それぞれの朝
「ママぁ! おしっこ! 出る、出ちゃう!!」
「……ん、えっ!? ぐふっ……!」
美希(外見は亜希)が強制的に叩き起こされたのは、午前6時丁度。三男・智樹の無慈悲な膝蹴りが、鳩尾にクリーンヒットした瞬間だった。
視界に飛び込んできたのは、美希のマンションの真っ白な天井ではなく、薄暗い和室の天井と、鼻水を垂らして股間を押さえる幼児の顔。
(そうだ……入れ替わったんだ。最悪の現実……)
隣を見れば、夫の修一が「うるせえな……。亜希、早く連れてけよ。静かにさせろ」と、いびきをかきながら毛布を被り直した。
(……なんなの、この人。一発殴っていいかな?)
美希の本来の朝は、完璧にルーティン化されていた。
お気に入りのアロマを焚き、丁寧に洗顔し、15分のストレッチ。オーガニック野菜で作ったスムージーを飲みながら、推しの配信アーカイブをチェックして、心を整えてから戦場(会社)へ向かう。それが彼女の生活だった。
しかし、現実は非情だ。
「ママ、もれるぅぅ!」と叫ぶ智樹を抱え、トイレへ猛ダッシュ。
「ママ、おなかすいた!」
「ねえ、僕の体操服どこ? 洗った?」
リビングに出るなり、長男・晴樹と次男・光樹からの要求が雨あられと降り注ぐ。
ふと、洗面所の鏡に映った自分を見て、美希は絶叫しそうになった。
(なっ……何これ!? 誰よこのボロ雑巾みたいな女は!)
そこにいたのは、寝癖で爆発したボサボサの髪、乾燥してカサカサの肌、そしていつから着ているのか分からない、首元がヨレヨレになったキャラクターもののスウェット姿の亜希。
慌てて指先を見れば、昨日まで宝石のように輝いていた推しカラーのジェルネイルは跡形もなく、深爪寸前まで短く切り揃えられた、色気も何もない爪が並んでいた。
(……スキンケアは? ストレッチは? スムージーは……!? 自分の髪を梳かす時間すらないなんて、人間として終わってるわ!)
台所に立てば、シンクには昨夜の食べ残しがこびりついた皿の山。
「……ちょっと、修一さん! 起きてよ! 子どもたちの相手くらいして!」
あまりの惨状に寝室へ怒鳴り込むと、修一は片目だけ開けて面倒そうに言い放った。
「あー……。亜希、悪い。今日大事な会議でさ、喉の調子整えたいんだわ。朝飯はパンでいいよ。あ、コーヒー淹れといて。濃いめでな」
(……殺意。今、私の心に明確な殺意が芽生えた)
美希は震える手でフライパンを握った。卵を割ろうとして、短すぎる自分の爪が殻に当たり、指先がピリリと痛む。
振り返れば、智樹が床に牛乳をぶちまけ、光樹が晴樹の頭をリモコンで叩いている。
(……あいつ、こんな生活を『幸せ』だって、本気で言い張ってたの? 馬鹿じゃないの……?これは人間の生活じゃない、『奴隷』じゃないの!)
フライパンの上で、目玉焼きが無惨に崩れた。
それはまるで、美希のプライドが音を立てて崩壊していく音のようだった。
*
一方、美希の超高層マンションの一室で目覚めた亜希は、耳が痛くなるほどの「静寂」に、深い違和感を覚えていた。
「……静かね。嘘みたい……。智樹? 晴樹……?」
いつものように顔面を蹴られることも、耳元で絶叫されることもない。久しぶりに、一度も中途覚醒することなく泥のように眠った。けれど、あまりの静けさに、かえって心臓がバクバクと騒ぎ出す。
慌てて飛び起きたが、そこは戦場と化したリビングのソファではなく、高級ホテルのようなセミダブルベッドだった。枕元には、読みかけの絵本や恐竜のフィギュアの代わりに、分厚い英語のビジネス書。そして、知らないイケメン――美希が心酔している「推し」のアクリルスタンドが、完璧な角度で並んでいた。
「そうだ、入れ替わったんだ……。私、今日から美希なんだ」
現実を再確認するように呟き、顔を洗おうと洗面所へ向かった。そこは、生活感の塊である自分の家の洗面台とは、あまりにもかけ離れた空間だった。
カウンターには、見たこともない海外ブランドのスキンケア用品が、まるでデパートのショーケースのように整然と並んでいる。
「……えーっと、とりあえず洗顔、よね?」
手を伸ばしかけて、亜希は固まった。
「美容液」「拭き取り化粧水」「アイクリーム」……。
(どれから使えばいいの……)
結局、ぬるま湯で丁寧に顔を洗った。
鏡に映る自分を見れば、肌は驚くほどツヤツヤで、髪の一本一本まで手入れが行き届いている。
(……すごいわね。美希はどれだけ自分にお金かけてるの?それに、自分の顔をじっくり見る時間があるなんて、奇跡だわ……)
感動に浸りながらキッチンへ向かう。そこには、亜希の家にはない最新機器がずらりと並んでいた。
「おお~! これ、テレビで見た全自動コーヒーメーカーじゃない!」
ボタン一つで本格的な香りが広がるコーヒーメーカー、勝手に床を滑り出す最新のルンバ。洗濯機だって、洗剤を自動投入してくれる大きなドラム式だ。
とりあえず冷蔵庫を開けてみる。上段にはお洒落なオーガニックのドレッシングや、美希が言っていたベル用の高級ウェットフードが並んでいる。
「意外と自炊してるの……?」
と思いきや、奥から出てくるのは大量のエナジードリンクと、美容パック。そして「推し」がCMをしている銘柄のビールだけ。あとは栄養バーやサプリメントの袋。
(……やっぱり、ちゃんとした食事なんてしてないのね)
ふと足元に、ふわふわした感触があった。黒猫のベルが、大きな瞳で亜希を見上げている。
「あ、ベルちゃん! おはよう……。お腹空いた?」
そっと手を伸ばすと、ベルは最初こそ警戒したものの、すぐに喉を鳴らして甘えてきた。
(かわいい……。うちの子たちも動物が大好きだけど、晴樹に猫アレルギーがあって飼ってあげられなかったのよね。いつか、少しだけでも触らせてあげられないかしら……。あ、でも、あの子たちの朝ごはんは? 智樹、泣いてないかな。修一さん、ちゃんと靴下見つけられたかな?)
離れて数時間。静寂を求めていたはずなのに、思い出すのは騒がしい家族のことばかり。
しかし、感傷に浸る時間は一瞬で奪い取られた。
「……えっ、嘘、もう8時!? ちょっと待って、どの服を着ればいいの?!」
空腹のまま、冷蔵庫に残っていたエナジードリンクを流し込む。
(昨日の今頃は、子どもたちに『野菜食べなさい!』って怒鳴りながら、自分は立ったままキッチンで冷え切った味噌汁の残りをかき込んでたのに……)
亜希は、慣れないヒールに足を無理やり突っ込んだ。
誰にも「行ってらっしゃい」と言われない、無機質な玄関。ルンバの作動音だけが響く部屋。
「……行ってきます」
独り言のように呟いた声は、高い天井に吸い込まれて消えた。亜希は美希のバッグを握りしめ、未知なる「会社」という名の戦場へ向けて、震える足取りで踏み出した。




