専業主婦の一日
「ええっと、それで何をすればいいんだっけ……」
美希はスマホを掴むと、姉の亜希からLINEを再度読み返した。
【本日のスケジュール(必読)】
06:00 起床、お弁当・朝食作り
07:00 夫と長男を送り出し、次男の支度
08:00 次男を幼稚園バスへ
08:30 朝食片付け・洗濯(2回)
09:30 三男と公園 or 児童館
12:00 昼食(うどん等)
13:00 三男お昼寝中に夕食作り
14:30 次男帰宅
15:00 長男帰宅(宿題チェック、公園遊び)
17:00 夕食
18:00 お風呂
19:00 後片付け・明日の準備
20:00 子どもたち就寝(絵本の読み聞かせ)
21:00 夫帰宅・夕食出し
画面をスクロールしながら、美希は鼻で笑った。
「……ふん。要するに、家事を片付けてあとは子どもと遊んでればいいわけね。分刻みの会議に追われる私に比べれば、天国じゃない。楽勝だわ」
だが、その自信はわずかのうちに打ち砕かれた。
まず、台所が「多変量解析」より複雑だ。お弁当を作ろうとすれば智樹が足元で泣き叫び、次男の光樹は「あ、トイレ行きたい」と出発5分前に言い出す。
7時に夫と長男を追い出し、8時に次男をバスに乗せた時点で、美希のHPはすでに赤色だった。
「……待って。まだ朝の片付けすら終わってないのに、もう公園に行く時間?」
公園では、智樹に案内され、泥まみれの勲章(泥団子)を授与された。
帰宅後の昼食も一筋縄ではいかない。智樹はうどんを一本ずつ手で掴み、わざと床に落とす。
「智樹! 食べ物で遊ばないで!」
叱れば泣く。なだめれば、さらにうどんを振り回す。美希の服は飛び散っためんつゆで無残に汚れていく。
「……もう、夕食はカレーでいいでしょ……。カレーなら作れるし」
三男の昼寝という「ゴールデンタイム」に、美希は決死の覚悟でカレーを仕込んだ。隠し味だの飴色玉ねぎだの、そんな余裕はない。市販のルーを放り込んだだけの「美希流・最短ルートカレー」だ。
しかし、長男・晴樹が一口食べるなり、怪訝な顔をした。
「……ねえママ。今日のカレー、なんか味が違う。いつものジャガイモのトロトロがないし、お肉も硬いよ」
「文句言わないの! 食べられるだけマシでしょ!」
思わず声を荒らげる。晴樹は寂しそうにスプーンを置いた。
19時。
戦場のようなお風呂場から、這い上がるようにしてリビングへ戻る。自分の髪をドライヤーで乾かす余裕など1秒もない。濡れた髪をタオルで無造作に巻いたまま、次は夕食の後片付けだ。
シンクに積み上がった皿を洗っている最中、背後で晴樹と光樹が些細なことから取っ組み合いのケンカを始めた。
「もう、やめて! 静かにしなさい!!」
バリバリ働くビジネスパーソンとしての理性はどこへやら、美希は本能のままに怒鳴り散らし、なんとか二人を宥めて布団へと押し込んだ。
20時。
ようやく横になれると思った瞬間、三人がそれぞれの「お気に入り」を両手に抱えてやってきた。
「えっ……これ、全部読むの?」
渡されたのは、智樹の短い絵本から、晴樹が持ってきた文字の多い児童書まで。
(勘弁してよ……。これ、プレゼン資料を三本読み上げるより過酷じゃない)
心の中で悪態をつきながらも、美希は渡されるがままにページを捲り、声を出し始めた。拙い読み聞かせだったが、物語が進むにつれて三人の寝息が重なり、やがて部屋に穏やかな静寂が訪れた。
美希は力尽きたように、ぐったりと布団に横たわる。
(……何が『楽勝』よ。自分の名前を一回も呼ばれないまま、14時間もぶっ続けで他人のために働かされるなんて。もう……早く、自分のマンションに戻りたい……)
暗闇の中で、じわりと涙が滲んだ。
ここでは「美希」という個人は存在しない。朝から晩まで、ただ「ママ」という役割だけを求められ、消費されていく。
だが、隣で眠る智樹の寝顔が目に入る。
そこには、昼間の怪獣たちの面影はない。智樹は、公園で摘んできたしおれた花を、宝物のように小さく握りしめたまま、すやすやと眠っている。
(……生意気な怪獣のくせに、寝顔だけは反則ね)
智樹の頭をそっとなでる。その驚くほど柔らかく温かい感触に、不思議と心が凪いでいくのを感じた。
(明日……明日の朝には、戻っているかな……)
そう呟きながら、吸い寄せられるように三男の横に潜り込んだ。
泥のような眠りに落ちる瞬間、最後に頭をよぎったのは、推しの新曲でも仕事の進捗でもなく、「明日の朝のお弁当、卵焼きにはカニカマを入れようか」という些細な献立の悩みだった。




