第2話
周りを見渡すと山々の緑が見え、側を流れる川からはせせらぎが聞こえてくる。「ミンミンミン」だとか「ジィィィィ」だとか「チッチッチ」だとかのセミの鳴き声の応酬に囲まれながら、車もほとんど通らないような道路を黙々と歩く。
落ち着いた気持ちで歩いているのだが、実はここがどこなのかは全くわかっていない。何ならいつからここにいるのか、どこに向かおうとしているのかもわかっていない。それなのになぜか落ち着いているのだ。どれだけ歩いても人や車に出会う気配はなく、住居や商業施設の類もまるで見当たらない。暑い中歩いているのに、汗をかいている感覚もないしのども乾かない。とても不思議な感覚だった。この奇妙な状況にもかかわらず冷静に歩いているのは、歩いた先に何か自分にとって気になるものがあるような感じがしているからだ。それが物なのか人なのかはわからないのだが…
はは、本当に全然わからないまま歩いているな、と自分で苦笑いしながら、道路が大きくカーブしている場所に差し掛かった。このカーブを曲がった先には何かあるのだろうか、と淡い期待を抱きながらカーブを曲がり始める―
「ジリジリジリィ、ジリジリジリィ」その音はセミではなく目覚まし時計から鳴っていた。時刻は朝の7時を少し過ぎたころを指している。またか、と思った。最近よく同じ夢を見る。夢の中ではいつも同じ景色の山道を歩いていて、いつも大きく曲がるカーブを曲がろうとするところで目が覚めてしまう。毎回同じところで目が覚めるのでカーブを曲がった先に何があるのか少し気になっているのだが、一向にそれが明らかになる気配はない。まあ夢なんてそんなものか、と思いながら歯を磨き始めた。
出勤すると、大野さんがおずおずと近づいてきた。
「水谷さん、昨日はすいませんでした。急に熱が出てしまって……私の分までありがとうございます。」
「いえいえ。大野さんこそ、もう体調は大丈夫なの?」
「はい、昨日一日中寝てたら何とか良くなりました。夏バテだったのかもしれないです」
「ならよかった。最近暑いから気を付けてくださいね。」
あっさりと会話は終了し、それぞれの作業に戻る。
大野さんとは比較的年齢も近く何かと話す機会が多いが、ほとんど仕事の話しかしたことがない。もっとも、自分のいる部署はかなり人付き合いがドライなのでそもそも大野さんに限らずプライベートの話をすることはほとんどないのだが。個人的にはもう少し仲良い方が楽しいんじゃないかと思うこともあるが、変に距離が近づいて断りにくい飲み会などが増えても嫌だし、だったらドライな方がいいなと思うことにしている。
この日もいくらか残業をして退勤した。
最寄り駅の改札を出た時、「もし、君」と声をかけられた。最初は自分のことじゃないと思い無視したのだが、「もし、そこの君、もし」と少しボリュームの上がった声で話しかけられ、どうやら呼び止められているらしいことに気づいた。
声の方へと顔を向けると、シルクハットのような白い帽子にサングラス、真っ赤な半袖のシャツに真っ黒なロング丈のプリーツスカートという出で立ちの男が立っていた。背丈はそれほど高くなく中肉中背といった具合で、特徴的な格好に意識が向いてしまい年齢はよくわからない。この明らかに全てが怪しい男は、それにもかかわらず周りの視線を集めている様子もなく、まるで住宅街の光景に溶け込んでいるかのようだった。数秒間の硬直の末に、呼びかけに応じることにした。
「えっと、、なんですか?」
「時に君は、週末は何をして過ごしているのかね?」
「…はい?」
「聞こえなかったのかい?週末の過ごし方を尋ねているのだよ」
新手のナンパだろうか。だとしたらとんでもない人に目をつけられてしまった。
「答える必要がありますか?」
「面倒なことを聞くね。私が知りたいから尋ねている、それだけのことだよ」
「知ってどうするんですか?」
「もしそこまで忙しくなければ、君を遊びに誘おうかと思ってね。無理にとは言わないけれども」
本当にナンパかもしれないと思いつつ、だんだん状況をちゃんと考えるのが面倒になってきてとりあえず返答した。
「別に、特にこれと言って何かやってることはないですよ。昼頃まで寝て、家事をしたり買い物をしたり、本を読んだりするくらいです。」
「そうかい、そうかい」
その男の声のトーンが少し上がった。駅前のロータリーをふわ~っと生暖かい風が吹き抜ける。
「来週の土曜などは、空いているかね?もし空いていれば、この駅前で待ち合わせようではないか。私は17時から17時半の間ここにいるから、その時間帯に来てくれ。」
「えっと、それで待ち合せたら何をするのですか。」
「何って、そりゃあ遊ぶのだよ。君もきっと、気に入ってくれると思うがね」
「その、具体的に…」
「一つ言っておくと、17時半以降はいないから、来てくれるなら必ず17時から17時半の間に来て欲しい。ではまた。むふっ」
そう言うと、その男は改札の中に入っていった。あの格好で電車に乗って不審がられないのだろうか。相変わらず誰の目にも留まっていない様子の男の後ろ姿をぼーっと眺めていた。家に帰る人の波に逆行するその姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
時間にしてわずか5-10分の出来事だったが、ひどく疲れてしまった。何とか状況を整理しようと思ってやり取りを反芻してみたが、どの場面を切り取っても怪しいという感想しか出てこなかった。結局大して整理はできず、生ぬるい熱帯夜の中を帰途についた。