14 パン職人ハンスの挑戦
1 ハンスの来店
昼時の陽だまり亭は、今日も行列ができていた。
出汁の香りが店内に漂い、客たちは父の作る料理に舌鼓を打っている。
私は厨房と客席の間を行き来しながら、父の手伝いをしていた。
その時、見慣れない男性が店に入ってきた。
30代くらいだろうか。
ガッシリとした体格で、作業着には薄く小麦粉のようなものが付いている。
その男性は、空いている席に座ると、メニューを見つめた。
「いらっしゃいませ」
母さんが笑顔で近づく。
「今日のおすすめは、魚のスープ煮込みです。出汁がよく効いていますよ」
「では、それをお願いします」
男性の声は落ち着いていて、丁寧だった。
しばらくして、父さんが作った魚のスープ煮込みが運ばれる。
男性は一口スープを飲んだ。その瞬間、目を見開いた。
「これは…」
男性は、もう一口、また一口とスープを飲む。
やがて、深く息をついた。
「こんな深い味わいは初めてだ。これが噂の出汁というやつですか」
「ありがとうございます。うちの自慢のスープなんです」
母さんが嬉しそうに答える。
「実は私はパン屋を営んでいるのですが…」
「パン屋さん!」
私は思わず声を上げてしまった。
パン、と聞いて、前世の記憶が蘇る。
ふわふわの食パン、香ばしいロールパン。
この世界のライ麦パンとは全く違う、柔らかくて美味しいパン。
「ええ。『麦の穂亭』という店です」
男性は優しく微笑んだ。
「でも、私のパンはライ麦パンばかりで…どうしても重く固くなってしまうんです」
「ライ麦パンですか」
厨房から父が顔を出す。
「庶民の主食ですもんね。うちでも毎日食べていますよ」
「ええ。もちろん、発酵もさせていますし、こねてもいるんです。でも、ライ麦だとどうしても重く締まった食感になってしまう」
男性、ハンスと名乗った彼は、少し寂しそうな表情を浮かべた。
「この店のように、人々を驚かせるような新しいパンを作りたいんです。でも、ライ麦パンには限界を感じていて…どうすればいいのか分からなくて」
私は前世の記憶を必死に探った。
パンの作り方…確か、小麦粉を使っていたような。
でも、どうやって作るんだっけ?材料は小麦粉と…それから…?
「相談に乗っていただけませんか?」
ハンスさんは真剣な目で父さんと私を見つめた。
「もちろんですよ」
父さんが頷く。
「私もお手伝いします!」
私も元気よく答えた。
ふわふわのパンを作れたら、きっと素晴らしい。
「実は…もうすぐ、リナの誕生日なんです」
母さんが言った。
「7歳になるんですよ」
「それは!では、誕生日までに何か形にできたら最高ですね」
ハンスさんの目が輝いた。
こうして、私たちの新しい挑戦が始まった。
2 小麦粉という希望
翌日、ハンスさんが陽だまり亭の厨房を訪れた。
手には小さな布袋を持っている。中身を見せてもらうと、真っ白な粉が入っていた。
「これが小麦粉です」
「小麦粉か…」
父さんが興味深そうに見つめる。
「確か高級な菓子には使われていますよね」
「ライ麦と何が違うの?」
私が尋ねると、ハンスさんは袋を少し傾けて見せてくれた。
「色が白く、粒子が細かいんです。そして、何より違うのは…」
ハンスさんは少量の粉を手に取り、水を加えて練ってみせた。
「この粘りです。ライ麦にはない、特別な粘りがあるんです」
「粘り?」
父さんが興味深そうに見つめる。
「ええ。ですが、値段は3倍以上します。だから普段はとても使えません」
「それだけ貴重なものなんですね」
父さんが頷く。
「はい。今回は特別に、少しだけ仕入れてみました」
ハンスさんは決意を込めた表情で続けた。
「ライ麦パンと同じように作ってみても、何か違う結果が出るかもしれない。まずは試してみたいんです」
3 最初の実験
「では、私がいつもライ麦パンを作るのと同じ方法で、小麦粉のパンを作ってみます」
ハンスさんが手慣れた様子で作業を始めた。
小麦粉に水を加え、練っていく。
ライ麦よりもずっと滑らかで、確かに粘りがある。
「ライ麦の時は、酸味のある発酵種を使うんです」
ハンスさんが説明しながら、小瓶から発酵種を取り出す。
「これを少し加えて、練り込みます」
「それが発酵させるってこと?」
私が尋ねる。
「ええ。ライ麦の場合は、この酸っぱい発酵種がないと上手く膨らまないんです。時間をかけて育てた大切なものです」
生地をあまり強くこねず、形を整える。
「ライ麦は強くこねすぎると、逆に固くなってしまうんです。だから、軽く練る程度で」
そして、温かい場所で発酵させる。
「さて、どうなるでしょうか」
数時間後、生地は少し膨らんでいた。
「焼いてみましょう」
ハンスさんがうちの小さめの窯に入れる。
焼き上がったパンは、ライ麦パンより白かった。
「食べてみてください」
ハンスさんが切り分けてくれる。
一口食べると…
「確かに、ライ麦よりは柔らかい」
父が言った。
「でも…」
「うん、何というか…」
私も同意した。
確かにライ麦パンよりは軽いが、前世で食べていたふわふわのパンとは全く違う。
固さも残っているし、酸っぱい味もする。
「やはり、同じ方法ではダメなんですね」
ハンスさんが残念そうに言った。
「小麦粉とライ麦は、別の性質を持っているのかもしれません」
4 新しい発酵の可能性
私は前世の記憶を探った。
パンは発酵させる。
でも、酸っぱくなかった。
むしろ、甘い香りがしていた気がする。
「ハンスさん、発酵のやり方を変えてみたらどうでしょう?」
「発酵のやり方?」
ハンスさんが首を傾げる。
「ライ麦には酸っぱい酵母が合うのかもしれないけど、小麦粉には別の酵母が合うのかも」
「なるほど…確かに、味噌を作る時の酵母とも違いますからね」
父さんが同意した。
「でも、他にどんな発酵が…」
ハンスさんが考え込む。
その時、私の脳裏に前世の記憶が蘇った。
パンを焼いている時の甘い香り。
あれは…
「ビール!」
私は思わず叫んだ。
「ビール?」
ハンスさんと父さんが同時に聞き返す。
「ビールを作る時って、泡が出ますよね?」
「ええ、確かに」
ハンスさんが頷く。
「あの泡…甘い香りがしませんか?」
「言われてみれば…そうですね」
「その泡を使ってみたらどうでしょう?酸っぱい酵母じゃなくて」
私は前世の記憶を辿る。
イースト菌。
確か、ビールにも使われていたような…
「ビール職人の知り合いがいます。頼んでみましょう」
ハンスさんの目が輝いた。
5 ビール酵母との出会い
翌日、ハンスさんは小さな瓶を持ってきた。
「これがビールを作る時にできる泡です。職人さんが分けてくれました」
瓶の中には、クリーム色の泡のようなものが入っていた。
酸っぱい匂いではなく、確かに甘い香りがする。
「これを生地に混ぜてみましょう」
ハンスさんが新しい生地を用意する。
小麦粉に水を加え、今度はビールの泡を混ぜていく。
「あの、ハンスさん」
私が口を開く。
「小麦粉には粘りがあるって言ってましたよね。その粘りを、もっと引き出してみたらどうでしょう?」
「粘りを引き出す?」
「ライ麦は強くこねると固くなるって言ってたけど、小麦粉は逆かもしれない」
私は前世の母がパンをこねていた姿を思い出す。
かなり力を入れて、何度も何度も押していた。
「なるほど…試してみる価値はありますね」
ハンスさんが生地を力強くこね始めた。
「こうですか?」
「もっと!押して、折りたたんで、また押して」
私も手伝いながら指示を出す。
「これは…確かに、手応えが違います」
父さんも加わって、3人で生地をこねる。
最初はベタベタしていた生地が、徐々に弾力を持ち始めた。
「すごい…生地が生きているみたいだ」
ハンスさんが驚きの声を上げる。
「では、これを温かい場所で発酵させましょう」
数時間後、私たちは厨房に集まった。
「見てください!」
ハンスさんの声に、私たちは生地を見る。
明らかに膨らんでいる。
酸っぱい酵母を使った時よりも、ずっと大きく膨らんでいた。
「すごい!」
私は興奮して声を上げた。
「これは期待できそうだ」
父さんも満足そうだ。
「早速焼いてみましょう」
ハンスさんが慎重に窯に入れる。
焼いている間、厨房には今までとは違う香りが広がった。
酸っぱくない、甘い香り。
「できました!」
窯から取り出されたパンは、これまでで一番大きく膨らんでいた。
切ってみると、中には小さな穴がたくさん開いている。
「食べてみましょう」
3人で一口食べた。
「これは…!」
「柔らかい!」
「酸っぱくない!」
確かに、これまでで一番良い。
ライ麦パンとは全く違う、軽やかな食感。
「これだ…これが小麦粉の力なんですね」
ハンスさんが感激した様子で言った。
「でも、まだ何かが足りない気がする」
私は正直な感想を述べた。
前世で食べていたパンは、もっと豊かな味わいがあった気がする。
「味が少し淡白な気もする」
父さんも同意した。
「そうですね…でも、大きな一歩です」
ハンスさんは希望に満ちた表情だった。
「明日も続けましょう。リナちゃんの誕生日まで、あと3日。きっと完璧なパンが作れるはずです」
7 常連客の言葉
その日の昼、常連客のヴァレリウス卿が店にやってきた。
元王宮騎士団長の彼は、相変わらず背筋が真っ直ぐで、鋭い眼光を放っている。
「いらっしゃいませ、ヴァレリウス卿」
母さんが笑顔で迎える。
「うむ」
ヴァレリウス卿が席に着いた瞬間、厨房から香ばしい香りが漂ってきた。
「何やら良い香りがするな。いつもと違う」
「実は新しいパンを試作しておりまして…」
父さんが厨房から顔を出す。
「パン?見せてみろ」
私たちは試作中のパンをヴァレリウス卿に差し出した。
彼は一口食べた。
そして、しばらく沈黙した。
「ほう…」
ヴァレリウス卿の表情が、ほんの少しだけ変化した。
「昔を思い出すな」
「昔?」
私が尋ねる。
「若い頃、王宮で騎士として仕えていた時、時折食べることができた白パンだ」
「王宮に白パンが!?」
ハンスさんが驚いて声を上げた。
「ああ。王族や高位の貴族だけが食べられる、特別なパンだった」
ヴァレリウス卿は遠い目をした。
「柔らかく、豊かな味わいがあった。お前たちのパンは、まだそこまでは至っていないが…方向性は正しい」
「豊かな味わい…」
ハンスさんが呟く。
「そうだ。何が入っていたかまでは覚えていないが…もっと複雑で、深い味がした」
ヴァレリウス卿はそう言い残して、席に戻っていった。
「何が入っていたんでしょうね」
私は考え込んだ。
前世のパンには…確か、小麦粉と酵母以外にも何か入っていたような。
でも、思い出せない。
「明日も試行錯誤しましょう」
ハンスさんが決意を新たにした。
「ええ。必ず、完璧なパンを作りましょう」
父さんも頷いた。
私の誕生日まで、あと3日。
私たちの挑戦は続く。




