雪の花降る
初雪が降って冷え込む今日の日に、頭から水を被った少女が街角に店を出していた。
聞けば、彼女の仕事に苦情のあった客にやられたのだと言う。哀れに思えてクラウスがハンカチを手渡すと、金の髪と蒼い瞳を持つ少女はふわりと微笑み、何かお礼を、と告げたその口で、――呪いの言葉を吐いた。
「今日から三日後、あなたは何者かに狙われて命を落とします」
彼女の名はユーリア・エヴァルト。人の死期やら破滅やら、不幸ばかりを占うとアルトの街でも有名な『死神付きの占い師』だった。
「今、俺が死んだら小躍りして喜ぶのは誰だと思う?」
頬杖を突いたまま視線を動かすこともなく、クラウスは後ろに控える護衛に声を掛けた。
分かり切った質問を投げた理由は、『暇だから』が一割、残りの九割は単なる『現実逃避』だ。誰も真実なんか求めてない。ちょっとした冗談でも言って笑い飛ばせれば、それで良かった。しかし、世の中には冗談の通じる人間と通じない人間がいる。残念ながら、彼は後者を代表するような性格の男だった。
「噂話は到底数え切れません。ですが、直接の関わりを持つ者に限るのであれば、お許嫁のウルフェルディ公女が最たる者でしょう」
アルベルトの無慈悲な仕打ちが、惨めなまでにクラウスを打ちのめす。目を背けたかったのに、結果、正面から向き合うことになったのは自業自得であるが、少しは空気を読めよとも言いたい。
(どうしてこうなった)
今度は口に出さず内心で呟くと、声の代わりにため息が漏れた。
* * *
最近までのクラウスは、何処にでもいる平々凡々の、王子だった。
祖国たるボルランナ王国は、百を超える領邦国家の内でも、軍事国家として周囲に名が知られており、王族の男子は殆どの者が軍務に携わる。王位継承順位が二位にあるクラウスも慣習に違わず、十歳で軍学校に入学した。
成績は可もなく不可もなく。良き指導者たるべき王族の一員としては凡庸というのが、自他ともに認めるクラウスの評価である。
人を惹きつけて止まないカリスマ性はないが、集団から浮いていたわけでもない。せっせと立ち動いてさえも「あれ、いたの?」と言われる影の薄い人生を謳歌していたはずが、なぜ方々から命を狙われる破目になったのか。
その原因は、ボルランナ王国が隣国と交わしたある同盟にあった。
『中立地帯のアルトはウルフェルディ公国に譲る。代わりに公女をボルランナ王国に渡せ』
そんなチンピラめいた取引を持ち掛けたのがクラウスの父でもあるボルランナ国王なら、了承してしまうのもまた一国の君主なのだから、まったく世知辛い世の中である。
アルトは資源豊富な鉱山のために成り立った街だ。貴重な鉱物に恵まれたそれはまさに宝の山であり、隣接するボルランナ王国とウルフェルディ公国は、およそ百年近くの間、互いに領有権を主張し続けてきた。
長々と引き延ばされた領土争いに決着が着いたことは幸いに思う。だが、しかし。
「和平を結ぶはずの同盟が、戦争の始まりっていうのは、避けたい事態だな」
問題は、同盟に付帯したクラウスの結婚話にあった。相手はウルフェルディ公の息女であり、それだけではなく、唯一の子でもある。
ウルフェルディ公は、齢十六の年頃に育った娘の結婚に、殊の外、頭を悩ませていた。それも当然だろう。領邦国家間の条約のせいで、女性は君主の跡を継ぐことが出来ない。それ故、婚姻を結び、有力な保護者と男児を儲けることは嫡女の義務だ。にも関わらず、公女の縁談は最近まで調うことがなかった。
どうやら、公女には恋う相手がいるらしい。困ったウルフェルディ公と利益に目が眩んだボルランナ国王は密かに手を結び、クラウスを生け贄に捧げてめでたしめでたし。と、然うは問屋が卸さない。怒った公女は設けられた顔合わせの機会に一度も姿を現さず、公国を狙う各国の横恋慕者たちからは敵視され。以降、クラウスの暗殺順位は格段に上がり、護衛まで付けられた。
「大人しく殺されてやるおつもりで?」
言葉の裏に潜んだ同情心を察したのか、アルベルトが皮肉めかして言う。
「まさか。俺が殺されたら、国同士で戦争が勃発しかねない。それは御免蒙りたいから、こうして彼女を張っているんだろう」
クラウスの命を狙う者は数知れず。それでも、殺されてやるわけにはいかない。生き抜くため、クラウスはユーリアの背後にいる者を探ろうと様子を窺いに来たのだ。
本意ではない行動に声が苛立ちを含ませたが、朴念仁のアルベルトは無頓着に訊ねた。
「ところで、何故、覗き見するような真似を? 人に任せてはいかがです?」
クラウスたちが忍んでいるのは、ユーリアの店から離れた場所にある、石壁の陰だ。こそこそせずとも、疑わしいと思うならば捕らえてしまえ、外出を控えろ。と言外に告げているのだろう。だがクラウスは、この問題を他人に漏らして大事にする気はなかった。
「女性を真っ向から疑って掛かるのは、俺のポリシーに反する」
真面目に返しただけ余計に間抜けさが浮き彫りとなる。その向こうで、ユーリアに近付く男がいた。
はっと意識を向け、クラウスは男の動きに注視した。彼は何かを手に持ち、人目を憚って行動している。どこぞの国か、もしくは、公女からの使いかもしれない。
気持ちを引き締めて見遣っていたクラウスは、しかし、男の思わぬ行動に仰天して、ばっとその場を飛び出た。
「あら、昨日の軍人さん。ちょうど良かった」
走り寄るクラウスを見付けて、ユーリアが暢気に声を掛ける。
「お借りしたハンカチをね、いつ返せばいいかと思って」
「そんなことより、あの男に何をされた!?」
じりじりと寄っていたはずの男は逃走し、ユーリアは、頭から真っ赤な色を流していた。
差し出されたハンカチを取り、彼女の額にそっと添える。赤が白に染まって濡れるが、小さな布一枚では到底間に合わない。
一番近い医療機関はどこだった? 思い悩むクラウスの前でユーリアがけろりと答える。
「ああ、大丈夫。怪我じゃないの。これは、」
「……トマト?」
手に触れたその赤は、考えていたよりも水っぽく、さらりとしていた。似た覚えがある野菜の名前を口に出してみるが、きっと勘違いだろう。人の頭からトマトは生えない。
「それがね。立派に働いてたら今日も――」
「分かった、もういい」
つまり、またもいちゃもんを付けられて、物をぶつけられたのか。大怪我を負ったわけではないと知って、一先ずは安堵する。
「昨日はお水で、今日はトマト。柔らかい物ばかりで最近はついてるわ」
どこがだ、と思う。けれどユーリアは心からそう思っているのか、晴れやかな笑顔を浮かべていた。雪は止み、空はクラウスの髪色と同じく曇天の灰色模様を示す中、隠れた太陽が落ちてきたような眩しさだ。
「いつも、こうなのか?」
置かれた丸木椅子に座るなり、曖昧に訊ねる。その意図を、ユーリアは理解して肯いた。
「そこまで過激な人は多くないわ。けれど、そうね。占いの結果に対して文句を言われたり、物をぶつけられたり。占いが当たって八つ当たりされることは、割と日常茶飯事ね」
「それで何故占い師を続けようと思える?」
「答えは簡単。コレになるからよ」
コレ、と言いながら、右手の親指と人差し指を繋げて丸を見せる。
「ユーリア……」
「つまりね。それだけ価値があるってことなの。わたしは不幸事しか占えないへっぽこ占い師だけど、客足は途絶えたことがないのよ」
「けれど、仕事なら他にもあるだろう?」
疑っていたことなど忘れて、純粋に身を案ずるが故の言葉だった。その意味に思い至ったのは、ユーリアの険しい瞳で射られてから。
「馬鹿にしないで。わたしは仕事に誇りを持っているの。それなのに、与えられた力を無碍にして、見えない振り、知らない振りをして過ごせと言うの? 冗談じゃないわ」
「……君は強いな」
掛け値なしの思いだった。ユーリアの言葉が胸を刺す。『見えない振り、知らない振りをして』それはまさに消極的に事を構えるクラウスの本質を示している。命じられるままに婚約を受け入れ、人から憎まれて。けれど、そこにクラウスの意志は欠片も存在しない。
より歳若い少女だって、道は自分で選んでいるというのに。ふと息を吐いて、クラウスは椅子に深く沈み込んだ。気落ちした様子を見て、ユーリアはもじもじと身体を揺らし、
「本当のことを言えばね。こう思えるようになったのは、あなたのおかげなの」
思わぬ告白をした。ユーリアと出会ったのは昨日が初めてのはず。なのに彼女は、首を振って否定する。
「昨日よりずっと前、やっぱり言い掛かりをつけられていて、心がくじけそうになってたの。むしろ目の前にいる男を呪ってやりたい気持ちでいっぱいになって、他人に不幸が起きても関係ない、もう占い師なんてやめようって思った。その時、あなたが何の関係もないわたしを助けてくれたのよ」
さっぱり覚えていなかった。そう言うと、ユーリアは「でしょうね」と笑った。
人に優しく接することは、あなたにとって少しも特別なことではないのでしょう? と、却って嬉しそうに告げる。
「見返りもなく助けてくれたことが嬉しかったの。昨日も……。だから、わたしは占い師を続けているのよ」
淡い金色の髪が豊かな笑顔を飾る。そうさせたのはクラウスだと彼女は言う。信じられない話だ。まるで繰り人形が命ある花を育てるかのように滑稽で、愚かで――
「俺はそんなに立派な人間じゃない」
込み上げてくる喜びを手の内に握り締め、クラウスは己を律して言った。
「どうして? わたしは素敵だと思ったのに。そう思うこともいけないことみたい」
「次男坊が出しゃばると碌なことにならないんだ」
決して目立たず、余計なことをせず、クラウスは平凡でなければならなかった。クラウスには母違いの兄がいるが、兄の母君は既に天に召されているため、宮廷では後妻であるクラウスの母と権力を分けている。その状態でクラウスが威望を得れば、兄はどうなる? 宮廷では早くも、同盟の婚約を以って、クラウスを未来の国王にと推す声が上がっている。そうすればボルランナ王国は戦わずして国土を広げられる可能性があるからだ。何気ない希望。しかし、それを承服することは出来ない。出来るわけがない。次男が国を継ぐのは、長兄の身に問題が起きた時なのだから。
「お兄様がお好きなのね?」
簡潔な言葉が、なぜだか遠く感じる。
「家族なんだから当たり前だ。それに、兄を立てておけば、余計な軋轢は生まれない」
婚約を受けても、凡才な第二王子から無力な婿に変わるだけだと思っていた。むしろ良かれとしたことが、誰のためにもならない。
「いつも周囲に気を配って。あなた自身はどうしたいの?」
ユーリアが尋ねるが、クラウスが望むことなど基本的なことだ。もう少しくらいは生き延びたい。人から憎まれる可能性を減らしたい。それだけのことが、こんなにも難しい。
息を吐く。クラウスに向かって、ユーリアが言った。
「ねぇ。あなたを襲う犯人の顔が分かると言ったら、あなたはわたしを信じてくれる?」
「……分かるのか?」
「占った時、水晶に犯人の姿が映ったわ」
つまり、ユーリアの発言を信じる以外に、それを証明することは出来ないということだ。
けれど、もし、全てを未然に防ぐことが出来たなら。襲われるより早く犯人を保護し、何事もなく同盟の調印を迎えられれば。それは、クラウスが最も切望している結果だった。婚約の是非は、生きていれば公女本人と話し合うことも出来るだろう。命あっての物種だ。
「軍人さん?」
「君に頼みたいことがある」
これまでは、確固たる意志を見せないよう、息を潜めて過ごしてきた。しかし、今だけはその誓いを破ろうと思う。
「儲け話に興味はないか?」
自らを守るために他人を巻き込むのは恐ろしかった。けれど、ユーリアはクラウスに残された唯一の希望だ。手放したくはない。
問い掛けに、商魂逞しい笑顔が返される。
「とっても、あるわ」
事態の深刻さに伴わず、ユーリアはいともあっさりと承諾した。
「――と、いうことで。身分を明かして、ユーリアに協力を求めたから」
まさにパーティー当日。会場に向かう途中で事実を聞かされたアルベルトの目付きは、一瞥で人が凍るかと思うほど冷ややかだった。
ただでさえ外は寒いというのに、これはきつい。クラウスは一人、まるで道化師のように笑顔を装う。
「……パーティーに参加して、犯人を見かけたらすぐに教えてほしい。頼んだ時、彼女が第一声に発した言葉は何だと思う?」
「王子たる殿下への、数々の無礼に対する謝罪でしょう」
「『パートナーの扱いではないの?』だ」
これを聞いた時、ユーリアのお気楽な図太さに心が軽くなった。大丈夫、きっと上手くいく。何の根拠もないが楽天的になれたのだ。
笑いは伝染する。少しでも気苦労を減じようとクラウスは朗らかに声を上げた。そして、
アルベルトの眉間に皺が一本増えた。
「どうなさるおつもりです」
にべもない回答に、こっちまでため息を吐きたくなる。
「信頼の置ける知り合いの女性に、娘として連れて来てもらえるよう頼んだ。このパーティーの目的は、俺と公女殿下の顔合わせなんだし。女連れで見合いに行くのはさすがに」
「そうではありません。公人の方が、胡散臭い高が占い師の言うことを、本気で信じるおつもりなのかとお聞きしております」
なんということか。アルベルトは無表情で正気を問うていた。
(まあ、確かに――)
古来より、神や精霊の名を騙った詐欺師が国を乱した事例は数え切れず。学問が発達し、軍事が国力を示す今の時代においては、占い師などという軟弱な職業それ自体が眉唾物だ。
そうした知識人の常識に頓着しないクラウスでさえも、占いを積極的に認める気はない。
つまり、ユーリアの予言を疑っていないわけではないのだ。ただ単に、彼女を信じたいと思っている。その理由は実に俗なものだ。
「どうせなら生き長らえる方に賭けたいんだ」
呟きを聞いて、アルベルトがぴたりと動きを止める。その隙に、足を一歩踏み出した。
クラウスの前に、芸術的に尖塔を並べて囲った白い壁が見える。そして白の玄関。本日の会場であるアルトの合同庁舎が立っていた。
アルトの合同庁舎は、ウルフェルディ公国とボルランナ王国が共同で建設した建物で、迎賓館の役割も負っている。故に、内部は広く、豪奢な造りだ。この中から、クラウスはユーリアを見つけなくてはならない。
(けど、まあ。すぐに分かるだろう)
扉の前に佇立した男性がよく通る声でクラウスの入場を告げる。真紅の絨毯を通り、重厚な小物が妖しく輝くホールへと足を踏み入れた途端、一斉に顔が向けられた。次々と降ってくる挨拶をくぐり、視線の波を掻き分け、
果たして、ユーリアはそこにいた。
* * *
「まださっきの方を気にしていらっしゃるの? あんなのただのナンパよ?」
考え込んでいた耳にユーリアの声が届き、クラウスははっと我に返った。
周囲では、華やかなドレスに身を包んだ淑女が紳士に手を取られて舞い踊っている。
ユーリアも、預けた女性が世話をしてくれたらしく、場に相応しい格好に気飾っていた。
誰も彼女を街角の占い師だとは思わないだろう。光に反射して輝く濃い瑠璃色はユーリアには少し大人っぽいかとも思えたが、胸元で切り替えられてふわりと元気に揺れ動く裾の動きが印象を随分と変えており、その不均衡さが却って彼女の魅力を増加させていた。
現に今も、あちこちから油断ならない視線を感じるし、初顔となれば物珍しさも加わる。ユーリアが見知らぬ男から声を掛けられてもおかしいことではない。むしろ自然だ。だが、
(本当に、それだけの理由だろうか?)
どうにも腑に落ちない思いが胸を支配する。
クラウスがホールに入った時、ユーリアの側に一人の青年がいた。
薄い金髪に白い肌、整った顔立ち。と、ウルフェルディ公国らしい特徴を持ち得た彼の青年はハリス・フォン・レプシウス。ウルフェルディ公女の又従兄弟であり、既に王族からは離れているが、公女の家庭教師役を務めるなど、未だに縁が深い関係だ。
そのハリスが、ユーリアに話し掛けた。
(これは偶然なのか? それとも、)
ちらりと視線を向けると、それに気付いてユーリアも顔を上げた。
「ところで、わたしたち。とっても目立っていると思わない?」
クラウスの疑念に不審を返すことなく、きょとんと純粋な瞳で見上げてくる。
集った人々の半数以上はダンスに熱を入れており、残りは長椅子に座って語り合っている。クラウスたちのように、周囲に目を遣りながら壁に沿って歩き回る者は他にいない。
周りと異なる行動を取れば確かに目立つだろう。しかし、人を探すために他に取れる手段も――と考えて、気付いた。
「もしかして、踊れるのか?」
「人並みには」
失礼なほど正直に示してしまった驚愕をさらりといなし、ユーリアが微笑む。なだらかな態度に、絡まった思考が緩むのを感じた。
(穿ち過ぎだ)
ユーリアにウルフェルディ公国の刺客である嫌疑を掛けるなど。今更の話である。
クラウスを狙うならば、わざわざ警戒させるようなことは言うべきではない。ユーリアは違う。そう、信じようと決めたのだ。
「では私と踊っていただけますか? レディ」
「よろこんで」
強張った姿勢で正しく誘うと、ユーリアは素直にその手を取った。
流れてくる序奏が、ワルツの始まりを告げる。今流行りのヴェニーズワルツ。沸き立つ場内に居場所を見つけることこそ難しいが、決して高度な踊りではない。けれど、それを差し引いても、相性の良さを無視することは出来なかった。初めて組むというのに、ユーリアはクラウスのリードに軽々と着いてくる。まるで全ての癖を知り、息さえもすっかり読んでしまっているかのように。ペアでくるくる回転していても、進む先に意志と足の齟齬は感じられず、実に踊りやすい相手だった。
「見つかったか?」
口に出して確認しなければ、思わず本来の目的を忘れてしまいそうなほど。それはクラウスだけではなく、ユーリアも同じく表情を生き生きと輝かせていた。
「いいえ、まだ……」
ユーリアの声が、ふとあえかに揺れる。
クラウスが異常を感じたのとユーリアが力なく寄り掛かってきたのは、ほぼ同時だった。
「大丈夫か?」
「ええ、少し胸が苦しくて……。人に酔ったのかもしれないわ」
答えつつ、ユーリアが口許に手を添える。ステップを踏む足は動きを止め、人を避けて揺れるに留めた。しかし、まだ曲は続いている。クラウスは彼女を抱えるように支え、煌びやかな間を抜けて内庭へと続く廊下に出た。
合同庁舎の内庭は緑で溢れた造りとなっていて、その只中に、小さな神殿のような丸い四阿がぽつねんと建っていた。内には壁に沿った縁台がぐるりと円形に設えられており、ユーリアの華奢な身体をそこに横たえる。
「熱は?」
「自分では分からないけれど……」
月の頼りない輝きに照らされて、白い肌が一層際立つ。顔を下にしているのに、天を見上げている感覚だった。瞳に映るしどけない姿が、黒い雲が月を隠すように、心を艶やかな手付きで撫で付ける。
「――どういうつもりだ?」
胸の奥に潜む疾しい感情を嗅ぎ取ったのか、体温を計ろうと近付けた手からぱっとユーリアが顔を逸らし、代わりに、彼女の腕がクラウスの首に巻き付いてきた。
首を引かれて、こつんと額と額が合わさる。額に熱はないが、頬が火照り瞳は潤んでいた。
「女の子に言わせるつもり?」
震える声が耳朶に甘く響く。
誘われるまま、クラウスの身体は深く沈んでいった。
喧しい音楽がくぐもる空の下、四阿の影に消えた二人の姿を遠くから見ている男がいた。
予想通りの展開に、男がにやりと笑む。
逸る心を抑え付け、雲が月を隠してしまう時機を待つのは、途方もなく永く思えた。が、遂に時は満ち。ざわり、風に揺れる梢が男の肌を粟立たせる。
足音を消し、草を踏んで歩く。一刺しで心臓に至るよう剣を縦に持ち上げ、そして――
「それで、君は誰の刺客だ?」
興奮に見開いた目が獲物の姿を映すより早く、男の手から得物が消え去った。
金属が打ち合った甲高い音に、男は失敗を覚る。挙げ句の果てには、味方に付いたはずの闇夜が視界を奪い、剣を取ることをも難しくさせていた。
苛立ちが舌打ちとなって表れ、逃げの一手に全力を賭ける。しかし、柔な見掛けであっても、クラウスも軍人だ。揉み合う力は予想外に強く、切り抜けられない。やがて大木に背を押し付けられ、男は逃げ場を失くした。
「動かない方がいい。手元が狂うかもしれないからな」
首に手を掛け、刃で脅しながらも、クラウスは下手を打たなかった。自殺を図らないよう布を噛まされ、縄で身体を縛られる。
恥を晒すくらいならばいっそ殺してくれ。願う心は聞き届けられず、助けを求めて顔を上げた男は、そこに仲間の姿を見付けて全てを知った。自分は騙され、囮にされたのだと。
* * *
「お疲れさま、これで一安心ね」
労いの言葉が全ての終わりを告げた。
犯人を誘導し、油断させて捕らえる。計画の通りに事は進んだ。客の立場では会場に武器を持ち込むことが出来ないからと、予め四阿の椅子の下に隠しておいた道具も功を成し、
なのに、なぜだろうか。気分が晴れない。
犯人は、クラウスには見覚えのない男だった。ウルフェルディ公国の軍服を着込んでいるが、それ以外に気に掛かる特徴もなく――
そう。不思議なほどに違和感を感じなかったのだ。男の剣や体術の手は、慣れ親しんだボルランナ王国の型に類似していた、気がする。もちろん、必死の状況下において、技の教義をいちいち考える人間もいないだろう。しかし、考える暇のない時こそ、習った型が自然と表れるものではないか。
とすれば、男は公国の人間ではなく、彼は、
「……っ、クラウス!!」
思索に溺れていたその時、耳にユーリアの叫び声が届いた。同時に聞こえてきたのは、乾いた破裂音。
はっとして振り返った胸に、ユーリアが背中から倒れ込んでくる。咄嗟に肩を支えるが、重心を失った身体はぐらりと傾ぎ、追い掛けたクラウスも片膝を着いた。
木々に阻まれた向こうへ、拳銃を持った人影が背を向けて逃げて行く。〈彼〉が撃ったのだ。犯人は二人存在した。そんな事実が頭を駆け抜け、全身から力が抜けていった。
「ご無事ですか?」
聞き慣れない声を耳にして顔を上げると、ウルフェルディ公国のハリスが近くから顔を覗き込んでいた。合わされた視線はすぐに外され、ユーリアの身体を引き取られる。
「ユーリアは……」
「ご心配なく、この方は狸ですから。今も狸寝入りしているだけですよ」
随分な物言いだが、ハリスの言は誤りではなかったらしい。直後に咲いた蒼色の瞳が、ぎろりとハリスを睨み付ける。
「……誰が狸よ。相変わらず嫌味な蛇男ね」
「聞き分けのない主人を持てば、嫌味の五つや六つは言いたくなります。空砲でも、拳銃の前に出ることは危険な行為だってことくらいご存知でしょう。おまけにドレスの裾にヒールを絡げて転ぶとは、いったい何歳児ですか。全く以って嘆かわしい」
「それを言うなら、わたしは事が起こる前に〈彼〉を捕まえるよう伝えたはずだけど?」
「罪を犯す前から、他国の地位ある人間をおいそれと逮捕することが出来ますか。弾丸を抜いた銃に武器をすり替えるのが精一杯です」
ぽんぽんと紡がれる言葉に、クラウスは目を瞬かせた。
「君たち、君は……」
話を聞いている限り、ユーリアとハリスは今日が初対面の関係ではない。けれど、一介の、しかも自国ではない街の占い師が、どうして国の中枢に関わる人間と親しくなれる?
疑いを孕んだ瞳で見つめると、ハリスとユーリアはどちらからともなく、お互いに視線を合わせた。『ちょっと、何か言いなさいよ』『ご自分で説明してくださいよ、めんどくさい』とでも思っているのか、目と目で語り合う仲の良さが窺える。そうして無言で言い負かされたユーリアは、手を取られて立ち上がり、ドレスの裾を摘んで優雅に一礼をした。
「お初にお目にかかります、殿下。わたくしはウルフェルディ公が第一子。この度の御縁付きを心から嬉しく思いますわ」
今夜はもう何も驚くまいと思っていたのに、衝撃は続けてやってきた。ユーリアが公女?
「……なら、占い師というのは?」
「お忍びの姿ですわ。ユーリアは愛称です」
「俺は、君には恨まれているのだとばかり」
思っていたし、噂でも聞いていた。しかし、その意見は物凄い勢いで否定された。当人のユーリアではなく、ハリスに。
「とんでもない! 彼女の貴方に掛ける熱意ほど鬱陶しいものはありませんでしたよ。街で一目惚れして以来寝ても覚めてもクラウス様、クラウス様。他の男との結婚が決まりそうになれば、あらゆる人脈の弱味を握って破断に追い込み、最終的にはこうして婚約にまで漕ぎ着けたのですから、ストーカーも真っ青のストーカーっぷりです」
「余計なことは黙っていなさい!!」
思わずのように叫んでから、ユーリアが慌てて向き直る。
「あ! いえっ、決して、ずっと黙っていようと考えていたわけではないのよ。ただ、そのぅ。わたしは不幸を占う不吉な公女だから、これまで公の場には出ないようにしていたし、クラウスと公女が顔を合わせる時を犯人が狙っていたから、伝えることも出来なくて」
たじたじと答える内容に、クラウスは目を瞠った。
「どうして……」
「え?」
「どうして〈彼〉を隠そうとしたんだ?」
ユーリアがはっと息を呑む。
「そ、れは……。信じてもらえるとも思っていなかったし。何より、貴方に知られたくなかったから。信を置いた護衛が裏切っているなんてこと」
しどろもどろに選んだ言葉も嘘ではないのだろう。撃った犯人は、アルベルトだった。
しかしユーリアにはまだ隠していることがある。アルベルトを護衛に付けた者、ボルランナ王国の不利にならない条件でクラウスを亡き者に望んだ者、その人物が事件の黒幕だ。
「殺そうとしたのは、俺の兄か」
口に出すと、無気力なクラウスに代わって、ユーリアがぎゅっと拳を握り締めた。
折しも、ちらちらと雪が降り始めた。積もる雪に埋れて深く沈んでいく心を、掬うように柔らかな温もりが包み込む。
ユーリアが、クラウスを抱き締めながら、静かな声でしゃくり上げる。
応えて、ユーリアの背中にそっと手を回し、空を見上げた。景色は涙に濁り、雪の花が咲いていた。