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11 吟遊詩人の憂鬱と「思い出のピエロギ」

その青年が「陽だまり亭」に初めて現れたのは、冷たい雨が降りしきる日のことだった。

年の頃は20代前半だろうか。

背中に背負ったリュートが、彼の身分を物語っている。

旅の吟遊詩人。

しかし、その表情は暗く、覇気がない。


「……何か、温かいものを」


力なくそう言うと、彼は窓際の席に座り、ただぼんやりと外の雨を眺めていた。

それから数日間、青年――エリアスと名乗った――は、毎日同じ時間に店にやってきては、食事を注文し、ため息をつき、そして帰っていくのだった。

常連客が「景気づけに一曲どうだい?」と声をかけても、「すみません、今は歌う気分じゃないんです」と力なく断るばかり。


私は、カウンターの隅から、そっと彼を観察していた。

彼は、注文した食事を半分も食べられていない。

そして、時折、テーブルの下で指がかすかに動く。

それは、まるでリュートの弦を爪弾くかのような動きだった。

歌いたいのに、歌えない。

彼の心は、重いスランプの沼に沈んでいるようだった。


「あのお兄さん、元気がないわね……」


厨房で、母さんが心配そうに呟いた。

今回は、6歳の私には少し荷が重い問題かもしれない。

そう思っていた矢先、母さんがふと、エリアスの言葉の訛りに気づいた。


「あのお兄さん、もしかしたら北の国の出身かもしれないわ。少し訛りがあるし、寒さに強そうな服を着ているもの」


母は、自分より少し年下の青年に、都会での孤独とプレッシャーに苦しむ姿を重ねたのかもしれない。

その優しい眼差しは、完全に姉や母親のそれだった。


「リナ。あのお兄ちゃん、きっと、お母さんの味が恋しいのよ」


そう言うと、母は何かを決心したように、私の前にしゃがみ込んだ。


「何か、北の国で食べられているような、温かい家庭料理、知らない?」


私は、前世の記憶を呼び覚ます。

北国、家庭料理、温かい……そうだ、「ピエロギ」だ。


「母さん、水餃子みたいな形をした、北の国の家庭料理があるよ。皮は厚くてモチモチしてて、中にはマッシュポテトとチーズを入れるの。それを茹でて、炒めた玉ねぎと、溶かしたバターをたっぷりかけるんだ」


私の拙い説明に、母さんは目を輝かせた。


「まあ、美味しそう! よし、作ってみましょう!」


母さんは、私のアイデアを元に、早速調理に取り掛かった。

小麦粉をこねて、厚めの生地を作る。

その間に、茹でたジャガイモを潰し、たっぷりのチーズと混ぜ合わせる。そして、生地で餡を丁寧に包んでいく。

その手際は、さすが定食屋の女将だ。

茹で上がったピエロギに、黄金色に輝く溶かしバターと、飴色になるまで炒めた玉ねぎをかければ、心も体も温まる、特別な一皿の完成だ。


その日も、エリアスはいつものように、店の隅でため息をついていた。

そこへ、母さんが湯気の立つ一皿を、彼の前にそっと置いた。


「サービスです。これを食べて、元気を出して」


エリアスは、目の前に出された料理に驚いた顔をした。

しかし、バターと玉ねぎの香ばしい匂いが、彼の鼻腔をくすぐる。

それは、遠い故郷で、母が作ってくれた料理の匂いと、どこか似ていた。


おそるおそる、フォークで一つ、口に運ぶ。

その瞬間、彼の目が見開かれた。

モチモチとした皮の食感。

中から溢れ出す、熱々のマッシュポテトと、とろりとしたチーズの優しい味わい。

素朴で、飾り気はない。

しかし、そこには、作り手の温かい愛情が、たっぷりと込められていた。


彼の心の氷が、ゆっくりと溶けていく。

都会に出てきて、周りの才能に圧倒され、自分の歌を見失っていた。

何のために歌うのか、誰に届けたいのかも分からなくなっていた。

でも、思い出した。

一番最初に歌を届けたかったのは、いつも自分の体を気遣い、温かい料理を作ってくれた、故郷の母だったのだ。


エリアスの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

彼は、嗚咽を漏らしながら、夢中でピエロギを頬張った。

それは、ただの料理ではなかった。

遠い故郷からの、温かいエールだったのだ。


すべてを食べ終えた彼は、涙を拭うと、静かにリュートを手に取った。


「……聴いてください。お礼に、一曲だけ」


そして、彼が紡ぎ始めたのは、今まで誰も聴いたことのない、新しい歌だった。

それは、スランプを乗り越えた、力強くも優しい、希望に満ちたメロディ。

その歌声は、雨上がりの陽だまりのように、店にいる全ての人々の心を、温かく包み込んだのだった。

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