12 盗まれたレシピと料理人の誇り
母さんと市場に買い出しに来た朝、私は奇妙な会話を耳にした。
「聞いたか? 金の麦亭が、最近妙に美味くなったって」
「ああ、あの高級レストランだろ? なんでも、陽だまり亭の味に似てるらしいじゃないか」
野菜売りの店主たちが、そんな噂話をしている。
私は、手に持っていた人参を籠に入れる手を止めた。
金の麦亭。
それは、以前、私が料理対決をした、あのアントンが料理長を務める高級レストランだ。
(陽だまり亭の味に、似てる......?)
胸に、小さな違和感が芽生える。
アントンは、私との料理対決で敗れてから、どうしているのだろう。
あれほどプライドの高かった彼が、私たちの味を真似するだろうか。
市場から戻ると、店は既に昼の客で賑わっていた。
しかし、その中に見慣れない、上品な身なりの夫婦らしき男女がいた。
二人は、父の作ったスープを一口飲むと、顔を見合わせて首を傾げている。
「ねえ、あなた。やっぱり、昨日食べた金の麦亭のスープの方が、洗練されていたわね」
「そうだな。こちらは美味いが、少し田舎臭いというか......」
その言葉に、父さんの表情が曇るのが見えた。
カウンターで皿を拭いていた母さんも、困惑した顔をしている。
私は、その夫婦が帰った後、そっと父さんに声をかけた。
「父さん、金の麦亭に行ってみようよ」
父さんは、少し迷ったような顔をしたが、やがて頷いた。
その日の夕方、店を母に任せて、父と私は王都の高級レストラン街へと足を運んだ。
石畳の通りには、豪華な看板を掲げた店が立ち並び、いかにも裕福そうな客たちが行き交っている。
その一角に、「金の麦亭」の看板があった。
私たちが店に入ると、給仕の若者が少し驚いたような顔をした。
下町の定食屋の親子が、こんな高級店に来るのは珍しいのだろう。
しかし、彼は丁寧に席へと案内してくれた。
「本日のおすすめは、『海の恵みのブイヨンスープ』と、『発酵調味料を使った野菜のグリル』でございます」
メニューを見た瞬間、私の心臓が跳ねた。
ブイヨンスープ。
発酵調味料。
それは、私が陽だまり亭に持ち込んだ、出汁と味噌の技術そのものではないか。
父さんも、メニューの説明に眉をひそめている。
私たちは、その二品を注文した。
やがて運ばれてきたスープを一口飲んで、私は確信した。
これは、間違いなく私たちの技術を真似たものだ。
魚の骨と野菜を煮込んだ出汁の香り。
しかし、何かが決定的に違う。
(煮込む時間が足りていない。それに、アクの取り方が雑だ。レシピだけを真似て、本質を理解していない......)
父さんも、同じことを感じ取ったようだった。彼の顔には、複雑な表情が浮かんでいる。
「リナ......これは......」
「うん。私たちの技術を、誰かが真似してる」
その時、厨房から聞き慣れた声が響いてきた。
「もっと火を強くしろ! 時間がないんだ!」
アントンの声だ。
しかし、その声には、かつてのような威厳はなく、どこか焦りと諦めが混じっていた。
私たちは、そっと店を後にした。父さんの背中は、いつになく小さく見えた。
翌日、事態はさらに悪化した。
「父さん、レシピノートがない......!」
朝の仕込みを始めようとした私が、厨房の棚を探して叫んだ。
あのノートには、出汁の取り方、味噌の仕込み方、そして新しく考案した料理のレシピが、全て書き留めてあったのだ。
まだ字は習いたてだが、なんとか読み取れるレベルではあった。
「まさか......盗まれたのか?」
父さんの顔が青ざめる。
母さんも、信じられないといった顔で厨房を見回した。
しかし、どこを探してもノートは見つからなかった。
「これは、衛兵に届け出ないと......」
母さんがそう言いかけた時、店の扉が開き、衛兵のガレスさんが入ってきた。
非番の日だったが、私たちの様子を見て、すぐに異変を察してくれた。
「おいおい、どうしたんだ? みんな、暗い顔して」
事情を説明すると、ガレスさんは真剣な顔で頷いた。
「なるほど。金の麦亭が怪しいってことか。よし、俺が仲間と一緒に調べてみる」
しかし、数日経っても、証拠は掴めなかった。
金の麦亭の厨房に、陽だまり亭のレシピノートがあるという確証は得られなかったのだ。
父さんは、日に日に元気を失っていった。
リナと自分の技術が盗まれたという事実が、彼の料理人としての誇りを深く傷つけていた。
「リナ......俺の料理は、所詮、真似されて終わりなのかもしれないな」
そんな父さんの弱音を聞いて、私は決意した。
この謎は、私が解く。
私は、もう一度、金の麦亭を訪れることにした。
今度は一人で。
金の麦亭の裏口から、そっと厨房の様子を窺う。
そこには、やつれた顔のアントンと、数人の若い料理人見習いたちがいた。
「師匠、このスープ、もっと時間をかけて煮込まないと、深みが出ませんよ」
一人の見習いが、そう進言している。
しかし、アントンは力なく首を横に振った。
「......時間がないんだ。客は待っている。これで、出してくれ」
その姿は、かつての誇り高き料理長の面影はなく、ただの疲れ果てた中年男性だった。
(アントンさん、あなたは......)
その時、厨房の隅で、一人の若い見習いが、こっそりと何かをポケットに隠すのが見えた。
それは、見覚えのあるノートの切れ端だった。
私は、その見習いの後を追った。
彼は、店の裏の倉庫に入っていく。
扉の隙間から覗くと、彼は誰かと話をしていた。
「アントンの奴、まだ気づいていないのか?」
「ええ。あのレシピのおかげで、店の評判は上がりました。でも、師匠はもう終わりです。次は、私が料理長になる番ですよ」
その若者の声には、冷たい野心が滲んでいた。
すべてを理解した。
レシピを盗んだのは、アントンではなく、彼の弟子だったのだ。
そして、その目的は、師匠を陥れ、自分が店を乗っ取ることだった。
翌日、私は父さん、ガレスさん、そしてヴァレリウス卿を連れて、金の麦亭を訪れた。
ヴァレリウス卿は、最近の常連となっていたが、元騎士団長という肩書きは、今でも王都で絶大な威厳を持っている。
「アントン殿。話がある」
ヴァレリウス卿の一言で、金の麦亭の空気が一変した。
アントンは、驚いた顔で私たちを迎え入れた。
私は、あの若い見習いを指差した。
「あなたが、私たちのレシピノートを盗んだんですね」
見習いの顔が、さっと青ざめる。
しかし、彼はすぐに強がった。
「証拠があるのか? そんなもの、どこにもないはずだ」
「証拠なら、あなたのポケットに入っているノートの切れ端です。それから、あなたがこっそり書き写している、陽だまり亭のレシピ」
ガレスさんが、見習いのポケットを調べると、案の定、私のノートの一部が出てきた。
そして、彼のロッカーからは、陽だまり亭のレシピを書き写したメモが大量に見つかった。
アントンは、呆然としてその光景を見つめていた。
「お前......なぜ、こんなことを......」
見習いは、ついに観念したように、すべてを吐き出した。
アントンのプライドが傷ついているのを利用し、陽だまり亭のレシピを盗んで店で使わせた。
そうすれば、アントンの評判は地に落ち、自分が料理長の座を奪えると考えたのだと。
「あんたの料理は、もう古いんですよ、師匠。これからの時代は、新しい技術を取り入れた者が勝つんです」
その言葉に、ヴァレリウス卿が、低い声で言った。
「若造。お前は、料理人として最も大切なものを見失っている」
見習いが、ヴァレリウス卿を見上げる。
その眼光の鋭さに、彼は思わず後ずさった。
「技術は、確かに大切だ。しかし、盗んだ技術で作った料理に、魂は宿らない。真の料理人は、自ら編み出した技で勝負するものだ」
ヴァレリウス卿の言葉は、重く、そして深く、その場にいる全ての者の胸に響いた。
アントンは、がっくりと膝をついた。
「すまない......リナ殿、そしてご主人。私の不甲斐なさが、こんな事態を招いてしまった......」
父さんは、しばらく黙っていたが、やがてアントンの肩に手を置いた。
「アントンさん。あなたは、素晴らしい料理人だ。対決の時、俺はそれを痛感した。レシピは盗まれたけれど、あなたの技術は、誰にも盗めない」
アントンは、顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
私も、前に進み出た。
「アントンさん。レシピは、誰でも真似できます。でも、料理を作る人の心までは、真似できません。それが、本当の料理人の強さなんだと思います」
アントンは、静かに涙を流しながら、深く頭を下げた。
見習いは、ガレスさんによって連行され、その後、正式に破門された。
店に戻ると、父さんは久しぶりに、晴れやかな顔をしていた。
「リナ。お前の言う通りだ。レシピは盗まれても、俺の料理を超えることはできない」
そう言って、父さんは新しい料理の試作に取り掛かり始めた。
その背中は、いつもの頼もしい料理人の姿に戻っていた。
数日後、アントンから手紙が届いた。
そこには、心からの謝罪と、そして「いつか、正々堂々と、もう一度勝負をさせてほしい」という言葉が綴られていた。
私は、その手紙を読んで、にっこりと笑った。
「父さん、次の勝負も楽しみだね」
「ああ。次も負けないぞ」
父は、そう言って、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
こうして、盗まれたレシピをめぐる騒動は幕を閉じた。
そして、陽だまり亭には、以前にも増して多くの客が訪れるようになった。
それは、料理の美味しさだけでなく、そこに込められた「料理人の誇り」を、人々が感じ取ったからかもしれない。
今日も、陽だまり亭の厨房には、父さんと私の息の合った料理の音が響いている。
そして、カウンター席では、ヴァレリウス卿が、満足そうに父の作った新作料理を味わっているのだった。




