第10話 地獄の底 後編
裕子はただ待つしかない苦痛をふたりぶん背負いこむ。
そうなってみると、案外すんなりと『次は自分』でよいと感じられた。
古見まで犠牲にして助かっては、生き残る意味すら失いそうに思える。
もちろん自分の命をあきらめる気はない。
それでも最後の最後は『自分が先』と受け入れる気持ちになれた。
自分の棺桶をながめる感慨深さで人喰いの巨体を見上げる。
自分を喰わせ、古見を託すことになる、口しか持たない異形の怪物。
古見の腕を食べた時と同じ姿勢で両ヒザと両手をつき、うつむいて背を向けている。
「あなたはいったい、何者?」
「グォ……、グゥオ……」
本人が一度は『わからない』と答えていた。
だからそれほど期待はしていない。
研究員らしき白衣の男は、避難指示の口調も泥酔しているようにたどたどしかった。
最後は空腹にばかり内容が偏り、錯乱がひどかった。
「グォオ……オ……」
呼吸を抑えるような長い息。
「オ……レ、ワカラ……ナイ」
同じ返答。しかし裕子は動揺した。
以前よりも聞きとりやすくなっている。
言葉のつながりにも、思考して伝えようとする意志を感じた。
「ワカ……ナイ、ナマ……エ……オレ……」
この怪物が人間に近いとわかるほど、裕子には思い出したくない事実がある。
古見の腕を、柳を、江賀崎を、その口へたたきこんで喰わせたのは自分だった。
野坂もまた、自分がこの巨人との同行を決めたから喰われた。
そしてこの巨人も、裕子が同行を決めたから人間を三人、それに人の腕を一本、喰わされることになった。
おそらくは錯乱のひどい、泥酔のような精神状態で。
もし生まれつきの怪物ではなく、元は研究員や実験協力者などの人間なら……自分のしたことを理解したなら、どうなるのか?
「思いだせない? もし助かったら……わたしが守るから。あなたは正常な判断をできない状態で、ぜんぶわたしに命令されていたと証言する。だから、せめて名前だけでも……」
本当に思い出してしまう可能性も、裕子は感じはじめていた。
巨大怪物の体質は急速に変化している。
空腹になるまでの時間が長くなっていた。
空腹になってからも狂暴になりにくい。
そこまで考えて、裕子の背筋は寒くなる。
柳はなかなかとどめを刺されなかった。
古見の腕は口に入れ、命令してもなお、かじるまでに長い間があった。
(食べるのを、ためらっていた? 食べさせたのは、自分だ)
その責任が急に重くなる。
しかたなかった。そうするしかなかった。
それでも自分がおぞましい。
古見の様子を見ると、まだ弱々しく呼吸を続けていた。
目を閉じたままの顔はさらに青黒くなっている。
「オレ……ジン……ヤ」
裕子はゆっくりとふりかえり、口しかない顔をぼうぜんと見上げる。
「ナマエ……オレ……、ジンヤ……オレ……、ワカラ……ナイ……ナマエ」
裕子は冷や汗を噴き出す。
泣いていいのか笑っていいのか、こわばってゆがんだ顔がもどらない。
一年E組には野坂と同じ中学出身の小柄で無口な男子がいた。
うつむきがちなさびしげな姿をよく見かけていた。
かなり前から病欠が続いて『アレルギーかなにか』で『体調が悪い』らしかった。
八島ジンヤがひさしぶりに登校できたら、昼食に誘おうと思っていた。
不恰好な黒い巨体はヒザ立ちでうつむいたまま、つぶやき続ける。
「ヤシマ……ワカラナイ……、ジンヤ……ナマエ……オレ……」
聞き取りやすくするために、呼吸を抑えるだけでも大変な様子だった。
「ジンヤ……オレ……ワカラナイ……」
裕子はかろうじて踏みとどまる。
「わたし……あなたになんてことを……」
野坂は世話焼きだった。
同じ中学というだけで、それまで特に交友のなかったジンヤを部活に誘い、病欠中にたまったプリントを自宅まで届けていた。
その野坂は裕子についていった先でジンヤにたたきつぶされ、喰われてしまった。
裕子はジンヤに野坂を喰わせてしまった。
江賀崎と柳は軽い性格だったが、陰口を恥じるまともさがあった。
ふたりの明るさなら、長い病欠の後でもジンヤに居場所を作れると思っていた。
そのふたりをジンヤの口へ押しこんでしまった。
ジンヤは同級生を、友人を、もしかしたら親友を、喰い殺してしまった事実をどこまで理解できているのか?
(八島くんが正気にもどったら、その時こそわたしは殺されるかもしれない)
同級生を喰い殺したジンヤを世間は、家族は、どう思うだろうか?
ジンヤはその時こそ、抑えようのない狂気におちいるかもしれない。
なんで喰らった? 誰に喰わされた?
(それはわたし)
同級生の藤沢裕子が命令した。
(本物の『バケモノ』はわたしのほう)
顔がゆがむ。
大声で笑い出しそうになるのをこらえた。
「はは……は……」
自分の意志で親友たちを殺し、自分が生き残る道を選び続けた。
(人を餌食に生きている怪物はわたし)
裕子は気がつかない。
古見は薄く眼を開けていた。
ゆっくりそむけた顔には苦痛と、恐怖と……
「八島くん」
裕子が苗字で呼びかけても、巨体は反応しない。
「ワカラナイ……ナマエ……オレ……」
「ジンヤ?」
大きな口がゆっくりとふりむく。
「ジンヤ……オレ……」
「そう、あなたの名前」
(ジンヤはバケモノじゃない。わたしに利用されただけ)
そんな言葉がくり返し浮かぶ。
「オレ……ジンヤ……オレ……」
「わたしは藤沢裕子……わかる? 窓際でひとつ前の席。野坂くんや江賀崎くんとよくいっしょにいて……」
「ワカラナイ……ガッコウ……オレ……」
裕子はため息をつき、安心してしまった。
学校生活を思い出せないことは気の毒だったが、同級生を殺した自覚はまだ無さそうだった。
それだけがうれしい。
ジンヤだけは罪悪感で苦しまないでほしかった。
「オレ……ビョウキ……ワカラナイ……ガッコウ……」
しかしいずれは思い出しかねない。
「イキタイ……オレ……ガッコウ」
会話が通じやすくなっていて、言葉の幅も増えている。
体よりも先に、精神だけ元にもどってしまうかもしれない。
ここまで変わり果てた体で、どうすればまともな人生をとりもどせるのか、想像もつかなかった。
「ほかにしたいことはある? 生きて帰れたら、わたしがなんでも手伝うから」
ジンヤは口しかないはずの頭で裕子をながめまわす。
「グァ……イ……」
少しだけうめいて、背を向けてしまった。
「なに? どうしたの?」
「ギ……」
裕子は空腹がはじまったのかと思って警戒する。
しかしもう恐怖はない。
なるべく苦痛がない喰われかたを工夫するつもりだった。
自分にも、ジンヤの精神にも。
「ヤリ……タイ……」
裕子は続く言葉を待った。
待ち続けて、かなり遅れて察した。
(食欲を抑えられなくなっているから……性欲も?)
驚きはしたが、不思議と嫌悪は感じない。
背を丸めた後姿はゾウに近い大きさだったが、妙に弱々しく、さびしげに見えた。
「グォ、グォ……」
呼吸がうめき声にもどる。
言葉を発する意志がなくなった。
無数にひび割れの走る黒い肌が揺れている。
裕子は八島ジンヤと話したことがなかった。
自信がなさそうに背を丸め、独りでぼんやりとしている姿はよく見かけた。
目が合うとふてくされたように顔をそむけるので、嫌われているのかと思っていた。
ただ裕子がふりかえると、なぜかよく目が合う。
顔をそらすあわてた仕草は、照れているようにも見えた。
巨大怪物の動作が、見覚えのある姿に重なる。
(怪物だから、ではなくて、ジンヤくんだから無口? ジンヤくんだから守ってくれている? ……ジンヤくんだから、もがき叫ぶほどの空腹でも、がまんを続けてくれた?)
全身にはバケヘビの大群と戦い続けた傷痕が残っていた。
(ジンヤくんだから……照れて背を向けた?)
「いいよ」
裕子は穏やかな声を出せた。
「生きて帰れたら……なんでもしてあげる。がんばってみる」
巨大怪物は声を出さない。
ただ呼吸のうなりは止まっていた。
「わたしがあなたを守る。次はわたしの番」
うなりは長く止まっていた。
背だけが抑えた呼吸に合わせて上下している。
裕子はかすかにほほえんだ。
ジンヤの希望になれるなら、みんなを犠牲に生き残ったことも無駄ではないように感じられた。
バケヘビに囲まれた校庭で、ずいぶん時間が経っていた。
救助は来るのか、帰れる場所はあるのか、いまだになにもわからない。
バケヘビの群れは、もう一度だけジンヤが蹴散らした後で、ぱったりと姿を見せなくなる。
しかし下水溝出口での待ち伏せを思い出すと、安心はできない。
強行突破で脱出しようにも、古見を動かせる状態ではない。
衰弱しているのか、安定したのか、裕子には判断がつかない。
眠りに落ちているのか、呼吸は小さくなっていた。
裕子も心身の疲労が激しい。
それでも座りこんで、上着のそでをさまざまに縛りなおす。
時間の経過で、ジンヤから剥がれた皮も少しずつたまっていた。
声に出さないだけで、空腹は進んでいるはずだった。
いざとなった時、どうやれば自分ひとりで腕を止血できるか……あるいは自分を手早く絞め殺せるか、念入りに研究しておく。
ジンヤは正気にもどりはじめている。
もう人を殺させたくない。
もう人を殺せないかもしれない。
それでもジンヤと古見を死なせないために、自分を喰わせる必要もあるかもしれない。
その場合はせめてジンヤの手を借りないで、自分を遺体に変えておいてあげたかった。
空はすでに夕焼けも近い。
裕子はそでを何度も縛りなおしながら、疲労でまぶたが重くなっていた。
そでを取り落とし、ひろい上げる拍子に頭がヒザに触れると、そのまま起こせなくなる。
少しだけ目をつぶって休むつもりが、ほんの数呼吸で肩がくったりと落ちてしまう。
上着のそでがふたたび手をはなれ、地面に落ちた。
裕子の静かな寝息を聞いて、古見はそっとふりかえる。
古見は声ばかり聞いていた。
裕子のふっきれたような笑い声。
嬉しそうに怪物へ媚びる声。
古見はもげた片腕をかばい、激痛で歯をくいしばりながら這いずり、人喰い巨人へ近づく。
元はジンヤという名前の人間らしいが、そんなことはどうでもいい。
空腹になれば人を喰らい殺すバケモノには違いない。
藤沢裕子に操られる『歩く処刑台』でしかない。
人喰いバケヘビの群れを処刑してまわり、燃料がきれたら人を喰らう殺戮兵器だった。
ひざ立ちになっているバケモノの足元へ、古見は這いつくばる。
呼吸を整えながら、おそるおそる裕子の様子を確認した。
体育座りで伏したまま、寝息は安定している。
足元には物騒な縛りかたをした上着のそで……そんなものを誰にどう使う気かはわからないが、それもどうでもいい。考えたくもない。
今、目の前にいるのは瞬殺処刑台だった。
「グォ……、グォ……」
うなり声は小さくなっているが、牙から唾液がたれはじめている。
空腹は長くもつようになっていたし、空腹を激化させる負傷も少ないが、腕一本の『軽食』を補給しただけで、もうかなりの時間が経過していた。
がまんしすぎている。
好都合だった。
古見の顔がわずかにゆるむ。
「食べて」
かすかな声でささやく。
巨大怪物はゆっくりと、眠りこむ裕子へ顔を向けた。
古見は呼吸を整える。
声を出すだけでも激痛が走った。
「そっちじゃなくて、こっち」
牙しかない顔が、足元へ向く。
古見はわずかだけ、もげた腕を上げた。
「もうそんなに、もちそうにないから……」
ピンで止めた包帯の栓をゆるめると、にじんだ血がしたたりはじめる。
「もう、終わらせて。ひと思いに……楽にして」
ふたたび呼吸を整え、裕子から顔をそむけた。
「もう耐えられない。痛い、怖い……見たくない、聞きたくない……」
古見の疲れきった目に、涙があふれる。
「もういや。逃げさせて……あのバケヘビの群れや、あなたや……藤沢さんから!」
古見の小さな叫びで、裕子は意識をとりもどす。
自分が眠ってしまったことに気がつき、あわてて重傷の古見へふりむいた。
「早く……!」
ジンヤの足元に置かれた古見の頭と、轟音をあげてふり下ろされる巨大な拳。
「……ありがとう」
古見はようやく、穏やかな笑顔を見せた。
震動が響く。
裕子はなにかを言いかけたまま意識を失い、顔から倒れこむ。
その耳に、遠くかすかな機械音が届きはじめていた。
ほどなくけたたましい騒音が急接近し、校庭の上空で静止する。
『校庭に生存者……生徒一名を確認! 救助を開始します!』
暗闇と、薄暗い天井。
夜の暗さと、カーテンを透けて差しこむ街灯。
藤沢裕子が目を覚ました。
学校の制服ではなく、簡素な寝巻きを着ている。
真白いシーツと、消毒液のにおい。
介護用のベッドと、病院らしきせまい個室。
意識を失う前にも聞こえたような、ヘリコプターの音が届いていた。
かなり近くを飛んでいる。
市内放送がくりかえし呼びかけていた。
『……付近のかたは、避難してください。大学研究施設での事故は現在、火災は収まっていますが、有毒ガスが発生している危険があり……』
切れ長の両目が病室を見回す。
凍てつく瞳は、ほかに誰もいない闇を凝視した。
「ジンヤは……?」