えてきた校舎玄関を避け、校庭の中央へ向かってくる。
「ハラ、グォ……チガ……チイ……グ、グゴァッ!」
ふらふらと蛇行しながら、牙だらけの顔をしきりに裕子たちへ向けた。
裕子は少しずつ後ずさる。
「なにか、代わりになる食べものはない?」
柳と古見は身をすくめ、ただ裕子の背後に隠れるばかりだった。
「チガア……チイイ……!」
吠え声の大きさ、牙から流れる唾液の量からも、限界は近そうだった。
「お願い。もう少しだけ待っ……」
「グガ……ガッ! ガ……ガアアアアアア!」
怪物の怒号が校庭を支配する。
巨体が歩みを止め、ガクガクと震えだした。
裕子の瞳に絶望があふれ。そっとふりかえる。
「別々に離れて……まとめて殺されないように」
押しのけられた柳と古見は別々の方向へ何歩か後ずさる。
裕子は動かない。
その背後では黒ずんだ肉塊の小山が校庭をかきむしっていた。
「ガ……ガガガア……ガガ!」
唾液がボタリと跳ねて裕子のブレザーまで飛ぶ。
「わたしが負けても怨まないから。助かったらみんなのぶんまで、しっかり生きて」
柳はかすかにうなずき、古見はひたすら首をすくめて腕を抱えていた。
「出さなければ負け……」
裕子はどうにかそれだけ声に出し、あとは無言で腕をふるう。
グーがふたつ。
柳はひとり、チョキを震わせていた。
ひと呼吸の沈黙のあと、裕子が走り出す。
江賀崎が喰い殺された時と同じ『なにも考えない』と意識した表情。
人喰い巨人を離れ、古見のほうへ。
「い……いやああ!?」
柳が悲鳴を上げ、裕子を追う。
「古見さん、走って!」
裕子が叫んでも、古見はよろよろと後ずさるだけだった。
裕子は最悪の予感にふりかえる。
柳が追いすがり、さらにその背後から巨大怪物が地面をえぐり飛ばして迫っていた。
全員が一直線上にいて、さらには一点へ集まろうとしている。
巻きぞえに三人とも殺される最悪の結果へ近づいている。
柳の手が、裕子に届きかけていた。
古見をかばうか、柳だけは逃がすか、裕子がわずかでも判断できたかどうか。
助けを求める親友を突きとばしていた。
柳は足をすべらせて倒れかけ、絶望に見開いた目を裕子へ向ける。
裕子もまた、恐怖で声にならない叫びを上げていた。
突きとばした手はそのまま、助けを求めていた手をつかみもどそうとする。
しかし柳の全身は不意に真横へ飛んだ。
人間の腕より太い五本の指が、視界から瞬時に奪い去ってしまう。
黒い巨体の向こうへ、白いソックスの両足が消える瞬間を見た。
裕子は理解を拒絶して意識が薄れ、真後ろへ倒れかかる。
「藤沢さん!?」
古見は引き返し、どうにか腕だけは裕子の頭と地面の間へ割りこませていた。
「しっかりして!? 目を開け……」
裕子の体をゆすり、呼びかける。
「……え?」
裕子はすぐに反応して、古見の顔を見上げた。
ゴリッ。
「ぎゃあああああ!」
鈍く大きな粉砕音と、今まで聞いたこともない絶叫。
裕子は完全に目を覚ます。
古見もビクリと体をすくめたが、あわてて裕子の頭を抱えこみ、視界をふさいでやった。
「やっぱり、まだ、目は閉じて。耳も、ふさいで……」
ゴギッ。
「……ぃぎい……!?」
グシャッ。
「があ…………ばっ!?」
裕子は自分の両手を耳へ強く押し当て、抱えられるまま、赤ん坊のように体を丸めて震える。
古見も裕子にしがみついて目をきつく閉じ、背後の数歩先で起きているすべてを無視しようと努めた。
心まで砕く音は、執拗に長く続いた。
メギッ……メギイッ。
「ううああっ……あぐ……ひぎあああっ!?」
手で遮断しきれない、人体を骨ごと破壊する音と、剥きだしの断末魔。
裕子が耐えかねて叫ぶ。
「早くっ、終らせてよお!?」
ドズンッ。
直後に、ひときわ大きな震動が響いた。
柳の悲鳴が途絶えた。
ボキ、グチャ、グシャ、ピチャ、ボリ、ゴリ、パキ……
柳が『消えていく』音すら聞こえなくなってからも、古見は背後を見ない。
背後以外の周囲を見て、バケヘビとは距離があることを確かめる。
そしてようやく、わずかずつ背後へ視線を向けた。
「藤沢さん……終わったよ?」
裕子は古見の懐へ顔をうずめ、伏せてしがみついたまま動かない。
巨大怪物の傷はふさがり、うなり声もほとんどたてないで立ちつくしていた。
古見が困っていると、裕子はのそのそと身を起こす。
長い髪を乱したまま黙りこみ、自分の手の平を見つめていた。
古見はとまどいながらも立ち上がる。
スカートの砂を払いながら、裕子の顔を盗み見た。
裕子は無表情に、自身の両手ばかりを凝視し続けている。
古見は声をかけあぐね、ただ何度も周囲を見回した。
裕子が不意に、しかしはっきりとつぶやく。
「もうジャンケンなんて、無意味だと思う?」
古見はふりかえることもできない。ただ息をつまらせる。
裕子は手を見つめたまま、冷えた声で続けた。
「江賀崎くんも柳も、殺したのは結局、わたしでしょ?」
古見は息だけでも整えようとした。
声をしぼりだす。
「でも、ああするしか……それと、もし……」
大きく息を飲む。
「もしも藤沢さんが、次はわたしを……その……『選んだ』としても」
裕子は微動だにしない。
「わたしも、怨んだりしたくない……でも怖いから、言われたとおりにはできないかも」
裕子はひたすら自分の手だけをにらんでいた。
そしてゆっくりと首を横にふる。
古見はその意味がわからなくてとまどう。
裕子の肩が震えはじめていた。
「次は……わたし」
声も震えている。
つくろい続けていた表情の冷徹も崩れきり、涙にまみれていた。
「もう……できない!」