第3話
あの日以降、駅前に行くと少し身構えるようになってしまったが、変な男は一度も見かけなかった。男の風貌が奇妙だったこともありもしかして夢の中の出来事だったのかもしれないと思うこともあったが、それまで仕事をしていたのは確かだし、退勤して家に帰ろうとしていたのも確かだ。それに、夢にしてはあまりにも鮮明に記憶に残っている。
不思議な出来事があったとはいえ日常が大きく変わるわけではない。相変わらず日々の仕事は減らないし、同じような時間に起きて同じような時間に通勤してある程度残業をして帰るといった流れは変わらない。それと、山道を歩く夢は相変わらずよく見る。カーブを曲がるところで目が覚めるのも同じだ。同じ事ばかり。いっそ大きく変わってしまえばいいのに。目の前の仕事を片付けるのが億劫になり、少し席を外して休憩をしながらそんなことを思った。
あれだけインパクトのあった変な男との会話も1週間経つとびっくりするくらい頭の中から抜けてしまい、再び変わらない日常だけが目の前に残った。
金曜、同じグループ内の飲み会があった。
「水谷君、今日空いてる?」とグループ長に聞かれ、うわ…また残業か?などと身構えていたら、「今日皆空いてそうだから、久しぶりにグループの皆でご飯でもどうかなと思ってね。」と言われた。特に断る理由もなかったのでOKした。
19時前にグループ全員で会社を出る。全員と言っても自分含め4人しかいないのだが。グループ長と大野さんの他には、2年前に中途で入ってきた佐々木さんがいるだけだ。グループにはもう1人事務員の女性がいるのだが、基本的にこういう集まりに顔を出しているのを見たことがない。
「えー、皆さん今週もお疲れ様でした。お客さんに企画が通り、ひと段落といったところですね。来週以降はまた別の案件が本格化していくと思うので、ここで英気を養っていきましょう。乾杯」
「「乾杯〜」」
元々派手な人がいない上に4人しかいないのでこぢんまりとした雰囲気で始まる。学生時代から酒の席に苦手意識がある身としてはその方がありがたい。あまりお酒が強くないため少ししか飲まないことが多く、周りはどんどん酔っていきテンションについていけなくなってしまうのだ。
「佐々木さんは最近もトランペット吹くんですか?」グイッとビールを飲みながら大野さんが尋ねる。
「いやぁ〜それがねぇ、ここんところは全然なんですよ。お金かかるからって嫁に止められてて…はぁまったく、休日の楽しみだったのに」
「お金ですか、、何か最近出費が増えたりしたんです?」大した興味を感じないトーンでグループ長が聞く。
「え、ああ、最近子供が野球を習い出したんですよ。道具を揃えたりなんだりしたらお金が足りなくなって、その分僕が削られてるんです…苦笑」
「習い事は大変ですよねぇ…うちも娘がピアノを習ってるんですけど、最初にアコースティックピアノを買った時はだいぶ苦しかった記憶があるなぁ。」
「いやぁもう、やってらんないっすよ!」佐々木さんの語気が少し強まる。
去年飲み会をした時に気づいたが、佐々木さんはお酒が入ると愚痴が多くなるタイプだ。愚痴モードに入りつつあるのを防ぐように、大野さんが被せてくる。
「……水谷さんは最近何かありました?」
「僕?」
隣の席から突然話を振られ、少し情けない声が出る。
「うーん、特には……あ、そういえば、先週変な格好の男に話しかけられましたね。」
「宗教勧誘とかですか?」お酒のペースがいいからなのか、大野さんは少しからかい気味だ。
「いや、土曜に一緒に遊ばないかって言われて、何するのか聞こうとしたらさっと帰っちゃったんですよね。」
「なんか宗教勧誘より怪しいですね笑」
「土曜って、明日のこと?」グループ長が横から指摘する。
「…あ!そうです、明日です。」
「水谷君行くの?」
「いやあ、流石に怪しいので…」
「だよねー」「ですよねー」と、グループ長と大野さんが同じタイミングで相槌を打つ。
正面の佐々木さんは無言で聞いていた。
飲み会は2時間ほどで平和に終わった。グループ長と大野さん、佐々木さんと自分で帰る方面が別れた。
電車の中で佐々木さんに、「さっきの話、本当に遊びに行かないんですか?」とニヤニヤしながら聞かれた。
「うーん…」
「実は昔、私も知らない人に誘われて遊んだことがありましてね。私の場合は居酒屋で飲んでたらたまたま話しかけられたんですけど、当時は独身で休日やることもなかったし、なんとなく行ってみたんですよ。」
「何したんですか?」
「相手の人が開口一番「俺バッティングセンター行きたいんすよ!」って言ってきて、1時間くらいひたすら打って、それで解散して、それ以降は何もなし。変な体験だったけど、普段と違う過ごし方で楽しかったんだよなあ。単純にバッティングセンターがストレス発散になったのもあるけど」
「そんなこともあるんですねえ」
「だからというわけでもないですが、水谷さんも明日特にやることがないなら行ってみるのも面白いんじゃないかなと思いましてね。いい感じの刺激になるかもですよ?」
「そうですかねえ…」
「ま、最後は水谷さん次第ですけどね。あじゃあ、私ここで降りるんで。お疲れ様です。」
「あ、お疲れ様です。」
佐々木さんと別れ、一人になる。この前の変な男の話はすっかり忘れていたのだが、飲み会で話したことで思い出してしまった。元々会いに行くつもりはなかったが、佐々木さんと話していて確かに休日は退屈だな…と感じていたし、刺激という言葉にそこはかとなく魅力を感じてしまった。それに明日の予定も特にない。行くだけ行ってみて、気乗りしなかったら引き返そう。ふわっとそういうことを考えながら家に帰った。