第19話 地獄生まれ 前編
久津井も安堵する。
少なくとも、貴之を巻きこんでの惨劇は避けられた。
しかし責任の重さは変わらず、恐怖のほとんどを抱えたままだった。
そのわかりやすい表情を見るまでもなく、貴之も裕子も宮武も頭を抱える。
貴之の父は無精ひげをさすって頭をひねっていたが、ひょいと手を上げた。
「待て、待て。つまり久津井ちゃんが起きているうちは、バケヘビの心配はなさそうってことじゃねえのか?」
「あ……」
一斉に口がそろう。
「久津井さんが眠りそうになったら、感染者へ近づかないようにすれば……」
貴之は明るい顔でうなずいて見せた。
「それなら久津井さんをヘリで輸送して、遠くへ隔離できたら……連絡をとってみます」
裕子の使う通信機を見て、宮武はあきれる。
「藤沢くんが直接に衿川と話しているのか?」
巨大怪物のもう片方の腕に握られていた女性が、意識をとりもどした様子で小さくつぶやいた。
「えりかわ……さん?」
「香上さんもバケヘビに襲われたのですか? でもジンヤが守ってくれましたよね?」
裕子が尋ねても目つきは虚ろで、反応がない。
「……香上さん?」
手を近づけた裕子と目が合うと、香上は突然、思いきりのけぞる。
「ひい!? いやっ……あ!?」
粘液にまみれた髪をふり乱し、裕子から逃げようとしていた。
「ジンヤ……放してあげて」
香上は解放されると、血だらけの床を這いずって隅の机へ逃げこむ。
震えながらひざを抱え、床をにらんでいた。
裕子はふたたび無線機で連絡をとる。
「香上さんが、連れて歩ける状態ではなくなりました。置いていきます。まだ場所は言えませんが……」
『そうですか……しかし彼女も、危険を承知で就いた職場だ』
「香上さんは、衿川さんの部下ですか?」
『管轄は違うが、本件ではわたしの指揮下になる。それと……婚約相手だ。来年には式を挙げる予定だった』
裕子が部屋の隅へ視線を向けると、香上は跳ね上がるように後ずさり、頭を抱えて嗚咽しはじめる。
「外傷はなさそうですが、精神的に強いショックを受けています」
裕子はジンヤを見上げ、しばし悲しげに見つめた。
「……中町小の、職員室です」
『ありがとう。しかし私は迎えに行くわけにもいかない立場でね』
その後に裕子と衿川が話し合った結論に、宮武は耳を疑う。
「ヘリも護送車も来ない? 人手不足で封鎖を優先するのはしかたないにしても、久津井さんさえ遠ざければ収束するかもしれないのに?」
「衿川さんも要請をくり返しているそうですが、権限の制約とかで、責任者の許可待ちが山積みだそうです。市内へ増援の人員を入れるだけでも、まだ時間がかかるようで」
裕子の表情も重い。
「それと久津井さんを遠ざけすぎたり、完全に遮断すると、感染者がそれぞれに独立した『中心』になる危険も考えられるため、避けてほしいそうです」
「増援すらよこさねえくせに、バケヘビ対策はオレらだけでやれってことかあ?」
頭をかきむしる宮武の肩を、貴之の父がポンポンとたたく。
「まだ半日ですし。時間的に『現場の話がろくに届いてない』ってだけじゃないっすか? 漠然と感染症としかわからないんじゃ、おえらがたは軽く見てサボるか、重く見て足踏みするか……まあ、衿川サマも交渉してくれているようだし、時間を稼いであげましょうや」
貴之は裕子がかすかでもほほえむ表情をはじめて見た。
「そんで問題は、久津井さんの睡眠時間をどれくらい正確に予測可能か、というあたりですかね?」
貴之の父に視線を向けられ、久津井は心配そうにうつむく。
「疲れているにしても、体調がおかしいかもしれません。何度も眠っているのに、落ち着くと急に眠くなって……でもこれからは意識しますから、少しはもつ……かもしれません」
「とりあえずは人の少ない所へ移動してもらうか……コーヒーでもまとめ買いしておくか?」
宮武は真顔で提案する。
「体調が怪しいなら、眠れる時にまとめて眠ったほうがいいかもしれんので、がまんしすぎる前に報告で」
貴之の父は久津井を楽しげにながめまわす。
貴之は父親へ白い目を向けていた。
「移動ならオレがついて行きます。眠ったらまずい時には起こしますよ」
「でも、私のそばにいたら危ないのでは?」
「声を抑えるのは慣れました。というかバケヘビを見ると、もう勝手にノドがしぼむんです」
貴之は自嘲しながらも照れ笑う。
「わたしもいっしょに行きます。ジンヤを隠す必要もありますし、ジンヤがいれば万一の時でもバケヘビに対抗できます」
「いやしかし、これ以上、子供たちを巻きこむのもなあ?」
宮武は渋い顔で首をひねる。
「そうも言ってられねえでしょ? オレと宮武さんは学校でやらなきゃならんことが多すぎるし、任せてみましょうや。そっちのお嬢ちゃんはやたらと頼もしいし」
貴之の父は裕子を指してニカリと会釈も送った。
「貴之も両手にべっぴんさんじゃ、カッコつけないわけにはいかんよなあ? ひひっ」
いやがる貴之の頭をぐしゃぐしゃとなでくりまわす。
「わかったから、早く行けよっ」
貴之は乱暴に父親を突きはなす。
「じゃ、オレは患者ちゃんが待ってるから……気をつけてな」
「……おう」
貴之はふてくされながらも、不安そうに父親の背を見送る。
香上は机に隠れたまま、寝息をたてはじめていた。
裕子たちは裏窓から職員室を抜け出て、南町へ向かう。
宮武は校内を見回る途中で、校庭の隅に集まる人影に気がつく。
成人男性が二十人前後。
数人ずつに分かれて早足に歩きはじめた。
二班は校門へ、もう二班は校舎裏へ。
裕子は夜道を歩きながらイヤホンへ注意を向けていたが、貴之と久津井へ小声で告げる。
「そのまま前を見て歩き続けて。宮武さんからの伝言で、追跡に気をつけろって……」
裕子は道路に停めてあった車のサイドミラーで、背後の人影を確認した。
裕子たちが角を曲がると、背後の影も追ってくる。
角を曲がってすぐ、裕子たちは走りはじめていた。
「逃げたぞ!」
口々に叫ぶ追手は数人。
いずれも二十代から四十代くらいの男で、動きやすいラフな服装をしている。
裕子たちは路地を抜け、さらに曲がった。
追手も角へ近づいた時、道路を削るような轟音が走ってくる。
真横になった自動車が地面をすべって飛び出し、塀へ衝突した。
いきなり現われた金属製のバリケードが路地をふさいでいた。
「なんだよこれ!?」
「そっちにも分かれろ!」
貴之と久津井は走りながら、ジンヤの怪力に改めて驚く。
裕子は不安そうに周囲を警戒していた。
「避難者のようだけど、手荷物はないし、組織化されている?」
久津井の足どりもふらつきはじめていた。
「だいじょうぶ……頭は少しぼやけるけど……」
ジンヤは三人を抱え、工場敷地の高い塀を跳び越える。
その重量と高度からは信じがたいほど着地の衝撃が少なく、腕とひざで物音と勢いを殺しつくしていた。
倉庫の鉄錠もゆっくりむしりとる。
倉庫内はコンテナの山であふれ、窓も少ない。
街灯の明かりも入りにくく、闇が多かった。
身を潜めた裕子は忙しげに通信機をいじって状況をさぐり、久津井はおずおずと小声で確認する。
「さっきの連絡は、衿川さんという人からなんですね?」
「そうですが?」
「よかった……わたしはこんな体だから、てっきり処分されてしまうものかと」
「衿川さんは、わたしたちを処分しないとも言っていません。でも、それが救いかもしれません。助ける気がないなら、助けるふりだけして騙しそうですから」
裕子の冷徹さに、貴之と久津井はあらためてあきれた。
「それと、怪物の性質は急速に変化しています。感染者の悪化が遅れていますし、久津井さんの睡眠の間隔も短くなって……ひたすら増殖するだけでは、生物としては自滅も早まるので……」
貴之は裕子の話が読めなくてきょとんとする。
裕子も話しながら頭の整理をしていた。
「つまり、バケヘビ自身も長生きするために、周囲へ適応しようとした結果、ジンヤのように制御できる性質を得たり、無害になる可能性もあります」
「それなら私は、普通の生活にもどれるかもしれないんですね? ……いえ、そこまではいかなくても、生きていられるだけでも……」
久津井はまだ泣き出しそうな顔をしていたが、ほのかなほほえみも見せる。
「バケヘビとジンヤくんは、やっぱり関係あるの?」
貴之にはバケヘビと久津井の関係だけでも信じがたいが、異形の巨体との関連も想像しにくい。
「根本的な性質は似ていると思う。人体の形状を偏って残した異常な膨張、異常に早い新陳代謝、人間に偏った捕食……」
ジンヤにも人喰いの性質があることは、ここまで貴之たちには話していなかった。
「でもジンヤは、新陳代謝が抑まりはじめている。このまま眠る時間を長くとれるようになったら、輸血パックとかでなんとか……人間を殺さないでも、生き続けられるかもしれない」
語りながら、裕子の表情は影が濃くなっていた。
「バケヘビを駆除しきれたとしても、ジンヤが助かるか……人として生きられるかは別の問題」
瞳は深い孤独へ沈み、かける言葉を失わせる。
巨大な怪物は黙ってたたずんでいた。
頭には巨大な牙がひしめく口しかない。
貴之は元の八島ジンヤという男子生徒を知らなかった。
どこまで話を理解しているのか、判断しがたい。
周囲に追手の気配がなくなり、裕子たちは路地を急ぐ。
久津井は貴之に支えられて歩き、意識を失いかけていた。
「ごめんなさい……そろそろ限界……」
「あの妙な連中さえいなけりゃ、乾燥剤とかも準備してから睡眠をとれたのに……」
貴之の抱える久津井の体が急に重くなり、頭をたれ、足をひきずりはじめる。
「衿川さんには連絡しておきました。あとは『バケヘビの糸』を遮断しすぎないように、弱めるための広い砂地か、大量の水……」
市の北町から南町へ抜ける通学バスの大通りは、途中で数メートル幅の用水路とも交差していた。
貴之は気を失った久津井を背負い、周囲へ目を凝らす。
「バケヘビだと、これくらいは飛び越えないかな?」
街灯の少ない夜闇にも、ちらちらと糸のきらめきが漂いはじめていた。
「なにもしないよりは……ジンヤ、それを持ってきてくれる?」
裕子は屋根づたいに追ってきたジンヤに自動車を運ばせ、浅い用水路の真ん中へ置かせる。
急造した人口の中州へ久津井をそっと横たえさせると、どこかでボタリと粘液の落ちる音がした。
裕子は自分の口を手でふさぎ、ジンヤに避難を急がせる。
貴之は自分の喉が萎縮する感覚をおぼえつつも、久津井を見守れる位置で身をかがめ、電柱へしがみついて踏みとどまる。
ふと同学年の女子である裕子の身も心配したが、あまりに毅然とした立ち姿で、まったく別の心配も抱いた。
その鋭利な目つきはバケヘビの群れへ対する恐怖よりも観察し、分析し、駆除しきる気迫にあふれ、人間ばなれした強さで貴之を不安にさせる。