エピローグ
半年後の週末。巨大アリーナは、色とりどりのペンライトが放つ光の海と、地鳴りのような熱気に包まれていた。
「お姉ちゃん! 遅い、こっち!」
「ちょっと美希、待ってよ……この靴、慣れないんだから」
人混みを鮮やかにかき分けて進むのは、ナチュラルメイクに新調したワンピースをなびかせる亜希と、仕事終わりのキリッとしたスーツ姿の美希だ。
あの日以来、二人は月に一度会うようにしていた。今日は、亜希が夫に子どもたちを完全に預け——美希直伝の『パパ用業務マニュアル:例外処理編』を叩き込んだおかげだ——、美希の「最推し」のライブに参戦する日だった。
「いい、お姉ちゃん? 始まったら恥なんて捨てて叫ぶのよ。それが明日を生きる、最強のデトックスになるんだから」
「わかってるわよ。……あ、そう。はい、これ。子どもたちから『美希ちゃんに』って預かってきたわ」
亜希が手渡したのは、三男が描いた、少し不格好だが愛愛しい美希の似顔絵だ。美希は「仕事の邪魔になるわね」と不遜に言いながらも、それを宝物のように丁寧に手帳の特等席へ挟み込んだ。
ふいに会場が暗転する。爆音と共に、ステージに無数のレーザーが走った。
美希の「彼」が登場した瞬間、アリーナは割れんばかりの歓声に飲み込まれた。
「……あ、すごい……」
亜希は圧倒された。
家の中で「ママ」という役割に消費される毎日では決して味わえない、剥き出しの個としての熱狂。ステージの彼が自分を名前で呼んでくれるわけではない。けれど、今この瞬間、自分という存在をまるごと肯定してくれるような、そんな暴力的なまでに強い光がそこにはあった。
「お姉ちゃん、叫んで!」
「ーーーっ、最高ーーー!!!」
亜希はなりふり構わず拳を突き上げた。日々の細かな家事、終わりのない育児、夫への積み重なったイライラ。それらすべてが、眩しい閃光の中に溶けて蒸発していく。
隣を見れば、美希が涙を流しながら、誰よりも晴れやかに笑っていた。孤独なビジネスの戦場で、彼女を支え続けていたのはこの「光」だったのだと、亜希は改めてその重みを実感した。
ライブが終わり、心地よい疲労感に包まれて会場を出た二人。夜風が火照った肌を優しく撫でる。
「ねえ、美希。やっぱり私、あんたの人生を毎日生きるのは無理だわ。あんなにヒリヒリした場所で、ずっと戦い続けるなんて」
亜希が笑いながら言うと、美希もまた、どこか清々しそうに肩をすくめた。
「私だってそうよ。お姉ちゃんの持つあの『母』としての底なしの忍耐力、一生かかってもマスターできそうにないわ」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
「でも——今の私が、一番幸せ」
不意に重なったその言葉に驚き、二人は少し照れくさそうに、逆方向の電車に乗るために手を振った。
亜希は、自分がいなければ回らない、愛おしくも騒がしい「家庭」という名の戦場へ。
美希は、自らの腕一本で築き上げた、誇り高き「キャリア」という名の城へ。
鏡合わせの人生。
もう、隣の芝生が青く見えることはない。
自分が今立っているこの場所が、世界で一番色鮮やかだと知っているから。




