苦渋の決断
「ママー! おなかすいたー! ともくん、ゼリーたべたい!」
「ママ、みつきがぼくのゲームかくしたー!」
静寂を切り裂くのは、三男・智樹の絶叫と、長男・晴樹の訴えだった。次男の光樹はといえば、仏壇のお供え物をこっそりポケットに入れている。
「ちょっと……! 静かにしてよ! お姉ちゃん、なんとかして!」
美希(外見は亜希)は、耳を塞いで叫んだ。
目の前で繰り広げられる「日常」という名のカオス。さっきまで他人事だと思っていた騒音が、今は自分という個体を物理的に削り取っていく。
「……これ、どういうこと? 私、なんで美希の顔なの?」
亜希(外見は美希)は、震える手で自分の……いや、妹の滑らかな頬を触った。
「私が聞きたいわよ! 戻りなさいよ、今すぐ! 鏡、もう一回触れば戻るんじゃないの!?」
二人は必死で、手鏡をベタベタと触り、交互に握り、ついには二人で鏡を覗き込んで「戻れ!」と念じた。しかし、鏡は沈黙を保ったままだ。
美希は慌てて、自分の最新型スマホを手に取った。
『入れ替わり 戻り方』
『意識 転移 スピリチュアル』
『実家 鏡 呪い』
必死に検索するが、出てくるのはアニメの感想ブログや怪しい占いサイトばかり。
「……載ってるわけないじゃない、そんなの!」
亜希は、苛立ちのままに美希の整えられた指先をカリリと噛んだ。
「ちょっと! 何してんのよ、ネイルが痛むでしょ!!」
美希が金切り声を上げる。その異様な光景と、火花が散るような殺気。様子がおかしい母親と叔母を交互に見つめていた智樹の顔が、みるみるうちに歪んでいった。
「う、うえぇぇ……あ、あぁぁぁーーん!!」
智樹の泣き声が、奥座敷の静寂を容赦なく引き裂く。
「……智樹、どうしたの? ほら、こっちおいで」
亜希は、反射的に手を伸ばした。中身はまぎれもなく、智樹を三年間片時も離さず育ててきた母親だ。抱っこの仕方も、あやす声のトーンもそのままだ。
けれど、智樹にとって目の前にいるのは、年に数回、法事や正月で見かけるだけの「疎遠で冷たい美希叔母さん」だった。
智樹は火がついたようにのけぞり、差し出された亜希の手を全力で押し返した。
「やだ! ママがいい! ママぁぁぁーー!!」
「智樹……! ママは、ママはここに……」
亜希はショックに打ち震えた。すぐ隣に、「外見だけは本物のママ」である美希がいるから余計にややこしい。智樹は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、亜希を拒絶し、必死に美希のスカートの裾を掴もうと縋りついた。
「ママ、ママぁ! だっこ!」
「……っ」
美希は、自分の膝にしがみつく小さな塊に、どうしていいか分からず硬直した。
子どもなんて、服を汚すし、うるさいし、理屈の通じない生き物だと思っていた。けれど、自分を「ママ」だと信じて疑わず、必死に救いを求めてくるこの小さな手の熱さを、どう振り払えばいいのか分からない。
「美希、あんた何してるの! 智樹をあやして! いつも私がしてるみたいに抱っこしなさいよ!」
「無理よ! 私が触ったらもっと泣くわよ!」
長男の晴樹と次男の光樹は、遠巻きに「ママ」と「叔母さん」を見比べていた。
いつもはガミガミうるさいママが、なんだかオドオドして頼りない。逆に、いつもはクールで寄せ付けない美希叔母さんが、必死な顔で自分たちを心配そうに見ている。
「智樹……、おいで」
美希が、おずおずと手を差し出す。
すると不思議なことに、あれほど泣き叫んでいた智樹が、ピタッと泣き止んだ。そして、美希の腕の中で安心したように呟いた。
「……マ、マ……」
そこへ、荷物を積み終えた夫の修一が戻ってくる。
「おい、いつまでかかってんだ。智樹をそんなに泣かすなよ亜希。……美希ちゃんも、悪いな。じゃあ、俺たちは行くから。またな」
「えっ、ちょっと待って修一さん! 私は……!」
亜希が追いかけようとするが、修一は智樹をひょいと抱え上げ、車の方に連れて行った。
「……美希。これ、もう無理よ。一旦、行かなきゃ」
亜希が、苦渋の決断を下す。
「でも、お姉ちゃん……、私がお姉ちゃんをやるなんて、絶対に無理だよ!!お姉ちゃんだって、私の仕事のこと何もわからないでしょ?!」
「無理って言っても仕方ないでしょ!智樹はあんたのことをママだと思ってるんだから!夜は私と一緒じゃないと絶対に寝ないのよ!」
窓の外では、チャイルドシートに乗せられた智樹が、窓ガラスに顔を押し付けて「ママぁ!」と泣いている。その視線は、ずっと美希の姿を追っていた。
「……わかった。でもわからないことはすぐに連絡するからね!」
「了解……。私も連絡する」
二人は、引き裂かれるような思いで別々の車、別々の方向へと走り出した。
亜希は、ハイテクな外車を転がしながら、子どもたちのことを心底心配していた。
一方、美希は、ミニバンの後部座席で、三人の子どもたちの「ママ攻撃」に早くも白目を剥いていた。
「ママ、おなかすいた!」
「ねえママ、今日のアニメ録画した?」
「ママ、ともきがくつぬいだー!」
夜の帳が下りる頃、二人はそれぞれの「知らない玄関」の前に立っていた。




