15 ヴァレリウス卿の記憶
1 試作の日々
誕生日まで、あと2日。
厨房では、毎日のように試作が続いていた。
「今日は水の量を変えてみましょう」
ハンスさんが提案する。
「生地がもっと柔らかくなるかもしれません」
私たちは水を少し多めに加えて生地を作った。
こねて、発酵させて、焼く。
結果は…悪くはないが、少し水っぽくなってしまった。
「水が多すぎたようですね」
「でも、柔らかさは増した気がします」
私は前向きに考えた。
「バランスが大事なんですね」
父さんが言った。
次は、発酵時間を変えてみた。
「もっと長く発酵させたら、どうなるでしょう」
ハンスさんが提案する。
「一晩置いてみましょう」
翌朝、厨房に行くと…
「すごい!」
生地は驚くほど膨らんでいた。
昨日の倍以上の大きさになっている。
「これは期待できそうだ」
父さんも驚いた様子だった。
焼き上げると、パンはさらに膨らんだ。
表面は黄金色で、香ばしい香りが厨房に広がる。
切ってみると、中は柔らかく、気泡がたくさん入っている。
「これは…かなり良い!」
ハンスさんが喜びの声を上げた。
試食してみると、確かに前回よりずっと柔らかい。
「発酵時間も大事なんですね」
私は学んだことを整理する。
「小麦粉、ビールの泡、しっかりこねる、長い発酵時間…」
「でも、まだ何かが足りない」
ハンスさんが真剣な表情で言った。
「味に深みがないんです。ヴァレリウス卿が言っていた『豊かな味わい』までは、まだ遠い」
2 温度の調整
「発酵させる場所の温度も関係あるのかな?」
私が提案する。
「味噌を作る時も、温度が大事でしたよね、父さん」
「そうだな。温度が高すぎても低すぎても、上手く発酵しない」
「では、今度は窯のそばで発酵させてみましょうか」
ハンスさんが言った。
窯の近くは温かい。そこに生地を置いて、発酵させる。
数時間後…
「あれ?膨らみすぎてる?」
生地は確かに膨らんでいたが、表面が少し荒れている。
「温かすぎたのかもしれません」
ハンスさんが反省した。
焼いてみると、パン自体は悪くないが、やはり表面が粗い。
「難しいですね」
「でも、温度も大事な要素だって分かりました」
私は前向きに考えた。
「適度な温かさ。それが大切なんですね」
3 二次発酵の発見
「そういえば」
ハンスさんが何かを思い出したように言った。
「一度膨らんだ生地を、軽く押してもう一度発酵させたら、どうなるでしょう?」
「もう一度?」
私が聞き返す。
「ええ。一度膨らんだ生地の空気を少し抜いて、成形してから、もう一度発酵させるんです」
「面白いですね。試してみましょう」
父さんも賛成した。
生地が一度膨らんだ後、ハンスさんが優しく押した。
「ほら、空気が抜けますね」
シューッという音がして、生地が少ししぼむ。
「これを成形して…」
丸い形に整える。
「もう一度、発酵させます」
温かい場所に置いて、待つ。
数時間後、生地は再び膨らんでいた。
「焼いてみましょう」
窯に入れて焼く。
焼き上がったパンは…
「これは!」
今までで一番美しい形をしていた。
表面は滑らかで、黄金色に輝いている。
「食べてみましょう」
切ってみると、中の気泡も均一で美しい。
一口食べると…
「美味しい!」
私は思わず声を上げた。
「柔らかさが違う!」
「2回発酵させることで、生地の組織が整うんですね」
ハンスさんが感激した様子で言った。
「これは大発見だ」
父さんも満足そうだった。
「でも…」
ハンスさんが少し寂しそうな表情を浮かべた。
「まだ、何かが足りない。ヴァレリウス卿が言っていた、あの『豊かな味わい』には、まだ届いていない」
「材料に何か足りないのかな」
私は考え込んだ。
小麦粉、水、ビールの泡、塩…他に何が必要なんだろう。
4 ヴァレリウス卿の助言
その日の昼、またヴァレリウス卿が店にやってきた。
「おや、また良い香りがするな」
彼は鼻を鳴らした。
「昨日より進歩しているようだ」
「ヴァレリウス卿、また試食していただけますか?」
私は期待を込めて尋ねた。
「構わんぞ」
私たちは最新の試作品を差し出した。
ヴァレリウス卿は一口食べた。
そして、ゆっくりと噛み締める。
「ふむ…」
長い沈黙。
「前回より、かなり良くなったな」
「ありがとうございます!」
私たちは喜んだ。
「だが、まだ足りん」
ヴァレリウス卿は厳しい表情で続けた。
「王宮の白パンには、もっと深い味わいがあった。もっと…豊かで、優しい味だった」
「豊かで、優しい…」
ハンスさんが呟く。
「何が入っていたか、思い出せませんか?」
私が尋ねる。
ヴァレリウス卿は目を閉じて、記憶を辿るようだった。
「あれは…40年以上前のことだ。若い騎士だった私は、王の警護を務めていた」
彼は遠い目をして語り始めた。
「ある日、王宮の料理長が作った白パンを、ご褒美として頂いた。一口食べた瞬間…今でも忘れられん」
「どんな味だったんですか?」
「柔らかく、優しく、それでいて深い。まるで…そうだな、母の温もりのような味だった」
母の温もり。
私の脳裏に、前世の記憶が蘇った。
母が作ってくれたパン。
あの時、母は何を入れていたっけ…
「ヴァレリウス卿、その白パンは…色は?」
私が尋ねる。
「色?ああ、普通のパンより少し黄色がかっていたな」
黄色!
「それに、表面には艶があった。まるで磨いたように」
艶!
私の記憶が繋がった。卵だ!前世のパンには卵が入っていた!
「あ…!」
私が何か言おうとした時、ヴァレリウス卿がふと呟いた。
「そういえば…あのパンには、確か卵と乳が入っていたはずだ」
「卵と乳!」
私たち3人は同時に声を上げた。
「そうか、卵…!」
ハンスさんが膝を打つ。
「乳も加えれば、優しい味になる!」
父さんも興奮した様子だった。
「それです!それが足りなかったんです!」
私も確信した。
前世のパンには、卵とミルクが入っていた。
それが、あの豊かな味わいを作り出していたんだ。
「ほう、役に立ったか」
ヴァレリウス卿が珍しく満足そうな表情を浮かべた。
「ありがとうございます!」
私たちは深く頭を下げた。
5 希望の光
ヴァレリウス卿が帰った後、厨房で3人が顔を見合わせた。
「卵とミルク…」
ハンスさんが呟く。
「確かに、高級な菓子には卵が入っていますね」
父が言った。
「ミルクも、優しい味を加えてくれそうです」
私も同意した。
「明日、試してみましょう」
ハンスさんが決意を込めて言った。
「明日は…リナちゃんの誕生日ですね」
「そうです。誕生日に、完璧なパンを完成させましょう!」
私は希望に胸を膨らませた。
「卵とミルクを加えて、これまで学んだ全てを組み合わせれば…」
ハンスさんが指折り数える。
「小麦粉、ビールの泡、しっかりこねる、適切な温度での長時間発酵、二次発酵、そして卵とミルク」
「完璧なレシピですね」
父さんも満足そうだった。
「でも…」
私がふと思った。
「卵とミルクを入れると、こね方や発酵時間も変わるかもしれません」
「そうですね。明日は慎重にやりましょう」
ハンスさんが頷いた。
「失敗は許されません。リナちゃんの誕生日ですから」
6 誕生日前夜
その夜、私は寝床で考えていた。
前世では、パンは当たり前だった。
スーパーに行けば、いつでも買えた。
でもこの世界では、みんなで協力して、試行錯誤して、やっとここまで来た。
ハンスさんの職人としての技術。
父さんの発酵の知識。
そして、私の前世の記憶。
3人の力が合わさって、初めてここまで来られた。
明日は私の7歳の誕生日。
そして、ふわふわパンが完成する日。
きっと、素晴らしい一日になる。
私は期待に胸を膨らませながら、眠りについた。
7 誕生日の朝
翌朝、私が目を覚ますと、まだ薄暗い時間だった。
でも、厨房からは既に人の気配がする。
急いで服を着て、厨房に向かうと…
「おはようございます、リナちゃん。誕生日おめでとう」
ハンスさんが笑顔で迎えてくれた。
「ハンスさん、もう来てたんですか?」
「ええ。今日は特別な日ですから」
ハンスさんの前には、卵とミルクの入った籠があった。
「父さんも起きてたの?」
「ああ。今日は完璧なパンを作る。そのために、早めに準備を始めたんだ」
父さんも笑顔だった。
「さあ、始めましょう」
ハンスさんが材料を並べる。
小麦粉、ビールの泡、水、卵、ミルク、塩、そして少量の砂糖。
「砂糖も少し加えてみましょう。ほんのり甘い方が、優しい味になるはずです」
「いいですね」
私も賛成した。
「では…始めます」
ハンスさんが慎重に材料を計り始めた。
今日こそ、完璧なパンを作る。
誕生日に相応しい、特別なパンを。




