9 おふくろのアップルパイ
「陽だまり亭」の昼下がり、店の常連である恰幅のいい中年男性が、カウンター席で大きなため息をついた。
50代の商人、グレゴールさんだ。
リナが「どうしたんですか、グレゴールさん?」と声をかけると、彼は遠い目をしてぽつりと話し始めた。
「いやぁ、嬢ちゃん。急におふくろの味が恋しくなっちまってな。昔、おふくろが焼いてくれたアップルパイが絶品だったんだ。もう一度食いたいんだが、レシピがどこにも見当たらなくてな」
カウンターでグラスを拭いていた父さんが、興味深そうに会話に加わる。
「へぇ、そんなに美味しいアップルパイがあったんですか。食べてみたかったなぁ」。
グレゴールさんは「そりゃもう、絶品よ。旅先で覚えたとかで、普通のパイとはひと味違ったんだ」と懐かしそうに語る。
話を聞くと、そのパイには「旅の思い出」が隠し味として使われており、リンゴは「酸っぱい種類」だったという。
リナの頭脳が高速で回転する。
前世の記憶が囁いた。
酸味の強い調理用リンゴには、シナモンと少量の塩が風味を引き立てる。
そして「旅の思い出」とは、異国情緒を感じさせるスパイスのことではないだろうか。
「父さん、グレゴールさん。試してみたいことがあるの」
リナは厨房に立つと、父さんに指示を出しながら、記憶を頼りにパイ作りを始めた。
酸味の強い青リンゴを使い、生地にはシナモンとひとつまみの岩塩を。
そして、旅の商人から手に入れたばかりのナツメグを少量加えた。
甘くスパイシーな香りが店内に広がる。
パイが焼き上がり、私と父さんは味見をした。
「うん。おいしい」
「そうだな。グレゴールさんの思い出のパイに近づいていればいいんだが」
焼きあがったパイをグレゴールさんの前に置くと、彼は目を丸くした。父さんも興味津々で見守っている。
グレゴールさんが一口食べ、その目から静かに涙がこぼれ落ちた。
「ああ、これだ……。おふくろの味だ……」
思い出の味は、壮年の男の心を温かく満たした。
この日以来、「おふくろのアップルパイ」は陽だまり亭の新しい名物デザートとなり、小さな娘が、常連客の大切な記憶を未来へと繋いだのだった。




