18 ”俺”の記憶
俺がエントランスホールから廊下へ出ると、息を切らした日向さんが女の先輩と談笑していた。
日向さんは俺に気付き、駆け寄ってくる。
「御影くん、腕立てお疲れ……。私もさっきスクワット終わったとこ……」
日向さんはぜえぜえと息を荒げながら言った。日向さんの視線が、俺の腕をじっと見つめていた。
「御影くん、右腕出して」
「ん?」
俺は右腕を差し出すと、日向さんはリュックを漁ってポーチを取り出した。
「腕、怪我してるね。痛そう」
日向さんは慣れた手つきで俺の腕の傷に絆創膏を貼りつけた。
絆創膏からは微かにイチゴのような甘い香りがした。
「これで、大丈夫! 痛いの、飛んでけー!」
「子供じゃないんだから……。でも、ありがと」
俺は日向さんを見て笑うと、日向さんは少し顔を赤くして俯いた。
「それじゃ、また明日ね!」
日向さんはそう言い残して、話していた女の先輩の元へ戻って行った。
俺は日向さんを見送り、腕の絆創膏に視線を落とした。
途端に、ひりつくような痛みを思い出した。
だが痛んだのは、腕ではなく、胸のずっと底のあたりだ。
『痛いの、飛んでけー』
頭の中で、懐かしい声が蘇った。
俺――“相模大輔”の姉の声だ。
姉は呆れ笑いをしながら、俺の膝に絆創膏を貼っていた。
「もう、大輔、全力で走り過ぎ。いくらリレーの選手に選ばれたいからって、そんなに走るやついるか」
「ふうま君に勝ちたいもん。アイツ、クラスで一番速いのに、リレーの選手面倒くさいって、ムカつくじゃん。だから俺が頑張って、代わりに選ばれてやるんだ!」
当時、俺は小学2年生。
運動会に向けて、俺は毎日、何回も全力ダッシュした。
時々前のめりになって転んだ。
手足に絆創膏がたくさん貼られていた。
でも、幼い俺は信じていた。
――この傷が、痛みが、俺を強くしていると。
結局、リレーの選手には、ふうま君が選ばれた。
教室の隅で肩を落としている俺に、担任の先生が声を掛けてきた。
「大輔君。今回は残念だったけど、君の頑張りは決して無駄にならないよ」
俺はその時、その言葉に少し救われた。
そして、その言葉を胸の中で守り続けた。
翌年のリレー選抜でも、また選ばれなかった時も。
サッカー部の大会で、ベンチから下級生を応援している時も。
進路面談で、志望校のランクを下げることになった時も。
だが、だんだんと胸が擦り減っていくのを感じていた。
俺の中で、何かが冷めていった。
「努力は裏切らない」と熱弁する大人が、詐欺師のように見えた。
頑張るほど傷つくのなら、無駄なことをしなければいい。
相模大輔は、そういう人間になった。
最低限を、効率的に。
何も犠牲は払わない。
『お前は、自分が思っているような人間じゃない』
突然、脳内に低い声が落ちた。
まるで、俺のことを見透かしたように、重くてまっすぐな声だった。
『相模大輔の本質は、結局――』
「違う!!」
俺は声を遮るように叫んだ。
「大ちゃん、大丈夫か? ぼーっとしてたぞ」
すぐ隣に亮平が立っていた。
「……あ……」
俺は亮平を見たまま、口を半開きにしていた。
「大ちゃん疲れが溜まってるんじゃないかあ? そんな時は、たくさんメシ食って、寝る!」
亮平は俺の背中を叩いた。
「うん、そうする、わ」
俺はちらりと亮平を見て答えた。
少し冷静になろう。
すぐそこに休憩室のドアがある。
「休憩室で飲み物買ってちょっと休むわ」
俺は亮平を見て言った。
亮平は少し目を見開いて俺を見た。
「じゃあ、俺先に行ってるよ」
「うん。また、食堂で」
俺はそう言って、休憩室のドアに手を掛けた。




