第4話 悪夢と悪夢 後編
裕子は重い空気を押しのけて声をだす。
「言ってること、わかる?」
巨大怪物は荒々しくうなり続け、ずっしりと立ち上がった。
「グォオウッ! グォッ! グォウッ……!」
太すぎる足を引きずるように歩きはじめる。
方向としては裕子の指した体育館裏へ向かっていた。
裕子は汗をびっしょりとかいたままふりかえり、不安そうにそっと手招きする。
「うそお……?」
柳は泣き出しそうな顔で首をふるが、裕子は背を向けて歩き出した。
江賀崎は前後に迫るバケヘビの群れを苦々しく見まわし、裕子を追う。
「ここにいたってどうしようもねえだろ?」
野坂も痛む腕を押さえて無言で続いた。
柳と古見もしかたなしに踏み出す。
体育館の先には森へ入る未舗装の道が延びていた。
数十メートルほど進むと、金網に囲まれた教室ほどの縦穴が見える。
その底には下水路が通っていた。
そこへたどりつくまでにも、巨大怪物は何匹ものバケヘビをたたき飛ばしている。
それでも数が減ったようには見えない。
どこからともなく集まり続けている。
裕子たちが歩ける空間は、巨大怪物が通ったすぐ後だけだった。
粘液のしたたる音に、風がゆらした枝葉の音に、いちいち身がまえてしまう。
校舎へ続く背後の道はすでにバケヘビの群れでふさがれつつあった。
巨大怪物は『立入禁止』の看板がついた鉄柵をゴムのように引きちぎって侵入する。
不恰好に石段をずり落ちていく巨体に、裕子は顔をしかめた。
(思考は単純そうだけど、動作は野生動物よりも幼児や泥酔した人のような……)
そこまで考えて、言葉の重さにひっかかる。
『人のような』
コンクリートに囲まれた縦穴は数メートルほどの深さで、およそ二階ぶん。
江賀崎と野坂は石段を降りると嫌そうに見上げた。
目の前には高さ三メートルほどの真っ暗なトンネルが口を開けている。
「ここだと逃げ場がないな……『どちらに』襲われたとしても」
野坂はそう言いながらも、裕子が不安そうにふりかえると暗闇へ踏み入れた。
柳は弱々しくつぶやく。
「この先って、どこかへ通じているの?」
「知るかよ……上にいるよりはマシってだけだろ?」
江賀崎も巨大怪物の背をにらんでいた。
古見も遅れないように追いながら、首輪で引きずられるような表情になっている。
天井のところどころにある隙間から外光が差していて、かろうじて足元は見えた。
はじめは使っていた携帯電話のライトも温存するようになる。
トンネル内の通路はふたり並んで歩ける幅だったが、じめついて足場が悪い上、 下水溝との境になる手すりもない。
巨大怪物が前を歩いていると、行く手のほとんどはふさがれてしまう。
巨体の頭部は天井すれすれの高さにあり、腕をふりまわせば全員をいっぺんに肉塊にできそうだった。
ドズン、ドズンという足音の圧倒的な重量感、そして「グォ、グォ」という脳へ直接に響くような吠え声が閉鎖空間にこもる。
ひんやりと湿った空気の中でも、裕子たちの冷や汗は止まらない。
「あなた、名前はあるの?」
裕子は努めて静かに声をかけた。
「グ……グォ……」
怪物は騒がしい呼吸音をたてながら、足をひきずり続ける。
「グァイ……ヴァガライ」
裕子が肩をすくませて驚く。
「しゃべった?」
「今、『わからない』とか言った……?」
江賀崎と柳が小声で話していたが、裕子には答える余裕がない。
(話せる……人間、なの? 説得できる? 生物兵器だとしたら、元は軍人? 大学の研究員? あるいは人身売買された子供とか……危険は? 敵意は? 目的は?)
この巨大怪物について少しでも早く、多く理解しなければ、全員の命に関わる。
見上げる広大な背はベタベタとしていたが、一部にひび割れが広がっていた。
裕子の目の前でボロリと、ひとつかみほどの皮膚のかけらが落ちてくる。
足元をふりかえると、より小さなかけらが細かく落ちていた。
裕子がその現象の意味を知る前に、怪物に異変が起きる。
「グォウッ、グッ、グゥウ……ッ」
歩みが鈍り、背を丸めてうなりはじめた。
「どこか痛いの? わたしたちにできることがあったら、言って?」
「グァウウッ」
うなりが大きくなり、地下道に震動が走る。
「グォッ、グォ……ッ」
目鼻も起伏もない巨大な頭がふりかえった。
「ハラ……ヘッタ」
五人とも表情を失い、息をのんだ。
「こいつ、やっぱり……!」
叫ぶ江賀崎に、肉塊の巨腕がふり下ろされる。
江賀崎はよろけて後ずさり、ビチビチと肉片が飛び散った。
しかし江賀崎は『まだ』無事だった。
頭部を失って倒れたバケヘビに気がつく。
這いずる群れはいつの間にか、背後のほんの数歩先まで近づいていた。
「いつの間に、こんな近くまで!?」
へたりこんだ江賀崎を押しのけ、巨体が突撃する。
「グォオオオオッ!」
耳をつんざく轟音を発し、超重量の腕がふり回された。
「離れて! 巻きこまれる!」
裕子は柳の背を押し、古見の腕を引く。
バケヘビの群れが数匹、さらに数匹と巨体へ牙を食いこませ、見る間に肉を削りとっていた。
十数匹ほどもたたきつぶされ、壁や天井にまでこびりついた粘液と肉片はまだピクピクと動く部分もある。
しかしヘビらしい形状は現われなくなった。
「グォッウ! ……グァウウッウ!」
巨大怪物は激しい苦悶を続けている。
異常な太さ厚さの体格だったが、傷の深さもひどかった。
ショートケーキを乱雑に手でえぐったような傷にまみれ、動きはぎこちない。
「だ……だいじょうぶ?」
むなしい言葉だったが、裕子は少しでも怪物へ近づこうとした。
人間に近い知能へ、人間に近い感情を期待した。
「なにか手当てを……」
そう言いかけて、傷口の『動き』に気がつく。
布で縛ったくらいではどうしようもないはずの深い傷が、見てわかる速さでじわじわとふさがりつつあった。
思い出してみると校舎の中央玄関でも、下水路へ向かう途中でも、くりかえし全身をえぐられていたはずだった。
いつの間にかそれらの深手もなくなっている。
黄ばんだ粘液をにじませながら、わずかずつ盛り上がってくる肉。
歩いた後には、ひび割れた皮膚のかけらが散らばっていた。
(この怪物は、新陳代謝が異常に速い?)
その結果が目の前の変化に現われている。
体表の傷跡が消えた代わりに、腹が極端におちくぼんでいた。
巨体の怪物は天井に向けて口を開き、だらりと腕を下げ、苦しげにうなり続けている。
最初に見た時はもっと団子に近い見た目のはずだった。
怪物の不自然にへこんだ腹は裕子だけではなく、柳たちも不安にさせる。
「ナイ……チガ、ナイ……」
傷の手当は必要なかった。
しかし自力で傷をふさいだ巨体は、肉体の原料を必要としていた。
「チガァ……ナイ……ナイイ!」
牙だらけの口から粘液をたれ流し、声も荒く大きくなっている。
「おい『チ』って、人間の血かよ!?」
江賀崎の叫びで、裕子は我に帰る。
「待って! 輸血パックとか……調理室なら、なにか代わりのものが……」
「チ! チイ! チガァアアア!」
巨体が地下道を震わせて吠え、裕子たちにズリズリと迫ってくる。
その牙がどこへ向いているのか、最初に気がついたのは野坂だった。
負傷した腕からは『血』がにじんでいる。
「ガァッ!」
「ひっ……!?」
野坂は一歩、後ずさった。
裕子たちを置き去りに逃げるつもりなどなかった。
「グガガガガガガッ!」
しかし爆音が迫り、巨大な口を目の前で広げられると、無意識に走り出していた。
闇にぬめる巨体は、はじかれたような速さで細すぎる肉体へ追いすがる。
「待って!」
裕子は叫んだが、足は動かなかった。その先の言葉も続かなかった。
破裂音。
野坂のいた真横の壁に染みが飛び散り、その下の床には肉塊と、よじれた制服が転がる。
裕子はそれらがなんなのか、考えないように努めた。
怪物はそれらをひろい上げ、頭上にかざして喉へ血を流しこむ。
そのまま肉塊が牙だらけの口へ押しこまれる様子も見てしまったが「ゴギッ、バギ、バリ、グシャッ」と生々しい音が響くと目をそらして耳もふさいだ。
裕子は気がつくと、片方だけ転がった靴をながめていた。
血に染まり、バケヘビの肉片と粘液にまみれている。
「グ……グォ……」
巨体は不自然な腹のへこみが浅くなっていた。
何事も無かったかのように、闇の奥へ歩きはじめる。
裕子はふらふらと踏み出した。
「おい、まだあのバケモノについて行く気かよ!?」
江賀崎がにらんでいる。
「……でも江賀崎くんは、あのバケモノがいたから助かった」
裕子は蒼白な顔で、抑揚なく答えた。
「わたしたちまでは襲わなかった……空腹でなくなれば、安全ということでしょ?」
江賀崎は肩を落とし、前後の距離に迷いながら裕子を追う。
「だからって……またあのバケモノが腹を空かせて暴れだしたら、どうすんだよ?」
裕子は答えられないまま、点々と床に落ち続ける巨大な皮膚のかけらを見ていた。
減っていく以上、いずれは補給が必要になる。
ずっと黙っていた古見が、焦点の合わない目で小声を出す。
「そうなったら、またなにか考えて……そうならないかもしれないし」
「なった場合にどうするかって話をしてんでしょ?」
柳の声には露骨なトゲがあった。
全員が押し黙る。
正解など見つけようもない。
人喰い巨人と離れたら、バケヘビの群れに喰われる板ばさみだった。
裕子は苦りきった顔でうつむいていたまま、どうにか冷静な態度を演じる。
「……ジャンケン」
全員がきょとんとして、裕子の次の言葉を待つ。
「またあのバケモノが暴れだしたら、全員が巻きこまれるかも……その時だけは『犠牲を最少にする』必要があるでしょう?」
柳はまだ意味がわからなくて口を開け、江賀崎は眉をひそめた。
古見は目を丸くして、裕子の後ろ姿に身をすくめる。
「だから、ジャンケンで決めるの」
裕子は努めて冷徹な表情をつくろう。
「次の犠牲者を」




