第5話
電車から降り、ホームでキョロキョロと周りを見回してみる。客も駅員も誰もおらず、いるのは自分と例の男だけだ。いつも乗っていて馴染みあるはずの電車は、今は全く知らない駅で止まっている。そして夕方出発したはずなのにここは真っ昼間だ。状況はまるで飲み込めないのだが、「君にとって悪いことは起こらない」という男の一言を思い出すと無理に飲み込まなくてもいいかという気持ちになってくる。
日差しが強く、駅の周りにはたくさんの木々と山々が見える。大音量のセミの合唱が響き渡り、少し耳を澄ませると他にも色々な虫の鳴き声が聞こえてくる。どうやらかなりの田舎に来てしまったようだ。全く予想していなかった突然の光景に、心なしかうきうきした気分になっていた。
「行くとしようかね」男はそう言いながら駅の出口へと向かっていったので、慌てて出口の方へ向かう。
駅を出ると目の前の道路を黙々と歩き出したので、思わず聞く。
「どこまで歩くんですか?」
「そのうちわかるさ」男はまるで確信しているかのように言う。
10分ほど歩いただろうか。突然知らない場所に来て若干旅行気分にすらなっていたが、徐々に既視感を覚え始める……明らかに夢でよく見る景色と酷似しているのだ。道の左側を流れている川、道の右側には生い茂る木々、周囲で鳴り響くセミの鳴き声、遠くに連なっている山々……どれもが見覚えのあるものだった。もしかして正夢なのか…?と思いながら男と2人で歩き進めると、道路が大きく曲がっていて先が見えない場所にたどり着いた。ここも夢でよく見た光景だ。夢の中だとこの後曲がり始めたところでいつも目が覚めてしまう。いつも気になっていた夢の続きがこの先にある。今日は夢じゃないよな?と気になり、頬をつねってみる。痛い。なら大丈夫だ、今日はこの先に行ける。期待を膨らませながら、曲がり始めた。
カーブを曲がると視界が少し開けて、1kmほど前方にさして特徴のない小さな集落が見えた。率直に期待外れだと思った。これが夢の続きなのだろうか、と拍子抜けする。無言で隣を歩く男に目をやると何とも楽しそうな顔をしており、その目線は前方の集落をしっかりと捉えていた。「あの集落が目的地なんですか」と聞こうとしたが、不意に目の前を飛んでいるトンボに気が逸れた。都会ではまず見ることのない大きなトンボ。おそらくオニヤンマだろう。目の前を悠然と飛び、草木の方へと消えていった。
ふと、頭の奥の方にある小さな部屋のドアが開いた。存在すら忘れていたその部屋のドアはゆっくりと、しかし確実に開いた。
そうだ、この場所に心当たりがある。この集落は昔父方の祖父母が住んでいた場所だ。幼いころ何回か家族で遊びに行ったことがあるが、自分が小3の時に祖父が亡くなり、その後祖母は家を引き払い都心部の老人ホームへと移ったので、それ以降は全く縁のない場所になってしまった。年月が経ち、すっかり忘れていた。家族で祖父母の家に行くときはいつも車だったし道中の記憶は全くないので、夢で見ていた景色からは思い出せなかった。
カーブを曲がってから15分ほどでその村の入口に着いた。入口といっても「ようこそ」と書かれた看板があるわけではなく、集落のはずれの家が建っているだけなのだけど。駅から歩き続けたこともあり、着ているシャツはじっとりと汗が滲んでいた。
「ようやく着いたのう」それまで黙々と歩いていた男が口を開く。
靴ずれが痛いから少し休むというようなことを言ったような気がしたけどそれに対して曖昧に返事をし、ずんずん歩みを進める。おぼろげだった記憶が徐々に鮮明になり、奥の方からじわりと込み上げてくる懐かしさに身を任せていた。虫の音、照り付ける太陽の光、草と土の混じった匂い、時々停まっている農作業用の車、家と家の隙間を埋めるように広がる田畑……そのすべてに懐かしさを覚えた。
最初の家を過ぎて少し進むと左への分岐がある。分岐を左折し、そのまま村を貫いている川を渡る。川を渡ってからは舗装が途切れ、砂利道が続く。渡ってすぐのT字路を右折していくらか進むと一軒の家が見えてきた。祖父母が暮らしていた家だ。そのまま近づいていきドンドンと玄関を軽く叩いてみたけど、特に人の気配はなさそうだ。思い切って格子戸を開けると、やけに広い玄関が出迎える。玄関には靴は置かれてなくがらっとしていて、その右側には戸の閉まった靴箱がある。靴箱の上には日本人形が鎮座していて反対側の壁をじっと見つめている。日本人形の表情がなんだか妙に恐ろしくて、身震いしてしまった。どうやら家の中に人の気配はなく、とりあえず家を出た。
そういえば、あの頃はよく弟と川で遊んでいたっけ。2つ下の弟は今ではすっかり疎遠になっているけど、小さいころは仲が良かったなあ。
祖父母の家から砂利道をさらに少し進み、右折して獣道に入る。川で遊ぶ時はだいたいこの道を通っていた。道の両側には草木が生い茂っており、不揃いなトンネルを作っている。不揃いなせいで前方の視界は悪く、わかってるはずなのにどこに繋がっているんだろうと不安になる。それと同時に、この先に何があるんだろうとわくわくもしてくる。そんな気持ちで歩いていると不意に前方にキラキラした水が見えてきた。川だ!思わず小走りになる。急いだせいで顔に蜘蛛の巣が引っかかったけど、構わず振り払って進むと獣道は唐突に終わりを迎え、視界が大きく広がった。目の前には浅い小川が流れている。小川の向こうは小さな林になっており、その先には本流の川がある。
靴と靴下を脱ぎ、ズボンをまくって小川に入る。適度な水の冷たさが夏の暑さを和らげる。水深はせいぜい20cmもないくらいで、ふくらはぎの半分くらいまでしか水に濡れない。ほとんど流れのない小川をちゃぷちゃぷと歩いていると、何やら赤い物体が川の端の方で動くのが見えた。本能的に気になってゆっくりと近づいていく。ザリガニだ。思わず手を伸ばすと、さぁぁ~っと逃げていってしまった。ああ、くそう。逃げられてから、当時は祖父からスルメとタコ糸をもらい道中で拾った木の枝に括り付けて即席の釣り竿を作っていたのを思い出した。弟とどっちがたくさん捕まえられるか競争したっけ。弟はザリガニを見つけるのが上手で一度も勝った記憶がないけど、それでもすごく楽しかった気がする。ふと自分の服を見ると、着てきたシャツには土が付きズボンは水が跳ねてところどころ濡れていた。身体中を原始的な充実感が巡っていた。
小川から離れ再び獣道を戻ると、周囲の山に日が沈み始めていた。少しオレンジがかった太陽が頂上にかかり、山肌は黒く大きな影のように見える。田んぼは太陽光と山を鈍く反射し、まるでもう一つの世界に繋がっているような感覚に陥る。じっと見ているとこのまま吸い込まれてしまうんじゃないかと怖くなってくる。
少し暗くなり冷静になってくると、疲れがどっとで出てきた。そういえばあの男は入口にいると言っていた気がする。いったん合流しよう。行きの勢いとは対照的に、やや重くなった足取りで村の入口へと向かった。
入口に着くと、男は近くの木にもたれて目をつぶっていた。
「あのー、すいません」
「んあ、君か。少しうとうとしていたようだ。ところで、」男はそこまで言ったところで話すのをやめてこちらをじろじろと見てきた。
「あ、服ですか?歩き回っていたら汚れちゃって…」少し恥ずかしい。
それに対して応えず一通りこちらを見回すと、次の瞬間満面の笑顔になった。
「そうかそうか、そうであるか。ふんふん。ふっふっふ」
極めて上機嫌そうに笑うと、セミの声がひときわ大きく鳴り響いた。
「いやはや、私はとても満足であるよ。良き一日だった」
「でもあなたは寝てただけじゃ…」
「うむ。私はここで寝ていただけだが、それでいいのだよ」
なぜここまで機嫌が良いのかさっぱりわからなかったけど、それ以上に自分の中の充実と疲労が心地よくてさほど気にならなかった。
「そろそろ帰ろうかね」男がそう言うと、さらにセミの声が大きくなる。
その音はどんどん大きくなり、徐々に自分の平衡感覚が失われていく。立ち眩みだろうか。なんだかふらふらしてくる。男がもたれていた木から離れ、こちらに近づこうとしたところでふうっと意識を失ってしまった。
「さて、と」男がつぶやき、道端で気を失っている水谷の額に手を当てる。
「んふふふっ、君が思い出してくれて良かった。では、さらば!」
そう言うと男の体は崩れて灰になり、風が強く吹き荒れた。灰が砂塵のように舞い、風が収まると、そこには誰の姿も残っていなかった。