九十一 〜りょうこちゃん、せきらら。〜
「……それなら充分だぁ」
「良子さん! それはっ!」
わたしの話す内容に納得出来ないのか、八尋が声を上げた。
止められる前にやっちゃお。
「痛いの嫌だから、水嶋やってちょうだい。出来るでしょ」
「……」
「水嶋」
「……御意」
目を伏せたまま水嶋はわたしの前に立った。大きな手のひらが左のまぶたを覆う。
水が目に入ったときに感じる違和感を一瞬だけ感じると、もう左の視界は無くなっていた。
「終わりました……」
「嫌な事させてごめん」
「我が君の願いならば……」
水嶋は片膝を着いて、両手で包み込んだそれを掲げた。
右目だけで見る八尋の顔は険しい。自分を責めてる顔。勝手に決めるのはお互いこれが最後ね。
「右の秤に載せろぉ」
天秤の声に反応した水嶋が私の方を見る。頷いて先を促す。
「稔……八尋ぉ。術式を組めぇ、たいがいの事は素通りだぞぉ」
「……」
八尋が動かない。
「八尋、もうこれしかないの。何もできずにここで終わりたくない」
「……」
わたしを見つめる八尋の辛そうな顔。ごめんね。でもこれしか思いつかない。
「お願い」
「……分かりました」
「あと、何があっても手を出しちゃダメよ。わたしを信じて。術だけに集中して」
「敵わないな。そんな言い方をされたら……天秤、術の範囲は——」
八尋はわたしを見て苦笑すると、天秤と言葉を交わし始めた。皿の上の目が溶けて飲み込まれるように消えていく。
春樹の方を見る……アラドの攻撃に怯まず殴り返し、こっちに来れないように踏ん張ってる。
「水嶋、春樹に加勢してきてちょうだい」
「仰せのままに」
わたしの要請に応えて水嶋はアラドと春樹がいる方向に走り出した。
「無理しちゃダメよー、触られないようにねー」
なるべく早く終わらせるから、もう少し頑張ってね。
「さてと……『リバレイション』だったかな」
十歩ほど前に歩いて、手に持った光りを放ち出したペンを前に突き出す。使い方は行きたい場所を強く念じる、想う……だったよね。
想い浮かべたのはあの風景。夕焼けの地平線と高台。石畳の遺跡。人々の声、地球の言葉じゃない、あの言葉。
空中に円を描こうと動かしはじめたけれど、重い。固定されたようにペンが動かない。
「んぎぎっ……」
ちょっと他人には見せれない表情で力んで、ようやく筆が動きだした。空中に光の軌跡を少しずつ描き出す。
『我は器を手に入れ戻るっ! 邪魔をするなあああっ!!』
ここまで届くほどの気当てがアラドから周囲に放たれると、拮抗していたぶつかり合いが少しずつアラドに傾き春樹が押されだした。
水嶋が撹乱するように動いて助けているけど、押し返しはできない。
もう少し。あと半周。
『おとなしく死んで贄になれっ!』
「誰がなるかっ!」
アラドの触手が無数に分かれ春樹を飲み込もうと襲い掛かる。春樹はその全てを弾幕のような拳の連撃で叩き落としていくけれど、見るからに消耗してる。
次はもう持たないかも……。急がないと。
もう少し、あとほんの少しで繋がる——カチリっと音が鳴ったような……開く。
宙に描いた直径三十センチの光の輪は、みるみると大きくなっていき、直径三メートル程度にまで膨張した。
手の中にあったペンが灰のように崩れていく。
「解!」
八尋の声が聞こえてきて、そちらを見る。
反動を抑え込む術の制御が難しいのか、その場から動かず次々と印を結び続けている。
ふと身体の力が抜けてその場で膝をつく、でもここからが本番。気合い入れないと。
そう思って立ちあがろうとした時、頭上からわたしと同じ声が降ってきた。
『信じられらぬ……道が開いておる』
向こうに繋がった事が衝撃的だったのか、さっきまで怒り狂っていたのが嘘かのように静かな声色。
春樹と水嶋は——吹き飛ばされたみたいだけど無事。二人が立ち上がった姿が見えた。
『船を使わぬなら、新しい器に乗り換えなくとも良いが……ん?』
アラドの腰から触手が伸びてわたしのお腹に巻きつく。
身体が宙に浮きアラドの正面に相対する形になった。
『王典をこのような形で消費するとは……考えたな』
繋がってそのまま素直に帰ってくれたら一番良かったけど、そうもいかないか。ここまでは想定内、あとは……。
「ねえ。提案があるんだけど」
『提案だと?』
「アクアを返して」
アラドが手を伸ばし、わたしの頭を掴む。
『何を言うかと思えば……ダメだ。そもそもお前も我のモノ。このまま……』
酷い痛みがまた襲ってくる。……原因は分かってる。身体の中に怒涛の勢いで侵食してくる思念、アラドの記憶が入り込もうとするその余波。
でもこれは長くは続かないことを知ってる。
……痛みが引いた。アラドの記憶が流れ込んでくる。このままだとまたあの記憶巡りが始まって、そのうちわたしは上書きされて消えてしまう。
そうならないよう、体内の気血を意識して脳を守るように気を張る。首から上に気を集中させ意識を保つ。
『まだ足掻くか。無駄だというのに』
……お願いアクア、気付いて。長くは保たせられない。
『りょ——う、——こ』
いた!
激流のように体内を駆け巡るアラドの記憶、存在そのものの中に、確かにアクアを感じ取れた。
首から上に集中させた気を少しだけ、アクアを感じた方向に向けると、何かが掴まってきたような感触。
それを捉えて一気にこちらに引き込むと何かが千切れたような手応え。わたしの中にアクアが戻ってきた。
『良子! ただいま』
おかえりっ!
『——! 眷属よ、何故逆らうっ! それは器でしかないというのにっ!』
そんな単純なことも分からないなんだ。ダメなやつねまったく。
『良子の方が優しい』
だよねー。
拳を作り、アラドに向かってゆっくり伸ばしていく。身体に拳が触れた。
何度殴っても障壁に邪魔されていたけど、この状態なら、わたしを上書きしようとしているこの時なら触れることができる。
『我が作り出さねば存在すらせぬ分際どもがっ!』
でも、このまま殴ってもダメージは期待できない。
だから、この流れ込んでくるものを利用する。
激流を自分の気で包み込むように捉え、全身を駆け巡らせる。アクアがさらにそれを加速させる。
これの出口は拳の先。
——ここっ!
『なっ!』
勢い良く流し込んでいた筈のものを、更に強烈な勢いで返された衝撃で、アラドは後方へ吹き飛んだ。
その背後には、ぽっかりと開いた異世界へ繋がる穴。アラドが穴をくぐり抜けていく。
アクアのおかげで威力は抜群。わたしだけの力じゃここまで吹き飛ばせなかった。まだアラドは後退し続ける。
さあ、あとは仕上げ。
「春樹、閉じて」
「おっしゃぁっっ!」
段取り通りに春樹はわたしの前に移動してきていた。
広げた両手を閉じる動作に併せて、向こうに続く道、その穴が少しずつ縮小していく。
『——! 器も眷属も稔麿も! 置いてはいかんっ!』
体勢を立て直したアラドがこちらに向かってくる。
「春樹っ! 急いでっ!」
まだ穴は閉じない。
「思ってたよりも重くて……!」
間に合わない……穴のふちにアラドが手を掛けた。
穴の縮小が減速する、それどころか少しずつ開いていく。
ここからはもう手がない——
「美しい……」
いつのまにかわたしの横に立っていた水嶋が、穴を見ながらそう言った。
美しい? 何が美しいの。
水嶋が見つめる先はアラドが広げている穴。
広がる穴の端から覗くのは、異なる世界の空が夕陽に照らされる景色。
穴から漏れた寂しい色合いの光が水嶋を照らした。
『ああ……』
光に照らされる水嶋を見たアラドは、なにかに気付いたように後ろを振り返り、穴のふちからも手を放した。
穴が再び縮みだす。
「姉ちゃん、ごめん、最後の最後でガス欠だ、あと任せていいか……」
春樹が膝をつき、倒れこんだ。
「何をすればいいの?」
「穴の中央をとにかく思いっきり殴ってくれ。そうすれば完全に閉じるようにまでは出来てる。その場に留まるような性質の拳打なら完璧だ」
「分かった、やってみる。……アクア」
アクアを纏って穴の前に立つ。
深呼吸、右脚を引いて構える。
「流転歩の壱、【足撃】」
身体が覚えた動きを邪魔しないように何も考えずに撃つ。
拳先が目標に届く直前、捻りを加えながら拳を引く。
空間が弾けた音と手に残る手応え、縮小していく速さを増した穴の様子で、春樹の要求を達成出来たことを確信した。
手のひらよりも小さくなった穴の先、アラドはこちらを見もせず、夕陽の空を見つめている。
『……そうだな、ここは美しいな』
アラドの呟きと共に穴が完全に閉じた。
「疲れた」
立っていられずそのまま倒れ込んで仰向けになる。
「春樹。少し休んだら、もうちょっとだけ頑張れそう?」
横に寝転がる春樹に声をかける。
「帰り道を開ける力は……ギリだけど回復出来ると思うから、とりあえず寝る……」
帰り道は確保。水嶋は……立ったまま穴があった場所を見つめてる。
八尋はどうしてるだろう。と思ったらわたしの横に来て顔を覗き込んできた。
「終わったんですか? 本当に?」
本当だって。
「良子さん……」
そんなに目のところばっかり見ないでよ。
「アクア、片目が収まり悪いんだけど、なんとか出来ないかなこれ」
身体から水色の粒子が立ち上ると、わたしの空いた左の眼窩に吸い込まれていく。
——すごい。視界が戻った。触ってみると目の感触もある。これなら八尋も気にしないでしょ。
『見た目もほぼ前と同じに再現した』
「ありがとうアクア」
『水色以外には出来ないけど』
ん? 瞳のこと? まあコンタクトとかで誤魔化せばいいんじゃない?
そんなことよりも。
「ねえ、八尋」
「なんでしょう?」
なによ、なんで困った顔するのよ。
ちょっと文句言おうと思っただけじゃないの。
「わたしね、八尋の事が好き」
……あれ。なに言ってんだろ、わたし。
文句いってやろうと思ったのに、八尋の顔をみてたら勝手に口が動いちゃって。
えっ、ちょっと、なんで笑うのよ? と思ったら真顔になって、えらく真っ直ぐ見てくるじゃないの、顔近いんだけど。
「えっと、あの、その……」
すごく近い。……八尋の目って綺麗だよね。
近いよ。八尋。これって——
〈了〉




