魔法の鏡
読経が低く響く実家の広間は、線香の重たい匂いと、参列者の吐息が混じった湿った熱気に満ちていた。今日は、二人の母の三回忌法要だ。
「……あ、こら。静かにしてなさいってば!」
姉の亜希は、膝の上でのけぞって泣き叫ぶ三男の智樹を必死になだめていた。着慣れない喪服は子どものよだれと涙ですでにシワだらけ。乱れた後れ毛を耳にかける余裕すらない。ふと横を見れば、夫の修一は親戚の叔父さんと酒を酌み交わし、「いやあ、育児は妻に任せっきりで。僕は外で稼ぐ専門ですから!」と鼻を高くしている。
(……少しは手伝ってよ。あんたの子でしょ。私の母さんの法事なのよ)
喉元まで出かかった怒声を、亜希は冷えたお茶と一緒に飲み込んだ。
逃げるように向かった台所には、一人でスマホを眺めている妹の美希がいた。黒いセットアップを完璧に着こなし、その指先には「推し」のイメージカラーである深い紫のネイルが艶やかに光っている。
「あ、美希。悪いんだけど、ちょっと智樹を抱っこしててくれない? お供え物の片付けしなきゃいけないの」
美希は露骨に嫌そうな顔をして、スマホの画面を隠すように引っ込めた。
「無理。私、子どものあやし方なんて知らないし。この服、シルク混だから汚されたくないんだけど」
「……あんたね、自分の甥っ子でしょ。たまには親戚付き合いとか、家族のこととか考えたら?」
「親戚付き合い? 私はプロジェクトの合間を縫って、わざわざ有休取って来てるの。お姉ちゃんみたいに、家で一日中子ども相手に遊んでるわけじゃないんだから。仕事の責任ってものがあるのよ」
ピキリ、と亜希の中で何かが切れる音がした。
法事が一段落し、親戚たちがようやく引き上げた後の奥座敷。二人は、使われていないを整理していた。ふと手にしたのは、古びた『真鍮の手鏡』。母が「喧嘩したら、二人でこの鏡を見て笑顔を作りなさい」と言っていた思い出の品だ。
しかし、その鏡を前にして、二人の感情は一気に沸点を超えた。
「いいよね、美希は気楽で! 自分の好きなことだけして、給料は全部『推し』だか何だかに注ぎ込んで。夢見てるんじゃないわよ。早く結婚でもすれば? まあ、あんたみたいな冷たい女をもらってくれる物好きがいればの話だけど!」
美希の目が、氷のように鋭く光る。
「結婚? 悪いけど、誰かの『家事代行ロボット』になる趣味はないの。お姉ちゃんこそ、社会から取り残されて可哀想。一生、自分を殺して家族の奴隷をしていればいいじゃない。仕事も責任も持たずに楽できていいよね、一生終わらない『ママゴト遊び』は!」
「ママゴト!? 仕事より子育ての方が何万倍も大変よ! これこそが女の幸せなの。孤独に猫と暮らしてるあんたには、一生わからないでしょうね!」
「私だって幸せよ! 自由も、自分で稼いだお金も、推しに注ぐ純粋な愛だってある! お姉ちゃんみたいな空っぽな人生、こっちから願い下げ!」
「あんただって私になってみれば、私の苦労がわかるわよ!!」
二人は同時に、卓上の手鏡の柄を、折れんばかりの力で掴んだ。
その瞬間。
鏡がカッと白光し、二人の視界がぐにゃりと歪んだ。
「……え?」
気がつくと、亜希は「立っていた」。
さっきまで膝に感じていた子どもの重みも、湿った熱気もない。代わりに、身体を冷たく締め付けるようなタイトなスーツの感触がある。
一方、美希は「座り込んでいた」。
目の前には、鼻水を垂らした智樹が「ママー! お腹すいたー!」と砲弾のように突進してくる。
「……ちょっと、美希? あんた、なんで私の服着てるの? それに、その髪型……」
「……お姉ちゃん、鏡……見て。嘘でしょ……」
震える手で持ち上げた手鏡。
そこに映っていたのは、「自分を罵倒していたはずの、憎たらしい相手の顔」だった。




