第15話 広がる地獄 前編
友木貴之は警察署で宮武警部と女医を置き去りに窓から逃げ出したあと、駆けつけた警官を呼び止める。
「バケモノが玄関ロビーにいます! 重傷の人がまだ二階に……」
「わかった! 君も逃げて! こっちも人手が足りないから!」
追い払われただけだった。
考えてみると、あまり役に立てることもない気がして落ちこむ。
自宅の方向でもある駅へ向かうと、駅前広場は夜中にも関わらず避難者であふれ、駅前商店街にまではみでていた。
貴之は人混みや騒がしさを見ると学校での惨劇を思い出して気分が悪くなり、商店街の端から様子をうかがう。
噂はいろいろ聞けた。
「電話が通じない」
「自動車での移動が禁止された」
「鉄道を越えて北町へ抜ける道と、市の外へつながる橋はすべて封鎖された」
「毒ガスではなく、感染症が広がっている」
「検診に時間がかかっている」
「中町小学校が一時待機場所として開放されたって」
ちらほらと人だかりを離れる人も出ている。
引き返してくる中には長い黒髪の女性もいた。
警察署のロビーでも見かけた女性だった。
日本人形のような容姿も印象的だったが、今はそれ以上に格好が目立っている。
肩にかけていた毛布は無くなっていて、検診を受ける時のような、腰紐を結んだだけの簡素な半袖ガウンしか着ていない。
むきだしの肘を寒そうに抱え、近くのひなびた洋服店に目がとまると、困ったような顔で見つめていた。
素足に薄いスリッパが痛々しい。
貴之は頭をかきながら、軽く会釈だけして洋服店へ入る。
神経質そうな年配の店主とたどたどしく話しながら、店の外から黒髪の女性が不思議そうに見ていることに気がつき、耳を赤くした。
検診衣とスリッパは、古風ながら上品なスカートスーツと革靴になる。
さびれた店の売れ残りだったが、色白の整った顔とあつらえたように似合っていた。
「ありがとうございます。手荷物を置いてきてしまって、本当に困っていたんです。あんな格好のまま自宅にも帰れなくなって……もう泣きそうでした」
物腰の柔らかな女性がほほえみ、まっすぐに見つめてくる。
「いえ、店の人が親切でよかったです」
貴之は顔を上げられない。
自分でも真っ赤になっているのがわかる。
ふたりは夜道をいっしょに中町小学校へ向かった。
「オレも持ち合わせがなかったんで、生徒手帳を預けて借りられないか頼んだんですけど。事情を説明したら金なんかいらないって怒られて……かっこいいですよね」
「友木さんだって。最近の若い子が冷たいだなんてウソですね。あ、私、久津井美咲と申します」
そっと会釈する仕草まで可憐だった。
貴之は足が浮き立ってしまう。
昼に同級生が皆殺しにされ、ついさっきも大人ふたりを犠牲に逃げ出したばかりなのに、どういう神経をしているのかと自責の念にもかられる。
それでも、うれしかった。
悲惨で情けない一日でも、ようやく少しでも人助けをできた。
こんな美人にほめてもらえるなんて、できすぎにも思えたが、さっきまでが最悪すぎた。
これくらいの埋め合わせには甘えてもいいはず……などと煩悶する。
「あら? その制服……」
久津井は貴之の制服までも、うれしいものを見つけたようにつぶやく。
「私、となりの大学で働いているんですよ?」
そのころ駅の南側、中町の駅前商店街から脇道に入った小さな精肉店で、中年夫婦がおそるおそる店内を確認していた。
閉じられていたシャッターは大きくねじ曲げられ、ガラスも何枚か割られている。
「なに? やっぱり泥棒?」
「肉をいくつかケースごとやられてるけど、なぜだか高級品は無事だ……金も手をつけてねえや。それにこのメモ……?」
店主はレジをのぞいたあと、置いてあった紙きれに気がつく。
『ごめんなさい あとで弁償します』
線の細い、きれいな字だった。
「無茶だか律儀だか、わけわかんねえ客だな? 毒ガスが脳にきたか?」
「とにかく避難を急ぎましょうよ。治安まで悪くなっているみたいで怖い」
そんな様子が遠く小さく見える五階建てビルの屋上では、色あせた看板の裏に、藤沢裕子が身を隠していた。
足元には生肉の入った金属ケースが並んでいる。
「赤身もレバーも、ハムもだめか……もうどれも食べられない? 成分なんて、そんなに変わらないはずなのに……」
周囲からは見えにくい死角に、巨大な怪物も潜んでいた。
「じゃあ、残りは隠しておこうか。いざとなったら、ないよりはマシだろうし」
裕子はイヤホンをつけなおす。
「やはり輸血パックが大量に必要です。豚肉や牛肉はごく一部だけ、体重に対して常識的な分量しか摂取できないようです」
裕子は話しながら拳銃の安全装置をはずし、両手で握ってかまえ、ふたたび安全装置をもどす。
それを何度もくりかえした。
「協力は続けます。ジンヤに危害は加えないことを約束していただけませんか?」
巨大怪物の足元には、ガムテープで手足を巻かれた女……香上が横たわっていた。
『わかりました』
イヤホンから大人の男性の声で返答があり、裕子は少しだけ意外そうな表情を見せる。
『ただし断っておきますが……』
裕子は射撃動作の反復練習を止め、イヤホンに集中する。
『ジンヤくんが制御不能になった場合は、発砲を含む対処もやむをえません。また、そうなる可能性がある以上、封鎖線に近づいた場合も同様の判断を下します』
香上は猿ぐつわをかまされ、怯えて裕子を見上げていた。
『その点に同意していただけるなら「大きな人型の怪物は可能な限り攻撃しない」と指示しておきます』
「ありがとうございます。でも香上さんはまだ解放できません。危害を加えるつもりはありませんが、香上さんの解放や、わたしたちへの接触は考えないでください」
『指示しておきます』
「少し、お待ちください」
裕子は香上の猿ぐつわをはずし、通信機を渡す。
「好きなように話してください。信頼もしないと、協力関係を作りにくいですから」
なだめるような声と表情。
香上は裕子が手に持ったままの拳銃を見ながら、苦々しい顔で報告する。
「私は無事です。このまま藤沢さんといっしょに、封鎖線内部の状況を伝えます」
裕子は香上の通信機を取り上げたあとで、ガムテープをていねいにはがした。
「衿川さんという上司のかたは、思ったよりも早く話が通じて助かりました」
「駆除も避難も、計画に大幅な変更が出て混乱しているから。騒ぎを増やすよりは得策という判断でしょう……?」
ほかにも言いたいことはある。
藤沢裕子の行動と態度はとても高校生には思えない。
まともな民間人ではない。
衿川は短い会話でも、藤沢裕子の異常性に感づいた様子だった。
「銃と通信機を返す気はないの?」
「あなたたちは機会さえあれば、ジンヤを殺そうとする危険があるので」
裕子は淡々とした口調で首をふる。
「そんなことは……」
「その言葉以外は信用します。あなたはわたしに銃を向けた。この事件への対処として、被害者も非合法に殺す許可が出ている」
香上は弁解できないで目をそらす。
「衿川さんの約束はジンヤの『放置』まで。『保護』は含みません。こちらが安心できる条件ではありませんが、反故になりそうな約束は避けていて、正直な提案に思えました」
裕子は表通りを見下ろす。
広い国道の向かい側に警察署が見えていた。
正面入口から離れた位置で、パトカーが三台ほど停まっている。
バケヘビによって多くの死傷者が出ているにも関わらず、見張りはそれだけだった。
南町の南端にある森で消えたバケヘビは、南町の北端にある警察署で突然に出現している。
緊急避難指示は中町にまで広げられ、避難誘導の人員不足と混乱が激しい。
裕子は夜景を指でなぞり、巨大な怪物に進路を示す。
「歩道橋だけ人目に気をつければ、行けそうかな……?」
「あなた、なにをする気?」
「まだ生存者がいるかもしれませんので、救出へ向かいます」
香上が露骨にあきれて、不安そうな表情も見せる。
「このまま事故が収束したら、ジンヤは生き残れても無事に済まない可能性が高いので」
裕子は香上といっしょにジンヤに抱えられ、黒く巨大な腕にしがみつく。
「ジンヤの『点数かせぎ』をしておきたい……事故の収束後でもジンヤが人間として生きられる可能性は、少しでも広げておきたい」
その横顔だけは、ただ一心に大事な相手を想う少女のさびしさであふれていた。
巨体が闇に跳ぶ。
車道一本の幅、一階ぶんの高低差くらいは無視して、ビルの屋上をジンヤが駆けた。
香上は大きな震動に内臓を揺すぶられて顔がひきつる。
国道に車両の行き来はほとんど見えない。
歩道橋をズシ、ズシと二回ゆらし、あっという間に向かいのビルまで飛び上がった。
警察署の敷地は広く、直接に屋根までは届かない。
ジンヤは庭の樹木へ飛びつき、片手で握った幹をきしませながらすべり降りる。
人気のない駐車場の木陰で、裕子は街灯に照らされた周囲の地面を念入りに見回した。
警察署は玄関を開け放されたまま、救援もなく放置されている。
「わたしのほうが、バケヘビには慣れてそうなので」
裕子は玄関の壁に沿って近づき、そっとロビーをのぞき見た。
「……よし、だいじょうぶ」
もどってくると緊張した面持ちで、額に汗をかいている。
「バケモノはいなかったの?」
香上は拍子抜けして、ため息をついた。
「いえ、バケモノ『しか』いません」
裕子の苦笑に、ため息は途中で飲みこまれる。
ロビーの床は厚い粘液にまみれていた。
ヘビと呼ぶには不器用にのたうつ太く長い管が、いくつもからみあっている。
裕子が手ぶりで示すなり、ジンヤは無造作に踏み入った。
「無理はしないで」
人間用の玄関は低く、巨体はほとんど四つん這いに丸まって侵入する。
ズシッ、ドスッと震動が響き、ソファが真横に宙を飛び、派手な音をたてて大破した。
人骨と芋虫を合成したような軟体も飛び交うが、冷蔵庫のような腕に激突され、壁一面へ肉片がぶちまかれる。
圧倒的な重量と速度による粉砕、飛散。
様子をのぞき見た香上は、裕子が生き残れた理由を直に目撃する。
「なるほど……車両か、散弾銃なみの威力……」
背後で銃の安全装置をはずす音がして、あせってふりむく。
しかし裕子はジンヤとバケヘビの観察に集中していた。
銃口を自分へ向ける様子はない。
今のところは。
「伏せて!」
裕子は叫んだが、香上は伏せるよりも先に正面へ顔をもどしてしまう。
巨大な軟体が、香上のすぐ近くの壁へたたきつけられた。
しかし破裂しないで形状を保っている。
驚いて倒れこんだ香上の目前で、牙だらけの口が開かれた。
裕子は意識して慎重に照準を合わせる。
弾丸は額に当たってひるませたが、ゆっくりと頭を向けなおしてくる。
二発目は胴の一部を削るだけだった。
ゆっくりと上に伸びはじめている。
その喉元へ三発目が当たり、今度は倒れる。
「さがって!」
香上は言われるまま這って後ずさり、裕子も合わせて後退する。
バケヘビはなおも身をよじり、飛びかかろうとしていた。
しかしブギャリと巨大な足に踏みつぶされる。
「やはり普通の銃では効果が薄いみたいですね? これならジンヤのほうが頼もしい」
香上は目の前の異形たちに圧倒されながら、背後の静かな声にも寒気をおぼえた。
高校生の少女がバケモノに襲われ、はじめて発砲した直後の言葉には思えない。
「ジンヤは動きの無駄が減って、足音も小さく……身軽になっている」
象のような巨体と怪力、人肉捕食の性質。
硬く厚い皮膚と、極端な新陳代謝。
「本当に暴走する危険はないの?」
「今のジンヤが空腹に追いつめられたら、人を襲うよりも餓死を選びかねません……わたしにはそのほうが怖い。香上さんも、見ていましたよね?」
そう言われて思い出したのは、身動きできない男の頭を釘抜きでめった打ちにする少女の姿。
人の鼻を咬みちぎった、少女の姿をしたなにか。
『人喰いのバケモノ』と呼ばれて喜ぶ、凄惨な笑顔。
署内のバケヘビが一掃されても、香上の起き上がる動作はこわばって緊張していた。
バケヘビの残骸や、暴れ終えた巨大怪物のほうが、まだしも直視しやすい。
背後でつぶやいた声はどこまでも孤独で、重苦しく、厳格すぎた。
「あの恐ろしい肉体にふさわしい心は……わたしの心で補う」
香上の冷汗が止まらない原因は『背後に立つバケモノ』への恐怖だった。