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深夜の電話

 朝、鏡の前に立っても、奇跡は起きていなかった。

 見慣れぬ自分の顔に絶望する暇さえなく、また過酷な「偽りの一日」が幕を開ける。数日間、画面越しのLIMEで事務的な連絡を交わすのが精一杯だった二人が、ついに限界を迎えて通話ボタンを押したのは、ある夜の11時30分だった。


 美希(外見は亜希)は、ようやく嵐のような育児と家事を終えたところだった。

 子どもたちを寝かしつけ、山積みの洗濯物を一枚ずつ畳み終える。夫の修一は自分のことが終わるとさっさと寝室に行ってしまった。静まり返ったリビングのソファに倒れ込み、スマホを握りしめた。


 一方、亜希(外見は美希)は、高層マンションの一室にいた。

 窓の外に見える都会の夜景は、冷え切ったデスクで格闘する終わりの見えないプレゼン資料をあざ笑うかのようだ。


 プルル、と鳴った着信音。

 二人は、まるでお互いの呼吸を測っていたかのように、ほぼ同時に通話ボタンをスライドさせた。


「……ちょっと、お姉ちゃん! あんたの夫、一体何なの!? 化石? それとも絶滅種か何か!?」


 第一声は、美希の激昂した怒鳴り声だった。

 亜希は、受話器から流れてくる「自分の声」の剣幕に驚きながらも、どこか奇妙な安らぎを覚えていた。


「美希、落ち着いて。……修一さんが、何かしたの?」

「何かしたも何もないわよ! 脱いだ靴下はリビングに放置、ご飯が出てくるのを口を開けて待ってるだけ。極め付けは『一日中家にいたんだから楽だったろ?』よ! 脳みそ沸いてんじゃないの!?」


 亜希は思わず、乾いた苦笑を漏らした。

「……あんただって、そんな風に思ってたでしょ。それが私の『日常』なのよ。それで、子どもたちは? ちゃんとごはん食べてる?」


「……。長男の晴樹は『カレーの味が違う』って怪しんでるわ。野菜炒めとかチャーハンで誤魔化してるけど、あの子、本当にお姉ちゃんのことよく見てるのね。……あとの二人は、まあ、元気いっぱい。次男は自慢げにダンゴムシをプレゼントしてくるし、三男は公園の草を握りしめて帰ってくるし……」


 亜希は、美希の姿をした自分が、泥だらけの次男と三男に、虫と草を差し出されている光景を想像して、思わず吹き出した。


「ふふっ、それは……大変だったわね。お疲れ様」

「……まあね。でも、まあ。……案外かわいいところもあるじゃない。せっかく持ってきたから、リビングの空き瓶に挿して飾ってあるわよ。ダンゴムシは逃がしたけど」


 少し照れくさそうな美希の声に、亜希の胸がじんわりと温かくなる。


「……そっちはどうなの? 会社の方は」

「ああ、同僚の若村さんがものすごくフォローしてくれて、なんとか。彼がいなかったら初日で詰んでたわ。メールの返信も、全部美希が指示してくれてるおかげだし……」

「そうね。お姉ちゃん、私の仕事の内容なんて、さっぱりわかってないもんね」


「……うん」


 不意に、会話が途切れた。

 電話越しに重なるのは、それぞれの場所で、誰かの役割を必死に全うしている二人の静かな吐息だけだった。


「……美希。あなたの仕事、本当に凄いのね。メールの数、会議のスピード……。私、必死でついていこうとしたけど、もし何か間違えてたらと思うと怖くて……。でもね、あなたの『推し』の動画、少しだけ見たの」

「えっ、ちょっと、勝手に見ないでよ!」


 受話器の向こうで美希がうろたえる気配が伝わる。亜希は穏やかに続けた。


「ごめん。でも、彼が言ってたの。『君が今日、誰にも見られない場所で頑張ったことを、僕は知ってるよ』って。……なんだか、私のことを言われているみたいで、思わず涙が出ちゃった」


「お姉ちゃんは、家族のために自分を削りすぎ。もう少し修一さんに頼ってもいいと思う」


 法事の日はあんなに罵り合い、互いの生活を「楽そうでいいわね」と切り捨てていた。けれど相手の靴を履いて歩いてみて初めて、その足の痛みが、自分と同じくらい切実なものだと知った。


「……お姉ちゃん。明日、修一さんに『業務改善命令』出すから。いいわね?」


 美希の口調が、一瞬でバリキャリ時代の戦闘モードに切り替わった。


「えっ、ちょっと、穏便にね……?」

「無理。それからお姉ちゃん、明日の会議だけど。私のパソコンの『共有フォルダ』にある資料、そのまま読んでもいいけど……お姉ちゃんの考えてることを、そのまま言ってみてもいいかも」


 美希の声が、少しだけ真剣なトーンに落ちる。


「きっと、私にはない角度の視点があると思うから。主婦を舐めてるおっさんたちに、底力を見せてやって」


「……わかったわ。やってみる」


 鏡の魔法がいつ解けるのか、その予兆はまだない。けれど、二人は鏡の中の「見知らぬ自分」に向かって、少しだけ誇らしげに口角を上げた。

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