第3話 悪夢と悪夢 前編
校舎一階の宿直室には六台のモニターが並んでいた。
白衣の男はずり下がったメガネごしに見つめている。
「E組が、終わると……F組は、ない、から……」
モニターに映る一階の玄関ホールはすでに物音が途絶えていた。
来校者向けの入口では、ジャージ姿の中年男がインターホンを鳴らしている。
「教職員……まだ『喰い残し』……いた……」
白衣の男は粘液まみれの手を警備管理の操作盤へ伸ばした。
中年男が去った後で入口ドアは静かに開き、粘液だまりがゆるやかに流れ出す。
校舎五階の廊下では男子生徒たちが非常ドアのガラス窓へ机をたたきつけていた。
教室の柳は携帯電話をあちこちへかざす。
「わたしのもだめ……やっぱり電波ひろえない」
「有線電話は一階の職員室だけ? 大学のほうも安全かどうかは……」
裕子はカーテンを引きはがしていた。
非常階段へ出られる扉の窓は割れたが、ガラス破片が残っているのでカーテンをあてがっておく。
野坂は机を踏み台にして最初にくぐりぬけ、続く四人へ手を貸す。
「乱射事件みたいな襲撃かよ? でも五クラスも行って、誰も抵抗したり逃げたりできなかったのか?」
最後に出てきた江賀崎は浮かない顔で髪をかきあげた。
「いまいち実感わかねえな?」
屋外階段は涼しい風が吹きつけ、周囲に広がる森からはカラスの声がまばらに聞こえてくる。
小柄な古見は顔をしかめて黙りこんだまま、何度も周囲を見まわしていた。
三階まで降りたところで怒鳴り声が響く。
「こらあっ、江賀崎! 外階段は非常時しか使うなと言われているだろうが!?」
校庭とは反対側の地上で、ジャージ姿の大柄な中年男が顔をしかめていた。
「大内先生?」
裕子が手すりから顔を出して一礼すると、いかつい中年男は困惑する。
「藤沢まで……なにかあったのか? 玄関が閉まっていて、呼び出しも通じんのだが?」
江賀崎はあつかいの差に苦笑した。
そして気をゆるめかけたが、大内の背後でくねる奇妙な物影に気がつく。
「大内、後ろ……?」
「江賀崎! 教師を呼び捨ては……うん?」
大内は自分の肩ごしに、大きなヘビのようなものが飛びかかって来る姿を見た。
とっさに首をかばって左腕へ咬みつかれたが、うめき声は小さい。
「ぐうぬ!? ……ふんっ!」
咬みつかせたまま地面へ押しつけ、体重をかける。
犬などであれば、苦しがって口を放そうとするはずだった。
拳ダコのある右腕でも殴りつける。
「ううあ!?」
悲鳴をあげたのは大内だった。
喰いちぎられた左腕をおさえて転がり、距離をとろうとする。
「来るな! 保健所に連絡……ぶぉぐっ!?」
江賀崎は一階まで駆け下りていたが、大内の首が半分以上もえぐられる瞬間を目撃した。
足がすくんで、なにかを考える余裕もない。
大内の全身が血をまき散らしながら跳ね上がり、茂みの奥までひきずりこまれる。
「なにあれ……ヘビ? ワニとか?」
柳はぼうぜんと、テレビでも見ているかのようにつぶやいた。
古見も放心していたが、一階の非常口へ近づいてくる奇怪な地響きに気がつく。
「あの、あれ……?」
柳が非常口へ目を向けると同時に、激しい衝突音が響いた。
ひび割れたガラスに、白目をむいた顔とブレザー制服が押しつけられている。
「なに……これ?」
金属製の非常ドアが大きくたわみはじめていた。
裕子は柳の腕を引く。江賀崎もふたりを抱えるように引き離していた。
直後にドアは爆音と共にはじけ飛び、周囲へ肉塊と『ぬめる管の群れ』を飛び散らせる。
柳の白いソックスには暗い赤色がべっとりと広がっていた。
「な、なんなのあれ!? ねえ、みんなどうなったの!?」
柳は手を引かれて逃げながらわめく。
「ヘビ、じゃねえよなあ!? ヘビとしか言いようがねえけど!」
江賀崎がふりかえるとバケモノの群れはのたうちながら追ってきていた。
どれも人の脚くらいの太さで二メートルほどの長さだったが、全体がぶよぶよとただれて変形を続けている。
粘りの強い液だまりの中では形状がはっきりしない。
そこへ混じっている残骸には制服の切れはしや携帯電話も散乱していた。
先頭にいた野坂は手ぶりで『静かに』と指示する。
森のあちこちからズルズル、ネチャネチャと不自然なざわめきが聞こえていた。
「囲まれている……? どうするよ?」
校舎の周囲はまだ伐採もしていない建設予定地ばかりで、徒歩では森を抜けるまでに数十分ほどかかる。
「どうするって言われても、空手の選手だった大内でも瞬殺じゃ、オレらがバットとか調達したくらいでどうにかなる相手じゃねえだろ?」
江賀崎はじわじわとせまる不快音にあせり、口早に言い捨てた。
野坂も苦々しそうにうなずく。
「でも車を動かせたら……ガソリンとか灯油も使えるか? クソッ、もうきた!」
早足なら追いつかれないが、考えをまとめる時間まではくれない。
這いずる動きは遅いが、飛びかかる速さと咬みちぎる強さが異常だった。
「あのバケヘビ、なんなの? 警察とかはなにやってんの?」
柳にしがみつかれている裕子も余裕はない。
ただ青ざめ、バケモノたちがシュウシュウと呼吸音をたててにじりよる姿を観察していた。
古見も視点が定まらず、息が乱れている。
「逃げられない……? でも、逃げないと……?」
校舎をまわって、正門とは逆の校庭側へ向かう。
森を避け、広い場所へ。
校庭の手前は校舎と体育館に挟まれた数メートル幅の道になっていた。
「大きく回りこんでみるか? それで駐車場まで行けたら……」
野坂が言いかけた時、校舎中央にある玄関ホールの自動ドアが破裂音をあげて飛び散った。
大量のバケヘビがぶちまけられ、のたうって広がり、裕子たちの行く手を粘液で塗りつぶしていく。
それだけでも驚くには十分だった。
しかし玄関口の金属枠がひしゃげて重い足音まで響くと、さらなる恐怖が重ねられる。
天井をこすりながら出てきた巨体はブヨブヨとぬめり、バケヘビを大量に練り固めた団子のようにも見えた。
「なんだよあれ……?」
江ケ崎がかろうじてうめく。
ずり動く巨体には手足もついていたが、あまりに太すぎ、短すぎ、直立したゾウよりも不恰好な異形だった。
頭部らしきふくらみには大きな牙だらけの口だけが開いている。
それ以外にはなにもなかった。
バケヘビにある目のようなくぼみも、頬骨のようなふくらみも、なにもない。
胴体の上にある、ただのっぺりとしたドロドロの半球を頭と呼べるなら、それ全体が巨大な口で、その中には口の大きさを無視した長すぎる牙が乱雑にひしめいていた。
くぐもったうめきのような「グォ、グォ」という呼吸音だけでも腹の底まで響く。
江賀崎はよろよろと後ずさり、裕子と柳にぶつかった。
巨大な肉塊は体をひきずってバケヘビを踏みつぶし、はね飛ばす。
何匹ものバケヘビが一斉に巨大怪物へ飛びかかり、一斉にはじけ散った。
腕と呼ぶには太すぎる肉塊がふりまわされ、車両事故を思わせる衝突音を続けざまに響かせる。
バケヘビは歯型だけを残して地面の染みにされた。
それでもバケヘビは次々と飛びかかり、巨体の全身を咬み削る。
シャベルでえぐったような傷が増えると異形の巨人は苦悶し、ドズドズと地響きを荒げた。
「グゴオオオオオッ!」
咆哮の爆音は裕子たちの全身を圧し、動作も思考も圧する。
バケヘビの群れは次々と殴りつぶされて染みになった。
轟音の隙間に古見が悲鳴をあげる。
「野坂くん、後ろ!」
背後のほんの数歩までバケヘビが這いより、首をもたげていた。
「やべ!?」
最後尾にいた野坂は驚いて飛びのく。
弾丸のように飛んできた牙だらけのあごを避けきれず、かすった右腕から鮮血がほとばしる。
バケヘビはそのまま巨大怪物の足元で跳ね、踏みつぶされた。
警告した古見自身は虚ろな目で立ちつくしている。
前後をバケヘビの大群にふさがれ、それらをつぶし散らす巨大怪物まで暴れている。
五人とも校舎へ身を寄せながら、ほとんど放心していた。
しかし裕子は野坂の傷を目にすると、反射的に動きはじめる。
「縛っておかないと……脈に達しているかも?」
しがみつく柳を引きはがし、応急処置を急いだ。
今の絶望的な状況では無意味かもしれないが、誰もなにも言わない。
処刑直前の静寂。
裕子が手際よく腕を縛る背後へ、巨大怪物が体を引きずる一歩ごとに地響きが伝わった。
裕子は高校受験の前から進路希望を医療系に決めて迷わなかった。
治療や救助に関連した情報収集が日課になっている。
受験に関わる知識ではなくても、応急処置の練習をすると気持ちが落ち着いた。
裕子のすぐ背後で、バケヘビのつぶされる破裂音が響く。
柳たちはビクリと身をすくめたが、裕子はわずかに手を止めただけ。
地面に跳ね散ったバケヘビの残骸がビチビチとうごめく。
裕子は突然の異常すぎる事態で現実感を失いかけていたが、とっさにはじめた手作業で思考力がもどりつつあった。
事故や災害に遭った時は『決してあきらめない』という基本も思い出す。
どれほど絶望的であろうと、希望は見つかるものと信じて探し続けなければ、まだ残っている可能性まで見落としかねない。
背後の地響きはゆっくり通りすぎ、校舎裏から追って来ていたバケヘビと争いだす。
裕子は野坂の腕を縛り終えた。
「みんな立って。動かないと」
そう言いながら、裕子も困惑しきっていた。
巨大怪物を追うように踏み出すと、柳にぎょっとした目で見られる。
「……あの大きいほうのバケモノは『まだ』襲ってこないみたいだから」
理由はたったそれだけ。
しかし中央玄関は今なおバケヘビの群れを吐き出し続けている。
バケヘビの群れにただ囲まれて追いつめられるよりは、バケモノ巨人を追うほうが処刑の時間がわずかでも延びる可能性が残っている。
江賀崎たちも迷いながら、裕子を追うしかなかった。
裕子はバケモノ巨人やバケヘビとの距離を何度も確認しながら、考え続ける。
バケヘビは中央玄関と校舎裏からわき続けていたが、それらは次々と肉片と化し、見えている限りでは数が減っていた。
巨大怪物は全身をかじりとられ、苦しげにうなっている。
あまりの緊張で、柳は現実感を失いかけていた。
「はは。あのまま共だおれしてくんないかな?」
江賀崎は小声でつぶやく。
「あの超絶デブ、こっちに気がついてねえのか?」
「この距離でそれはねえだろ?」
野坂もヒソヒソと返す。
古見はひたすら青ざめて震えていた。
裕子はわずかな可能性を広げようと考え続ける。
「大きなほうは襲ってこない……襲う気はない? それに……どこかへ向かっている?」
巨大な手がマンホールのふたをかきむしった。
巨体の全身には牙でえぐられた傷がついている。
バケヘビはなおも新手が増え続けていて、じわじわと迫っていた。
「……逃げようとしている?」
「オレらも地下道を使えば、森に近づかないで逃げられるか?」
江賀崎は柳と古見を押しやるように歩かせ、先頭の裕子を追う。
野坂は血のにじむ腕を押さえながら、最後尾で背後を警戒していた。
「逃げ場のないところに入って、バケヘビが待っていたらどうすんだよ?」
「体育館の向こうにある下水路なら広いけど……バケヘビが出たら厳しそう」
裕子は答えながら、江賀崎や野坂とは違うことを考えていた。
あの巨大怪物はなんなのか?
今のところ、自分たちを襲う様子はない。
骨格だけなら人体にも近い……見た目よりも知能や理性があるのか?
裕子はおびえた顔でふりかえり、江賀崎たちを止める。
「ここで待っていて。わたしも自信はないから」
「おい藤沢……?」
巨大怪物はなぜか、自身の片脚すら入りそうにないマンホールにこだわっていた。
裕子は意識してゆっくりと近づき、ぬめる小山のような背を見上げる。
猛獣、精神障害、重傷患者などへの対処方法を記憶の限りに検討していた。
巨大怪物の腕が届く範囲へ入ると、牙の群れがゆっくりとふりむく。
裕子は息をのみ、冷や汗が噴き出ていた。
「待って……? なにもしないから」
かろうじて声をしぼりだす。意識して穏やかに。
巨大怪物はかがんでもなお裕子が見上げるような高さだった。
ゾウじみた体格だが、四肢の太さは倍ほどもある。
「この先……体育館の裏に、あなたでも通れる地下水路がある」
裕子は息が苦しくなり、人さし指をゆっくりと先へ向けるだけで精一杯だった。
「いっしょに行っても、いい?」
怪物の頭部いっぱいに生えた長い牙の隙間から、ボタボタと黄ばんだ粘液がたれる。
それでも『まだ』襲ってこない。
裕子へ向けて「グォ、グォ」とうなるような呼吸を続けている。