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17 魔女役アトリの恐怖


 舞台が無事終わり、垂れ幕が下がっていく。

 ハンカチやスカーフが色とりどりに風に靡き、御伽話を演じたアトリたちへの賞賛を送ってくれる。その光景を、アトリは幕が下りきるぎりぎりのところまで達成感と共に眺め続ける。


(えんじ、きれた)


 アトリの口から安堵の息が漏れる。

 演技をしている間だけは、アトリは全てを忘れることができていた。不安も恐怖も悪い予感もどこかへ消えて、ただピスカの森の魔女として全てを恨み、全てを呪った。

 アトリは数年前の沈黙祭で観客として『ピスカの森の魔女』を観たときから、孤独な魔女の気持ちと自分の抱える気持ちとに重なる部分があると感じていた。

 感情の覚えが悪いアトリが感情を知りたいと思ったきっかけこそ、『ピスカの森の魔女』だ。魔女役に決まったときは、どの役が決まったときよりも喜びと不安が大きく、それでいて彼女の心の波を感じられることが誇らしかった。


 ――ピスカの森の魔女


 ラーネは悪に染まった彼女を前に何を思ったのだろう。


 沈黙祭の舞台『ピスカの森の魔女』では、魔女役がラーネの最後を決める伝統がある。正確には、魔女役オーディション時に、ラーネの最後を自分なりに考えて一人二役で披露する。林檎を齧った時にラーネがどう動くのか、それらも込みで魔女役を抜擢するのだ。

 アトリにはずっとわからないことがあった。

 ピスカの森の魔女が、なぜ恐ろしい呪いに”永遠の眠り”を選んだかということだ。

 もっと恐ろしい呪いでも良かった筈なのにどうしてだろうと、不思議でたまらなかった。

 でも演じていく中で、それが魔女に僅かに残った良心だと考えた。だから王子と結ばれる終わりではなく、ラーネが魔女の後を追って眠る終わりでもなく、魔女の中にある小さな希望を見出したラーネが、眠りにつく彼女に代わって旅をするエンディングを作った。

 その答えが正しかったのかなんて、演じ切った今でもはっきりとはわからない。

 でも魔女になっていた今、アトリの心に残るのはラーネという希望の光だった。

 

(まじょは、きっと、めざめたら、ラーネをこいしがる)


 彼女はラーネに居なくなってほしくなかったのだ。彼女はまだ……魔女にとって、友だちだったから。


(そうだよね、まじょさん)


 問いかけるように、黒い霧に包まれた森を眺める。ピスカの森の魔女は、今もあそこで深い眠りについている。

 もしアトリが生きているうちに彼女が目覚めるのなら、彼女に色々なことを聞いてみたい。そして友だちになりたい。


 アトリがそう思っていた時だった。


 風が吹いて、ふわりと揺れる黒髪が視界の端に映る。

 舞台の袖に立つその男に、アトリは一瞬にして現実に引き戻された。


(まほうつかいの、おとこのひと……!)


 アトリは魔女役として、カルロスに容姿を変えられていた。声まで奪われたことを思い出すと、彼女の心を黒い霧が覆う。

 

(……だいじょうぶ、だよね。げきは、おわったから)


 あの男のひとは、舞台中には現れなかった。

 何を企んでいるのかはわからなかったけれど、劇が終わればもうアトリに用はないはず。きっと沈黙祭が終わって明日になれば、魔法も自然と解けて口も聞けるようになるだろう。

 垂れ幕が下がりきり、他の役者と共に舞台上から退散しようと足を踏み出す。

 やはり間違いない。舞台袖で演者たちを待つのは彼だ。

 アトリは目を合わせないように下を向いて、小さな足をできる限り早く動かして通り過ぎようとした。

 でも、その時。

 コツと足音が一つ鳴り響き、アトリの背筋がぞくりと震え上がる。

 震える肩越しに聞こえたのは、悪夢をもたらした魔法使いの甘い声。


「こんにちは、小さな魔女さん」


 振り向くと、カルロスが細やかな刺繍の施された礼服に身を包み、恭しげにアトリに拍手を送っている。


(どうして……!)


 あの時と同じ蛇の笑みを貼り付けている。ねっとりと獲物を舐め回すような眼で、どうやって戯ってやろうかとでもいうようにアトリを眺めてくる。

 魔法を解くために現れたようにも思えない。


「いやはや素晴らしい舞台でした。あの時の恐怖が蘇りましたよ。――しかしながら、まだ舞台を下りるには少々早い。せっかくですから、御伽話の続きに協力してください」


 何を言われているのか全く分からない。

 アトリは表情を強張らせたまま、ふるふると首を横に振った。

 ここから逃げなければと思うのに、足は土に根を張ったように固まって動かない。


「大丈夫です。ちょっと怖いかもしれませんが、すぐに助けが来てくれますよ」


 一歩、一歩、足音を奏でてカルロスが近づいてくる。その靴音は愉しげに踊っているようだったけれど、アトリの恐怖心は高まるばかりだ。


(いやだ……いや…………)


 やがて彼はアトリの元まで来ると、彼女の小さな顎を右手で掴んでねっとりとその顔を堪能し出す。

 そのまま、うんうんと意味深に頷いた後、そっと彼女の両瞼を左手で覆い――


【火刑せよ】


 彼の恐ろしい呪文をアトリがまた耳にした次の瞬間、アトリの視界が真っ暗になる。

 体の自由がなくなり、音が消える。

 恐怖の正体を確かめるように瞬きをすれば、ぱっと目の前に退散する観客の姿が映り、自分が一瞬にして舞台上に移動させられたことを悟る。

 唯一動かせる首を目一杯動かしたアトリは、すぐに顔色を白くした。


「っ、!」


(な、にこれ……)


 瞬きの間に、アトリは舞台上で磔にされていた。

 足元に敷かれた藁の隙間から小さな種火が見え、ヒュッと息を呑む。身体は縛り上げられていて、身を捩っても拘束は解けない。縄が擦れてひりひりと痛むだけ。

 やがてゆっくりと舞台の幕が上がっていき、それに合わせて足元の火も燃え広がっていく。

 アトリの視界に驚愕する観客の表情が映り、そしてその中には彼女の兄ヴィンセントの姿もあった。

 ばくばくと心臓が激しく波打つ音に紛れて、の声が聞こえてくる。


【話は、それから666年後のこと】 


 子供を寝かしつけるような穏やかな声が、アトリにとっては恐ろしくて仕方がない。


【眠りから目覚めたピスカの森の魔女は、ラーネの期待に反してちっとも改心しておらず、また悪さをしようとしました。イニティウルを乗っ取り、再び人々を恐怖の底に突き落とそうと企んだのです。ですが、そこに数人の騎士が現れ、苦闘の末、彼女を捕らえることに成功します】


 彼は台本にない台詞を紡ぎ出す。その声は風に乗ってどこまでも運ばれていき、その場にいる全ての人の耳に届く。


(……けて、たすけて!!)


 アトリは声を張り上げて必死に助けを求めて叫んだ。

 足に感じる熱気は本物だ。

 このままでは本当に死んでしまう。まだ死にたくないのに、あの怖い男のひとに殺されてしまう。

 足の親指が熱い。甲も熱い。足首も厚くなって、指先の感覚はなくなってきた。

 痛い。熱い。助けて――!


 アトリの苦しみは本物だった。

 けれど、声の出ないアトリに観客は演技をしていると思い込み、感心しながら鑑賞を続けるだけ。

 絶望に包まれる中、声を奪われたのはこのためだったのかとアトリは理解した。


 それでも必死に叫び続けた。

 まだヴィンセントがこの場にいる。きっと兄ならばこの思いが届くはず。異変に気づいてくれるはず。

 アトリの願い通り、その思いは無事ヴィンセントへと届いたけれど、今度はアトリに寄ろうとするヴィンセントを見えない壁が阻む。


「声を奪えば済むと思ったのに、まさか邪魔が入るなんて。私の完璧なプランに釘を差すなど愚かな男ですね」


 舞台袖で聞こえる恐ろしい呟き。

 アトリはその時、ここで自分は死ぬのだと悟った。兄の目の前で、この男のひとに利用され、彼の目的が何なのかさえ何もわからないまま。


(ごめんね、にいさん……。こんなときまで、わたしはにいさんをたよることしかできない。もう、兄さんのこころ、きずひとつ、のこしたくないのに……!)


 視界の先が滲んでいく。もし自分が死んだら、兄はどれだけの後悔を背負うだろう。背負う必要のないものを、アトリはこれ以上ヴィンセントに背負ってほしくなかった。

 舞台上で死ぬのが役者の本望だなんて言葉があるけれど、全くもってそんなことはなかった。だってこれは自分の意志じゃない。欲じゃない。まだやりたいことだって残っている。


(まだなにもできてない。にいさんに、おんがえしするのも、やくしゃとして、もっといろんなやく、えんじるのも)


 けれど、それももう無理そうだ。何だか空気が薄くなってきて呼吸一つするのも苦しい。

 「しっかりしろ」なんて兄の叫び声が遠く聞こえるけれど、アトリの意識はゆっくりと沈んでいく。


(このままねむったら、らくになる……?)


 そんなことを考えて、アトリは静かに目を伏せた。

 疲れた。もう恐怖に怯える時間は終わりにしたい。目を開けたって、映る光景はどうせ絶望を突きつけてくるだけ。



 ――けれど。

 ふわりとアトリを包み込むお日様の匂いがした。


(おむかえ、かな?)


 天使が迎えに来てくれたのかと、アトリはゆっくりと瞼を上げた。

 とくんとくんと波打つ優しい波の音に、全身から力が抜けていく。縄からも熱からも痛みからも解放されるような感覚のなか、誰かの声が聞こえた。


「久しぶりの直射日光はさすがにきついわねぇ」


 どうやらアトリを迎えに来たのは、天使ではなかった。どちらかというと漆黒がよく似合う……。


「しにがみ、さま?」


 浮世離れした美貌にアトリの時が止まる。

 こんなに美しいひとをアトリは見たことがなかった。

 黒い艶髪にルビーのような赤い瞳。肌は陶器のように白く、人あらざるものかと思うくらい血色感がない。  

 それなのに、不思議と見惚れてしまう。彼女の容姿はアトリが恐れるあの男のひとと同じで黒髪赤眼だというのに、恐怖は感じなかった。

 その理由は恐らく――


(あったかい)


 アトリが彼女の体温に包まれているからなのだろう。

 アトリは女性のローブの中に包まっていて、先ほどから感じる温もりの正体は彼女の体温だったのだ。


(きれいな、ひと。あなたは、いったい……?)


 アトリを助けてくれたひと。冷たい印象なのに、存外体温が温かくて心地よい不思議なひと。

 彼女は誰なのだろう。なぜ自分を助けてくれたのだろう。名前は何ていうのだろう?

 そんなアトリの願いを叶えるかのごとく、彼女の正体が判明する。

 霞む視線の先で、舞台袖に立つ男のひとが、歓喜と憎しみとが入り混じった表情で小さく囁いた。


「ああ、ようやく……よくやく目覚めましたか、ピスカの森の魔女よ!」


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