10 気難しい元騎士団長と「魂のスープ」
その日、店の扉を開けて入ってきた老人の姿に、陽だまり亭の陽気な空気がぴんと張り詰めた。
年の頃は60代だろうか。
背筋は真っ直ぐに伸び、短く刈り揃えられた銀髪と、深く刻まれた顔の皺が、彼の生きてきた年月の厳しさを物語っている。
何より、その猛禽類のように鋭い眼光は、ただの老人ではないことを雄弁に語っていた。
「い、いらっしゃいませ」
母さんが少し緊張した声で迎えると、老人は店内を一瞥し、空いていたカウンター席にどかりと腰を下ろした。
その無言の圧力に、周りの客たちもどこか居心地悪そうにしている。
「……シチューを一つ」
低く、重い声だった。
父さんは黙って頷くと、自慢のビーフシチューを温め始める。
それは、出汁のうま味をベースに、香味野菜と牛肉をじっくり煮込んだ、店の看板メニューの一つだ。
やがて、湯気の立つシチューが老人の前に置かれた。
老人は無言でスプーンを手に取り、一口、スープをすする。そして、眉間に深い皺を刻んだ。
「……こんなものでは、魂は満たされん」
その言葉は、店内に静かに、しかし重く響き渡った。
父さんの顔がこわばるのが分かった。
老人は、それ以上スプーンを動かすことなく、テーブルに数枚の銅貨を置くと、静かに立ち上がり、店を出て行った。
ほとんど手付かずのシチューだけが、カウンターに残された。
その夜、店じまいを終えた厨房の空気は重かった。
父さんは、カウンターに残されたシチューのことを思い出し、黙り込んでいた。
20代後半のまだ若い父さんにとって、自分より遥かに年長で、威厳のある客からの辛辣な言葉は、ひどくこたえたのだろう。
「父さん……」
私が声をかけると、父さんは力なく笑った。
「……まだまだ、修行が足りないってことだな」
その背中が、いつもよりずっと小さく見えた。
数日後、非番の日に店に立ち寄ったガレスさんが、その老人の噂を教えてくれた。
「ああ、あの爺さんか。この辺じゃ有名人だぜ。元王宮騎士団長のヴァレリウス卿さ。数年前に引退して、この下町で隠居してるんだが、昔は『鬼の団長』って呼ばれるくらい、とんでもなく厳しい人だったらしい。引退してからは、さらに気難しくなったって評判だ」
ヴァレリウス卿。
元騎士団長。
その言葉が、私の頭の中で、彼が残した一言と結びついた。
(魂が、満たされない……)
それは、単なる味の評価ではないのかもしれない。
彼が求めているのは、洗練された美食ではない。
かつて、命のやり取りをする戦場で、仲間たちと分かち合ったような、心と体を奮い立たせる「食事」。
生きるための、力強い何か。
そんなものではないだろうか。
私は、どことなく落ち込んだままの父さんの元へ向かった。
「父さん、あの人のための特別なスープを作ろう」
私の提案に、父さんは驚いたように顔を上げた。
「特別なスープ? でも、一度断られたんだぞ……」
「父さんの料理は美味しいよ。ただ、あの人が求めているものが、違っただけだと思うの」
私の真剣な目に、父さんは何かを感じ取ってくれたようだった。
父さんの目に、料理人としてのプライドの光が、再び宿り始めていた。
「……わかった。やってみよう。リナ、お前の知恵を貸してくれ」
私は、前世の記憶を探った。
戦場で食べられるような、無骨で、力強いスープ。
そうだ、「ボルシチ」だ。
しかし、サワークリームのような贅沢品は戦場のような厳しい場所では使われなかっただろう。
もっとシンプルで、もっと荒々しい、魂を揺さぶるようなスープを。
私たちは、大きな鍋に牛のスネ肉と、香味野菜をたっぷりと入れて、じっくりと煮込み始めた。
そして、ビーツによく似た、この世界にある赤い根菜をすりおろして加える。
スープは、まるで血のような、鮮やかな深紅色に染まっていった。
隠し味は、塩漬け肉から染み出す塩気と、ピリリと舌を刺激する、粗挽きの黒胡椒。
ただ、それだけ。
父さんは、私の突飛なレシピを元に、自身の技術の粋を尽くしてスープを完成させてくれた。
それは、洗練とは程遠い、しかし、飲む者の体の芯まで熱くするような、力強い香りを放っていた。
さらに数日後、ヴァレリウス卿は、再び「陽だまり亭」に姿を現した。
気難しい顔は相変わらずだが、なぜかまた、この店に来てくれたのだ。
彼がカウンターに腰を下ろすと、私は深呼吸をして、完成したばかりのスープと黒パンを彼の前に差し出した。
「あなたのために、父が作りました。『魂のスープ』です」
ヴァレリウス卿は、訝しげに私と、目の前の深紅のスープを見比べた。
そして、無言でスプーンを手に取り、一口、そのスープを口に運んだ。
その瞬間、彼の時間が止まった。
猛禽のようだった鋭い目が、遠い過去を見つめている。
彼の脳裏に、鮮やかに蘇る記憶。
雪の降る、凍てつくような戦場で、仲間たちと焚き火を囲んだ夜。
一つの大きな鉄鍋で分け合った、熱く、塩辛く、ただひたすらに力が湧いてくるような、あのスープの記憶が。
それは、生きるか死ぬかの瀬戸際で、明日への活力を与えてくれた、「生きるための食事」そのものだった。
ヴァレリウス卿は、ゆっくりと、しかし一口一口を確かめるように、スープを飲み干した。
固めの黒パンを浸し吸わせながら、最後の一滴まで飲み終えると、彼は深い深いため息をついた。
その顔から、人を寄せ付けない厳しさは消え、ただの穏やかな老人の顔に戻っていた。
「……美味かった」
ぽつりと呟かれたその一言は、どんな賛辞よりも、父さんの心に深く染み渡った。
その日以来、ヴァレリウス卿は店の常連となり、時折カウンターに座っては、目を細めて父が作る料理を食べるようになった。
そして、たまに思い出しては、リナにだけ、若い頃の武勇伝を少し照れくさそうに語ってくれるのだった。




