第16話 広がる地獄 後編
竜巻の直撃を受けたような警察署の玄関ロビーに、巨大怪物が立ちつくす。
バケヘビの這いずる気配は急速に減っていた。
裕子はとまどって見回す。
「少ない……もっといたはず?」
窓口の奥から、ガタガタと机の動く音が聞こえる。
「おい、終わったのか?」
男の太い声。
裕子は手ぶりでジンヤを呼び寄せ、いっしょに玄関わきへ隠れる。
香上には応対をうながした。
「今の騒ぎはなんだよ? ゴリラでも暴れていたような……」
出てきたのは大柄で筋肉質な、ゴリラのような中年男……宮武警部だった。
「ここのバケヘビは、もう心配なさそうです。署内でほかに生き残っているかたは?」
「ほとんどいないだろうな。あんたはたしか、衿川とかいうおえらいさんといっしょにいた……あ、ちょっと待った」
宮武はイヤホンをつけて無線に耳を傾ける。
「検問が渋滞、避難者は中町小に一時集合、か……オレは署内をひとまわりしてから中町小へ行ってみるかな? あんたは?」
「そうですね。私もおそらく小学校へ……それと……」
香上は背後の視線を気にしていたが、宮武には悟られないように気づかう。
もし藤沢裕子に疑われたら、どれだけ非人道的な扱いが待っているかも想像しがたい。
「……人型の大きな怪物は、バケヘビ駆除の役に立っていますので、なるべく手をださないようにしてください」
「大きな怪物って……まさかそれ、さっきまでここにいたのか?」
「それはまだ秘匿事項で……」
「またかよ。あんたたち、そればっかりだなあ?」
裕子は隠れたまま、安堵のため息をつく。
「ム……イ……」
「なに? ……ジンヤ?」
ジンヤに傷はない。腹のへこみもない。
しかし頭を地面にこすりつけそうなほどたれ下げ、ぐったりとしている。
「ネ……ム……」
「待って。こんな所で眠っちゃ……あの上までは登って!」
宮武に、そして香上にも聞こえないように小声で急かす。
近くのビルの屋上までは跳び登れた。
しかしそこでジンヤは壁にもたれたきり、呼びかけても反応がなくなる。
「ジンヤ……?」
裕子の顔にあせりが浮かぶ。
中町小学校の校舎前は長い列が並び、子供連れや老人などが優先的に案内されていた。
友木貴之たちは待たされた上、校庭の一角を指定される。
ふたりはビニールシートが敷かれただけの砂地へ座った。
もう夜も遅く、梅雨が近いとはいえ、それなりに冷えこむ。
久津井美咲は持っていた検診衣を広げ、自分と貴之の肩にかけた。
貴之はあわてて遠慮しようと言葉を考えたが、久津井の肌へ直接に触れていた生地から甘く心地よい香りが漂うと、そのままにしたい誘惑に屈する。
「これ、健康診断で着るような服に見えますけど?」
「試験薬の測定をしていたんです。最近、雑用よりも被験体協力のほうが多くて。楽なんですけど、勉強にはならないんですよねえ」
久津井の笑顔は屈託がない。
貴之は聞きたいことが山ほどあるはずなのに、なにから聞いていいのか迷う。
「研究の助手をしているんです。菌糸みたいな……難病治療の新薬みたいですよ?」
「火災については、なにか聞いてませんか?」
「変ですよねえ? 測定のために横になっていたのですけど。誰も来なかったらしくて、ずいぶん長く眠ってしまって。ヘリで呼びかけていたので避難しましたけど、煙は見えないし、火災報知器も鳴ってないし……やっぱり、警察で聞いたバケモノのせいですかね?」
校庭には続々と徒歩の避難者が流れこんでいた。
小学校高学年くらいの男の子をつれた若い夫婦も軽くおじぎをして同じビニールシートの反対側へ座る。
もうシートも足りない様子で、同じような光景があちこちで見られた。
貴之の肩に、久津井の肩がもたれかかる。
「……あっ、ごめんなさい。体が暖まったら、眠くなってしまって」
「よければ、どうぞ」
久津井はうつむき、ぼやけた目のまま照れたほほえみを見せた。
「すみません」
だんだんと密着する面積が広がり、体温も伝わる。
貴之は久津井の言ったことについて考えようとしたが、気が散ってまとまらない。
行事用の屋外照明もいくつか校庭に設置されはじめる。
貴之の目の前にふわりと、微細な糸が落ちてきた。
風にのったクモの糸かと思い、払いのける。
久津井の髪にもかかっていたので、そっとつまんでおいた。
保健室の前にはテントが設営されて、出張検診の施設が拡大されている。
しかし小学生を連れた家族が後回しにされているくらいなので、順番は当分まわってきそうにない。
とはいえ貴之は不謹慎と思いながらも、このままずっと久津井と座っていたいとも思う。
背後に座る家族はそれぞれにリュックを持ち、それなりの避難準備ができていた。
「ちょっとお父さん、ひっかいちゃよくないって」
父親は使いこんだ作業着で、明るく愛想が良い。
「血は止まったのに、妙にかゆくなってきて……それになんか……」
頭に巻いていたタオルをはずし、なにかゴソゴソと額をいじっている。
「……腹が減ったな」
傷と空腹。
嫌なおぼえがある組み合わせだったが、さほど異常はなさそうなので、貴之は視線を久津井の寝顔へもどす。
「……え?」
久津井の手足に、何本もの微細な糸がかかっていた。
おおまかにはらいのける。
樹木の下ならクモが降ってくるかもしれないが、今いる場所からは遠い。
背後の夫婦は困惑した声色になっていた。
「ねえ、ひどく膿んでいるみたい……痛くないの?」
「じゃあ……救急所に行っておくか……えらく混んでたけど……」
遠くで別の家族の幼児が塀へ近づき、母親が声だけで引き止める。
「汚いものにさわったらだめよー?」
「ねえ、これなーにー?」
塀のあちこちの隙間から、粘液が細くたれていた。
少し離れてサラリーマン風の中年と初老の男が立ち話をしていたが、仮設テントのざわめきが大きくなり、そちらへ目を向ける。
「なにか……もめてますね?」
歩いてきた中年女性も立ち話へ加わる。
「食べ物がどうとか言っているみたいだけど?」
「アホか? まだ半日もたってないのに!」
貴之の嫌な予感はだんだんと濃くなっていた。
久津井を起こそうとしてぎょっとする。
大量の糸が久津井の手足にかかっていた。貴之の腕にも。
手をそっと上げてみると、その粘り気に悪夢の記憶が駆けめぐる。
(なにが起きている? なにかが起こっている……あのバケモノに関係しているなにか……!?)
塀のあちこちからにじんでいた粘液は量を増してボタボタと流れ落ち、地面に粘液だまりを作りはじめる。
仮設テントの騒ぎがひどくなり、内容がわかるほどの大声も聞こえてきた。
「病人が急変して……!」
「ひでえ! なんだよこれ……!?」
「きゃああ!? バケモノ! バケモノ!」
「あの時の……! ヘビみたいなバケモノ!」
貴之の顔から血の気がひく。
久津井に声をかけようとしたが、口をパクパクと動かすだけで、うまく声がでない。
微細な糸は周囲に広く厚く伸びていた。
「お? なんだよ、このベタベタしたのは……」
初老のサラリーマンは革靴にからんでいた糸をふり払う。
背後に座っていた家族連れの父親は、顔から粘液がたれ落ちていた。
その粘液と微細な糸は混じりあった部分で互いに引き寄せ合って太くなり……震えはじめている。
(逃げないと……でもまた声が……足も……)
貴之は顔も体もこわばり、汗ばかりが流れる。
「ちょっと、お父さん、起きてよお!?」
家族連れの父親がうずくまり、母親は自分たちの足元にからむ大量の粘液に気がつく。
「な……なんなのこれ? いつの間にこんな……!?」
子供が怖がって後ずさり、貴之に近づいていた。
「……君……」
貴之は子供の腕を引き寄せ、かすれた小声をどうにか出せた。
「急いで医者を呼んだほうがいい。でも大声をだしている所には絶対に近づかないで」
愛想笑いも作れない、必死の形相でささやく。
「早く行けっ」
小声でしかりつけ、子供の背中を突き飛ばした。
子供は泣きそうな顔で走りだす。
(情けないけど、これが精一杯だ)
貴之は目の前の光景をうつむいたまま盗み見る。
作業着の男の頭と首が不自然に盛り上がり、真上へ伸びはじめた。
母親は気がつかないまま体へすがりつき、抱え上げようとしている。
「誰か、手伝って……!」
周囲の地面にはもう、指ほどの太さにまとまった網状の粘液がうごめきはじめていた。
足元の異常に誰もがあわてて騒ぎ出す。
作業着から人体らしき頭部が伸び上がっていた。
くずれた皮膚で眼孔がふさがり、新しい歯や骨格が乱雑に形成され、バランスを無視して伸び重なっている。
人間だった髪、皮膚、骨格の名残りがだんだんと失われていく。
周囲にいた避難者も間近に現われた怪物に気がついて悲鳴をあげはじめた。
すがりついていた母親が顔を上げ、絶叫する。
貴之はただ震えて見ていた。
あの子供が助かるかどうかはわからない。
(少なくとも、こんな光景だけは見せないで済んだ)
人喰いのバケヘビは伸びきると勢いよく反転し、真下で叫ぶ獲物へ襲いかかる。
鮮血は貴之の顔まで跳ね飛んだ。