3 動揺
『サリー』
自分を呼ぶ声にサリーはハッと顔を上げた。ひどく懐かしい声がする。
――彼女の声かしら。
ぱっと、視界に映る影。霧の先に誰かが立っている。顔は良く見えないけれど、その姿を見間違えるわけない。
「***!」
彼女の名を叫んで、手を伸ばす。
――待っていて。私も今、向かう。
恐る恐るゆっくりと足を踏み出す。震える手足。吐き出す吐息は乱れていて、視界も曖昧だ。
あと一歩、あと一歩、もう少し……。近付いているはずなのに彼女の姿はずっと霧がかかったまま。
どうしてと手を伸ばした途端、がくりと足元が崩れ落ちる。彼女の姿はあっという間に遠くなり、視界から消えていく。
――触れたいのに。もう一度話したいのに。
魔法は残酷だ。契約は守ってくれても、契約者までは守ってくれない。彼らが下す罰はとても残酷で……祝福とは真逆のもの。
落ちゆく中で伸ばした手は、虚しく空を切って終わる。彼女がこちらへ向けて伸ばした手を、サリーは握り返すことができなかった。
ああ、後悔はこんなにも……。
◻︎
ぱちりと目を開けると、見慣れた天井が映った。サリーはぼんやりと寝ぼけた頭でそこに描かれた絵を眺める。
(懐かしい……セプテムの星々だわ)
天井には、かつて占星術のために描いた星座が散りばめられている。赤、白、黄、青、緑……様々に輝く星々には、始まりの魔法使いの一人が流し込んだとされる魔力が込められており、魔法使いなら誰もがその力を利用することができるとされている。魔法使いの瞳に星が宿るのは、星の魔力を使える証なのだ。
(そういえば師匠がむかし言っていたかしら、始まりの魔法使いは全部で六人だって。不死身の魔法使いたちは、永遠の眠りの代わりに魔力をどこかへ託す必要があった。星の魔法使いもその一人だったのよね)
魔法使いには、魔法を分け隔てなく与える者と、限られたものにのみ受け継がせる者がいた。星に魔力を宿した魔法使いは、きっと誰もが魔法を使える世界を望んでいたのだろう。
(……私は大反対ね。魔法は恐ろしいものだもの)
体をベッドに預けたまま物思いに耽っていると、ふとどこからか機嫌の良さそうな鼻歌が流れてくる。鼻歌の人物に心当たりがあったサリーは、思わず顔を顰め溜息を吐き出した。そういえば、自分を強引に目覚めさせた人物がいた。
(嫌な声。あの男のものね)
薄々気づいてはいたが、見知らぬ男に眠りを妨げられたのは夢では無かったようだ。
色々な意味で頭が痛い。思わず額を抑えるが、そのタイミングでメアリーチェがつーっと糸を伝って目の前に降りてくる。そのまま手の甲を擽ってくる癒し手の存在に、頭痛が治まっていく。
「どうしたの、メアリーチェ」
サリーが穏やかに問いかけると、メアリーチェは返事をするかの如くサリーの指にぐるぐると糸を巻き出し、糸を繋げたまま窓辺へと向かっていく。着いて来いとでもいうようだ。
「なあに? 見せたいものでもあるの?」
メアリーチェに甘いサリーは彼女の指示通りに腰を上げ、大人しく着いていく。
「もしかして、あの男が貴女の嫌がることでもした?あんな男、私がすぐに追い出してあげから安心して」
この数時間でだいぶ体が軽くなった。自分の力が戻ってきているのを感じる。あのいけすかない男を呪い追い出す時が来るのも時間の問題だろう。
「おしおきなら私にま……っ!」
任せて――そう言おうとしたサリーだったが、その言葉が出てくるより先に窓の外の光景に目を大きく見開く。
受け入れがたい光景に、それまで軽やかだった足が石のように固まり、まるで夢の時と同じように手先と唇が震え出す。ただでさえ血色の悪い顔色はさらに生気を無くし白く染まった。
――メアリーチェが伝えたかったのは、このことだったのね。
呆然と立ちすくんでいると、窓の外で畑作業をしていた男がふと二階窓を見上げ、その目にサリーの姿を認める。
「やっと二度寝からお目覚めですか。もう日が暮れる時間帯ですよ、ってサリーさん?なんか顔色がよろしくないみたいですけど……」
話しかけられたサリーは心ここに在らずであった。呆然としながら、それでも向き合わなければならないと、指摘された顔色もそのままに口を開く。
「……どうして、樹が倒れているの?」
サリーの突然の質問に男は少し目を見開いて、すぐに説明を始めた。
「この家は食材が何もないので少しばかり畑を作ろうと。……何かお気に障りましたか?」
男は畑を耕していると言う。彼にとって、多少の開拓などなんて事ないことだったのだろう。
だが、サリーにとってはそうではない。この森の樹は、ピスカの森の全ては、自分自身と同じ。かつて、護るために諦めたというのに――
(護るって決めたのよ。護ることだけが私にできることなの。だからもう誰も邪魔なんてしないで……!)
「どうしたんです?何かご不満があるなら……」
眉根を下げた男が困ったように首を傾げている。わざとらしいその表情が妙に苛ついて、サリーは嫌味っぽく笑った。
「この森の樹を勝手に伐ったのね。さすが、悪い魔女を目覚めさせた魔法使いさんね」
男が畑を作るために樹を切ったのだろう。数本の樹が伐採されている。いや、抜根までされている。これではもう今から処置を施しても彼らは復活しないだろう。
サリーの顔は笑っていても、その瞳は怒りと絶望の色に染まっていた。それ見て男は飄々としていた態度が嘘のように目を揺らした。ショックを受けたようなその目を少し不思議に思いながらも、サリーは続ける。
「森は私自身なの。私への攻撃としては大成功ね」
「いえ、あの……すみません。そんなに大切なものだとは知らず……」
男はすぐに謝罪した。
サリーは意外だった。この男は我儘で傲慢で言うことを聞かないから、淡々と言い返してくると思っていた。
後悔の色を顔に滲ませてすんなりと反省する姿に、サリーの溜飲も下がっていく。深呼吸して怒りを鎮め、静かに目を伏せる。もう嫌味を言い続ける気は起きなかった。
「…………二度としないで。この森を傷つけることがあれば、私は貴方を許さない」
森を軽視することはサリーが最も嫌うことだ。他人のテリトリーを土足で踏み躙るひとだって大嫌い。
森は尊敬し、畏怖する存在だ。
『……サリー、ピスカの森をよろしく』
脳裏に何度も反芻する声。約束のためならサリーはこの身だって簡単に犠牲にする。
(ごめん……悪いけれど、やっぱり私一人だと上手くいきそうにないわ)
目覚めたばかりなのに心が折れそうだ。……いや、心が折れたから眠っていたというのに。
沈黙が流れ、二人して時が止まったように動かずに立ち尽くす。
ふと、サリーと男を挟むように窓の下枠にいたメアリーチェが動き出した。糸を吐き出し、器用に男の頭にくっつける。
「……メアリーチェ?」
サリーが呼びかけるとメアリーチェは少し振り返って足を一本上げ、サリーの指に繋いでいた己の糸をざくりと切り、そのまま任せろとでもいうような悠然とした後ろ姿で二階の窓から飛び降りる。
「メアリーチェさん、何をする気で……?」
疑問を浮かべる男の頭にぽとんと到着したところで、メアリーチェはつんつんと男のつむじを軽く叩く。そして次の瞬間、彼に躊躇いなく黄緑色の雷を落とした。
強い稲妻が男の脳天を貫く。普通の人間なら死んでもおかしくないが、彼は魔法使いなので死にはしないだろう。
それより、容赦ない罰なのに彼が抵抗しないでそれを受け入れたことがサリーは驚きだった。弾く余裕はあっただろうに、あばあばと泡を吹いて倒れている。
気絶する男を置いて、メアリーチェがサリーの手に戻ってくる。得意げに糸を出しては引っ込めるメアリーチェに、サリーはそっと感謝の言葉を呟いた。
「……ありがとう、メアリーチェ」




