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バリキャリの一日

 一方、出社した亜希(外見は美希)は、眩いオフィス街のビルを見上げながら、どこか呑気なことを考えていた。


(どうせ美希がやってる仕事なんて、書類を右から左へ流す入力業務か、お茶汲みやコピー取りでしょ。独身なんだし、お昼はおしゃれなカフェで優雅にパスタランチでも楽しませてもらおう)


 スマホに届いたスケジュールを開くまでは、そう高を括っていたのだ。


【本日のスケジュール】


 08:30 出社・メールチェック


 09:00 定例進捗会議(MTGルームA)


 10:30 クライアントA社・オンライン商談


 11:30 チーム内ブレスト


 12:00 役員向けプレゼン資料最終チェック


 13:00 経営企画部との予算折衝


 14:30 プロジェクトB・トラブル対応会議


 16:00 クライアントC社・訪問(直行)


 18:00 帰社・報告書作成、明日の準備


メールは私が返信するから、わからないことは「恐れ入りますが検討しますので、後ほどメールにてお願いします」って言っといてね!!同僚の若村さんには説明しておいたから、フォローしてもらって!




(……えっ、ランチの時間は? どこにも書いてないじゃない!)


 動揺を噛み締める間もなかった。デスクに腰を下ろした瞬間、まるで見計らっていたかのように内線電話が悲鳴を上げ始める。


「美希さん、B社の件ですがこれどうしますか!」

「至急、こちらの承認をお願いします!」


 周囲の社員たちが、堰を切ったようにデスクへと押し寄せてきた。突きつけられる書類と矢継ぎ早の質問は、まさに雪崩のようだ。視界が白熱しそうになるのをこらえ、彼女は美希から授かった「魔法の言葉」を、努めて冷静なトーンで口にする。


「……恐れ入りますが、精査した上で検討いたします。恐れ入りますが、後ほど改めてメールにてお送りいただけますか?」


 定型文を繰り返す彼女の横で、同僚の若村が「今は立て込んでるから俺が預かるよ」と、さりげなくフォローの舟を出してくれた。背中に流れる冷や汗を隠しながら、彼女は若村の差し伸べる手にすがる思いで、荒波のような業務の渦中に必死に食らいついていった。


 亜希が想像していた「お茶汲み」などどこにもない。そこにあるのは、1分1秒を争う判断の連続と、膨大な数字の羅列、そしてピリついた空気の中での高度な交渉だった。


 結局、楽しみにしていたパスタランチどころか、席を立つことすらままならない。引き出しに入っていたパサパサの「カロリーバー」を、パソコンの画面を凝視しながら口に放り込む。それが彼女の昼食だった。


(だ、誰か助けて……。美希、あんた毎日こんなことしてるの?)


 午後、ようやくクライアントへの移動で外に出られたものの、美希の履き慣れたはずのヒールが容赦なく亜希の足を締め付ける。慣れないビジネス用語のシャワーに脳はパンク寸前。ミスが許されない緊張感に、胃がキリキリと痛んだ。


 ようやくオフィスに戻ったのは、外がすっかり暗くなった19時過ぎ。しかし、周囲の誰も帰ろうとしない。むしろ、ここからが「報告書作成」という名の残業の始まりだった。


(……いつ帰れるの? 私、もう限界よ……)


 キーボードを叩く指が震える。

 家では「ママ!」「ご飯!」と追いかけ回される喧騒に辟易していたが、この無機質なオフィスで、自分の能力だけを試され続ける孤独な戦いは、それ以上に過酷なものに感じられた。


 22時。

 ふらつく足取りで駅のホームに立ち、滑り込んできた夜の電車に体を預ける。窓ガラスに映る自分の顔は、驚くほど疲れ果てていた。


 ふと、意識の端っこに「彼」の姿が浮かんだ。

 美希のデスクに鎮座していた、あのやたらと目力の強いイケメンのアクリルスタンド。そういえば、彼女の部屋の棚にも同じ男がいたはずだ。


「……なんて名前だっけ。確か、レン……とか、そんな感じの……」


 うろ覚えの名前を頼りに、震える指でスマホの検索窓を叩く。ヒットした公式サイトのトップには、あの射抜くような瞳の彼がいた。


 公式SNSを遡ってみる。すると、ちょうど一時間前に投稿された、彼の自撮り写真と短い言葉が目に飛び込んできた。


『今日も一日、本当にお疲れ様。君が頑張っていること、ちゃんと分かってるよ。』


 画面の中の彼は、優しく、けれど真っ直ぐに語りかけてきた。


「……えっ」


 亜希の目から、不意に涙が溢れそうになった。

 家では「やって当たり前」だと思われ、会社では「完璧にこなして当然」だと求められる。誰からも労われることのない、孤独な戦い。

 それを、この画面の中の青年だけが「知っている」と言ってくれた。


(美希……、こんな風に誰かに言ってほしかったのかな。一人で、ずっと……)


 マンションに着き、玄関のドアを開ける。出迎えてくれたのは、ルンバの乾いた作動音と、ベルの小さな鳴き声だけだ。


「……ただいま、ベル」


 冷蔵庫を開けても、中にあるのは冷え切った栄養ドリンクだけ。

 亜希は、いつもなら子どもたちの食べ残しを「勿体ないわね」と笑いながら片付けていた、あの騒がしい食卓がどれほど温かかったかを思い出す。


(……私、美希のこと、全然わかってなかったのかも……)


 華やかに見えた妹の生活は、実際には張り詰めた糸のような緊張感と、喉を焼くような栄養ドリンクの味で構成されていたのだ。


 慣れないヒールで酷使した足首は、ズキズキと熱を持って脈打っている。

 着替える気力さえ残っていない。亜希は、高級そうな、けれどどこか落ち着かないソファに泥のように体を横たえた。

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