第2話 人は喰われる 後編
玄関ホール前の暗い廊下はまだ事態を把握できていない生徒が多かった。
「なんだようるせえな?」
「なに今の?」
「押すなって」
「おい、つまって……え? え!? うわあ!?」
C組の先頭数人から、生徒がひしめく通路へ混乱が広がっていく。
「火がきてんの?」
「毒ガス?」
「バカ、走るなよ!」
地下階からも太い管が次々と伸びて暴れはじめていた。
血まみれで倒れる生徒が増えると、短い悲鳴と長い絶叫であふれてくる。
玄関ホールへ這い出せた数人も、泣き叫びながら引き裂かれた。
ひとりだけ、反対側の廊下まで駆けこめた女子もいる。
「誰か、いませんか!? ヘビ、ヘビみたいなのが……げぶっ!?」
すぐに頭部だけもどってきた。
貴之は床にへたりこみ、突然すぎる悪夢をただぼうぜんとながめる。
相馬は粘液にまみれながら玄関の自動ドアへすがりつき、こじあけるのが無理とみるや殴りはじめた。
「うあ……!? なん……なにこれえ!? ううー!?」
しかし厚い強化ガラスにはヒビひとつ入らない。
黄土色の太い管が相馬の腕にも喰らいつき、ようやくガイコツのような頭部を確認できた。
眼の部分には浅いくぼみがあるだけで、口内は鋭い牙が何重にもならんでいる。
濁った半透明の体はアバラ骨や虫の腹にも似ていて、ゴムのように伸びてしなった。
泣きじゃくる相馬の顔が骨ごとかじりとられる。
その光景で貴之は意識が遠のき、ゆっくりと血肉の池に沈んだ。
『D組……生徒。移動。Dぐ……み、いど……う』
E組の教室では学級委員の出橋が短いオカッパ頭をイライラとかきあげていた。
不機嫌になると一重の目とやせぎすの体型がトゲトゲしさを強調する。
すぐにも出発できるようにクラスの生徒を整列させていた。
「変なにおい、なんて言われてもさー? わたしは別に感じないし。そもそも異臭がするなら、それこそ避難を急がないと命に関わるでしょ?」
「避難なのに非常階段の扉が施錠されたままなんて、おかしくない?」
裕子がくいさがる姿はクラスの全員から珍しそうに見られている。
「じゃあもう、残りたい人だけ勝手に残れば?」
出橋がふてくされて言った直後、校内放送が流れた。
『ええ……と、E組? 移動。移動……して、ください』
「とにかく行ってみればわかるでしょ?」
出橋が背を向けると、ほとんどのクラスメイトも追って動きだす。
窓際で裕子の近くにいた柳、江賀崎、野坂だけが残った。
「いいんじゃね? 先に出橋を行かせて異臭の毒味をさせりゃ安心だろ?」
野坂は皮肉そうに笑うが、裕子に少しにらまれた。
出橋もふりかえって、きつくにらみつけてから教室を出る。
「こええ……出橋が野坂に気があるとか、やっぱ気のせいじゃね?」
江賀崎がひそひそと耳打ちして肘でつついても、柳は得意げに胸をはる。
「興味がなきゃ怒りもしないっての。裕子なんか恩人なのにあの態度……知ってる? 化学の授業で出橋が火傷した時、裕子の応急処置が良かったから軽く済んだって、先生もほめていたの」
野坂はすねたように目をそらす。
「なんで出橋の無愛想が藤沢に関係あるんだよ?」
「野坂っち~? クールぶってもバレバレなんですけど~?」
柳はニヤニヤと野坂と裕子を見比べる。
江賀崎はしらじらしく話題を変えた。
「藤沢は医療系ねらいだっけ? なんか趣味みたいにも言ってたような……」
「両方。医療や救助関連の本を見ていると落ち着くから」
裕子が真顔で答えて会話が途切れる。
そこで四人とも、廊下から小柄な三つ編み女子がのぞいていることに気がついた。
「あ、あの、わたし、D組なんですけど、置いてかれたみたいなんで……」
声は小さく、大きな眼鏡の目も伏せがちだった。
「それなら、今のやつらを追わなくていいのかよ?」
野坂のぶっきらぼうな言いかたで、うつむいてしまう。
「その……行こうとしたんですけど、なんだか下の騒ぎが普通じゃない気がして……」
江賀崎が手をひらひらして笑いかける。
「ねえメガネちゃん、名前なんていうの?」
「古見……です」
丸顔が赤くなっていた。
「古見ちゃんね? オレ江賀崎、よろしくう!」
「こいつアホだから気にしないでね? わたし、柳」
柳は江賀崎のネクタイを手綱のように引きしぼる。
「藤沢です……古見さん、普通じゃないって、どんな風に?」
古見は自分よりかなり背が高く、顔立ちもはっきりした裕子に近づかれると表情がこわばった。
「あの……叫ぶような声がひとりふたりじゃなくて。それも急に静かになったから、なんだか怖くなって……」
裕子は早足に教室を出る。
出橋を引き止められなかったことが怖くなってきた。
嫌われるのが怖くて、強く言えなかった。
出橋は裕子に冷たく、そっけない。
しかし剣道部で知り会ったばかりのころは、もっと笑顔も見せてくれた。
『藤沢さんまで手伝わなくていいのに。人のことは言えないけど、クソまじめだね?』
『今日の掃除当番は病欠でしょ? 出橋さんだけに押しつけて帰るよりは気が楽だから』
口うるさいが、責任感は強い。
不器用な面倒見のよさは野坂に似ていた。
裕子は小学生のころも思い出す。
がんこな裕子と見栄っぱりの理花はぶつかることも多かったが、仲なおりも早かった……理花がサッカー部のエースを好きになるまでは。
バレンタインデーの前日、サッカー部のエースは裕子の周囲ばかりをうろつく。
それ以来、理花の陰湿な仲間はずれがはじまった。
裕子はとまどったが、いらだちながらも無視を決めこむ。
それでも延々と止まない、なりふりかまわない敵意には疲れきった。
裕子に理花の事故死を防げたわけではない。
それでも惨死で安心してしまった事実が、自分で手を下したような罪悪感を残した。
助けられる状況でも、見殺しにしたかもしれない自分を嫌悪した。
理花の死後、裕子は登校前に高熱を出すようになる。
登校さえあきらめればあっさりと治った。
家で自習ばかりするようになったが、母の見ていた家庭用の医学百科に夢中になる。
理花の事故以来、はじめて気の重さを忘れられる時間だった。
誰かを助けられるようになりたい。
理花の死を無駄にしたくない。
そう決心してから、登校できるようになった。
肉を吐かないで食べられるようになった。
柳たちが追ってくる。
「待ってよ! 裕子!?」
野坂は手すりの隙間の吹き抜けをのぞきこむ。
「やっぱ、別になんとも……ん?」
吹き抜けから見える五階下の範囲は、ごく狭い。
しかしそこに見えた体の動きはひどくあわただしく、方向もめちゃくちゃだった。
「どうした? オレなら視力は無駄にいいから……」
江賀崎が見るまでもなかった。
遠くても、床へ転がった脚全体にへばりつく鮮血は誰の目でもわかった。
柳は顔をそむけ、古見は壁まであとずさる。
裕子は階段の踊り場にある窓へ急ぎ、教室とは反対にある校庭を見渡した。
「誰もいない……!?」
野坂は青ざめて階段を駆け下りようとしたが、裕子に捕まれる。
「なんだよ!? 早く行かねえと! 通り魔とかテロなら……」
「五クラスも降りて、ひとりも上がってこなかった! 野坂くんまで同じ目に遭う!」
ふりはらおうとする野坂にしがみついた。
「わたしたちだけでも助かれば、救援も早く呼べるから!」
感情を抑えようとして言葉も選んだが、顔は泣き出しそうにゆがむ。
野坂はうつむき、おとなしくなった。
「わり……。出橋とは……仲は良くねえけど、幼稚園の時から同じアパートでよ」
江賀崎だけが吹き抜けの下を見つめ続けていた。
「非常階段を使ってみるか。窓を割ればなんとか……急ごう」
声も表情も、暗く硬い。
柳と古見を追いたて、野坂がついてくる様子も確認した。
「藤沢!」
江賀崎が遅れていた裕子へ怒鳴りつけ、柳と野坂は驚く。
裕子は吹き抜けをのぞいていたが、そっと離れた。
「……早くしろよ」
江賀崎が泣きだしそうな顔でにらみつけ、裕子も無言で小さくうなずく。
なにも見なかったふりに同意する。
今、静かになった階下を見下ろせば、胴から離れたオカッパ頭が見えてしまう。
裕子は中学になってからも同級生とは距離をとるようになった。
誰かに悪口を集めて犠牲を作りだす仲間内よりは、独りのほうが息をしやすい。
しかし高校で出会った柳たちは、そんな裕子の潔癖さにも好意的に合わせてくれた。
知り合って間もないころに、野坂は裕子のはしが止まる理由に気がつく。
『もしかして藤沢、からかうノリとか苦手か?』
『わたしは気にしすぎるほうだから』
裕子は遠慮がちに苦笑したが、いつもふざけている江賀崎と柳までまじめな顔になった。
『そういうところが違うよなあ? オレはそういうほうに合わせたいんだよ』
『わたしも中学のころ、人のこと悪く言いすぎて気まずい思いしたから。遠慮しないでいいよ?』
ようやく、肉の味をおいしいと感じられるようになった。
出橋ともいっしょに食べたいと思っていた。