第13話 地獄に笑う 前編
藤沢裕子が近づくと、女はとっさに引き金へ指をかけた。
しかしバツが悪そうに、ゆっくりと指をもどす。
裕子はただ言われたとおりに病室を出ようとしているだけだった。
すれ違う前に足をとめ、顔を見つめてくる。
「とりあえず……偽名でもなにか、名前を教えてもらえませんか?」
裕子の静かな重みに女はとまどいを隠しきれない。
「香上、です」
街灯は夜空の薄曇りをぼんやりと照らしていた。
北町の病院から出た車は裕子を乗せたまま、駅前で立ち往生する。
避難者の車両がひしめき合って、動く気配がない。
香上と名乗った女は、無線らしきイヤホンにたびたび注意を向けていた。
「分泌物が多く、乾燥を嫌う……市街で出ているいくつかの被害も、あなたの知っている『バケヘビ』と特徴が一致します。それと川を渡った形跡はないため、大量の水も苦手かもしれません」
市全体は東西を広い川にはさまれている。
鉄道をはさんで北側の『北町』は中心となる市街地で、南側の『中町』は駅前商店街のほかは宅地が多い。
さらに南にある国道を越えた『南町』は農地が多くなる。
南町の南端に広がる森全体が、新設された学園の開発予定地になっていた。
「現在の避難指示は南町のみです。途中にある用水路と国道を越えなければ、人口密集地である『中町』への影響は考えにくい……ただ問題は、姿を見失っていることです。あれだけわかりやすい痕跡を残して人を追っていたはずなのに……なにかわかる?」
裕子は首をふる。
「わたしが救助される前にも姿を見せなくなりましたが、原因はわかりません。ただ、粘液だまりの状態で潜んでいた時もあったので、残骸は念のために……」
「焼却ね? 人手があればね? 乾燥剤でも効果はありそうだけど、量が足りるかどうか……橋とか下水路から先につぶしているけど」
香上は不意にハンドルをきり、飲食店の駐車場へ強引に車をねじこむ。
「歩くしかなさそうね」
まだその表情は高圧的だった。
香上は長身で脚が長く、めりはりの豊かな体型だった。
化粧のうまさもあってモデルのようにも見える。
裕子とのふたり連れは目立ちやすい。
普段のこの時間なら、北町商店街は通勤帰りを中心にまばらな人通りしかないはずだった。
しかし今は避難者が途切れることなく行き来している。
駅の周辺は特にひどく、構外にまで人があふれ、駅員が整理に追われている。
裕子はそっと眉をしかめた。
「肉ばかり……」
「えっ?」
「いえ、人ごみに近づくと気分が悪くなるので……中町へ抜けるなら、ひとつ向うの高架下が通りやすいかもしれません」
人通りが少ない道へ入ると、はた目に品の良さそうなふたりは物騒な話をはじめる。
「細かく飛び散らせたほうがいいなら、拳銃より散弾銃のほうがよさそう?」
「銃には詳しくないので……ただ、強い弾力があるので、衝撃であれば自動車をぶつけるくらいの威力が必要です。ところで……まだバケヘビのことしか話していませんが……」
裕子は聞かれたこと以外は慎重に隠していた。
「……香上さんたちの情報は、その『ヘビのような生き物』のことだけですか?」
「どういうこと? ほかになにかある?」
香上はすぐに警戒を露にする。
「まだ記憶が混乱しているので自信はありませんが『ちがう形のバケモノ』も見たような気がするので……そちらの危険は低そうでした。なにか情報があれば、もっと思い出せるかもしれません」
裕子の態度は落ち着きすぎて不穏だった。
「それは取引? こちらは別に、あなたを拘束したっていいのだけど……」
裕子が不意に立ち止まり、香上はあわててショルダーバッグへ手をつっこむ。
しかし裕子は暗い脇道へ目を向けていた。
「血のにおい……香上さん、念のため拳銃の用意を」
そう小さくつぶやいて、裕子は脇道へ入っていく。
「ちょっと!? そっちは……別に遠回りにはならないけど……」
中町でも中心部の駅前を離れると、工場や倉庫が多くなり、夜は人通りがなくなる。
裕子は街灯もまばらなコンテナの並ぶ敷地へ入った。
「ひどいにおい……でもバケヘビのにおいはしない……?」
「なんのつもり?」
香上には目もくれず、廃材が積まれて入りくんだ奥へ進む。
シャッターが開いたままの、金属片が乱雑に散らばった建物へたどり着いた。
「ちょっと、そんなところ勝手に……?」
踏みこんだ裕子は入口の近くをあさり、金属性のダストボックスを開ける。
大きなビニール袋が三つ。
中には血まみれの肉塊が入っていた。
薄暗いが、よく見れば人間の手足も混じっているとわかる。
「あぐ……っ!?」
裕子がふりかえると、屋外にいた香上が背後から金属パイプで殴られていた。
香上は小太りの金髪男に引き倒され、建物の入口には長身の短髪男が立ちふさがる。
「なんでわかったかなあ?」
短髪男はのっぺりとした顔にゆがんだ笑いを浮かべていた。
裕子は後ずさり、建物の奥へ入る。
「あ、動いたら鼻をそぐから。別に騒いでもいいけどさ。人いないし」
小太りの男は暴れる香上にのしかかり、ガムテープで手足を縛ろうとしていた。
のっぺり顔の男はゆっくりと裕子を追う。
「騒ぎにまぎれてオモチャをさらいに行ったのに、表通りをはずれたらジジババしかいねえでやんの。で、帰ってみたらこれだよ。こんな時に、こんな場所へなにしにきたの? そこの生ゴミの知り合い?」
おもむろにナイフを向けた。
「さっさと脱げよ。何分かでも長生きしてえだろ?」
男は口だけで笑い、目は爬虫類じみた威圧を見せていた。
裕子は顔をこわばらせ、刃先との距離をはかる。
「がんばってくれたら、オレの気も変わるかもしれないし……その顔なら、いい客とれる……」
「わりい、こっち少し、手を貸してくんね?」
外の香上がしつこく暴れ、小太りの男は手を焼いていた。
「アホか。足でもアバラでも一本くらい最初に折っとけよ……」
短髪男が一瞬だけ目をそらしてもどすと、釘抜きをふりまわす少女の姿が見えた。
「うっお!?」
短髪男はとっさに身を引いたが、腕を浅く削られる。
「なんのために……」
少女の顔は恐怖や絶望ではなく、暗い怒りに凍っていた。
「……あの犠牲は、なんのために必要だったの?」
続くひとふりをかわした短髪男が腹を蹴りつける。
裕子は釘抜きを取り落とし、廃材の山へたたきつけられた。
「なにしやがんだクソブタ! 殺す気かよ!?」
短髪男は裂かれた腕を抑え、ナイフをかまえなおす。
「当たり前でしょう?」
裕子は顔をしかめながらも、痛がるそぶりも見せない。
両目にむきだしの憎悪が噴き出していた。
「わたしが何人ぶん、生きなければいけないと思っているの?」
起き上がりながら、手元のガラス片を握りこむ。
外の小太り金髪男は、もう香上の手足をあらかた縛り終えようとしていた。
「そっちだってガキひとりに手こずってんじゃねえか」
地面に押さえつけられた香上の頭と、押さえつけている金髪男の頭すれすれに、ドラム缶のような物体がドスリと置かれた。
タイヤのような弾力がある黒い柱はさらに一歩先へ置きなおされる。
それはいびつにゆがみながら、象のような巨体につながっていた。
香上と金髪男は互いの状況すら忘れて絶句し、その威容を見上げる。