三十九 〜テロリズム対策課 課長〜
「三鷹課長!」
警察庁警備局国際テロリズム対策課内で焦りを含んだ声が響いた。
声の主人は課内外での信頼も厚く個人的な欧米各国とのコネクションも持つ才媛、ーー鏡十和子だ。
はっきりとした目鼻立ちと、やや日に焼けた肌色。だがシミやシワは見当たらない。三十を超えたと言えば、いい意味での驚きを与える事もしばしば。そのどれもが玉砕だが彼女の容姿に惹かれて特攻をかける他部署の人間は毎年二名は出る。
「GG案件です!!」
セミロングの髪が揺れる勢いを持って続く言葉が放たれた。
「あー……そう。じゃあ、事案処理事例に沿って適切に処理をお願いします」
課を預かる三鷹誠司課長の抑揚の無い返答に鏡十和子のこめかみがピクリと動く。空気が一変した事を敏感に感じ取った三鷹を除く課員一同はデスク上の書類を眺める作業に腐心する事を素早く決めた。
「課長……今回の現場が何処か報告させて頂きます。EIM本社ですよ?」
課員達の懸命な努力を嘲笑うかのような爆発的威力の情報に配属二年目の若手は我慢が出来ず問いかけてしまう。
「EIMってあの!?」
「白藤君? 興味あるなら今から現場付き合って貰える?」
「いや、あの、ちょっと上げなきゃいけない報告書が溜まっておりまして……」
「それは班長の私が判断します、なので車をまず表に回して頂戴」
ーーご愁傷様。課員一同が気持ちを同じくとしたのには理由がある。彼女は捜査に必要だと感じた事には労を厭わず、答えが出るまで決して諦めない。
その執念は時に捜査形態に現れ、一週間で睡眠時間が十時間程度となることもざらに有る。常人ではその捜査について行く事は難しい。
しかし彼女の持つ警察官としての使命感やプライドは周りへの刺激が強く、疲労を忘れ職務に没頭させてしまう事がしばしばだ。気がつけば同行者達の身体が限界を迎えてしまうという事態も珍しくは無い。
なお、鏡十和子は殊更に頑丈な身体でこれまで一度も過労で倒れたりという事は無い。
今回の事案が現在、課が最優先事項として定めたターゲットに、もしも絡むようで有れば一月はまともに家に帰れない覚悟が必要だ。
GG案件はこれまで、その他の案件に何故か繋がるもしもを実現させてきた実績がある。
そして今回の発生現場。何かが、何かがそこにはある。課員達の脳裏にはそんなフレーズが浮かんでいた。
「鏡君。 GG案件だからペアが必要なら私が出るよ。白藤君は早く書類を片付けて今日は早く帰りなさい。奥さん誕生日だろう」
この課に配属されて良かった……課員達は再び気持ちを同じくとした。課長である三鷹はボサボサ頭に度の強い眼鏡、間伸びした喋り方、ヘラヘラとした表情は正に昼行燈と言うに相応しい人物だが彼らは知っている。
為すべき事を為すべきタイミングで、順序良く。出来るようで出来ないこの当然の事を昼行燈の雰囲気のまま淡々と実行する、しかも部下への気配りもスマートかつ押し付けがましくも無い。異例の若さでの課長抜擢も、彼を知れば納得だ。
「課長に御同行頂けるので有れば。ーーしかしながら課長。現場がEIMとの情報に些かも動揺されておられていない理由はお聞かせ願えますか」
日本が誇る世界的企業EIM。二十五年前に世界同時的に発生した経済不安の影響は現代にも続く深い爪痕を残した。その失われた二十五年を取り返すべく打ち立てられた国策案件を数多担う企業、それがEIMである。
そこが現場であるとすれば、公僕として何がしかの衝撃を感じるのは間違いがない。十和子が普段上げないような音量を張り上げた事からもそれは共通認識の筈だが、柔和な笑みを浮かべるこの男は違う。いささかの揺らぎも見られない。
「 まあ、事件は何処でも起こるし、GG案件なんだから死人は絶対に出てないだろう。それにEIMはGGよりもっとやばいネタがある。自衛隊とか内調とかがこぞって乗り込んで来そうだから其方の対応が面倒だよね。鏡君どこから情報取ってきたの?」
冷静な問いかけを受け、彼女は居住まいを正した。本来この課が扱う案件は海外テロ組織への対策を目的としたものが主で情報の精度や入手時期などは最も重要視されている。ましてや情報源は真っ先に報告すべき事柄だ。
「内調に出向している大学校同期からです。あちらからの公式情報としてでは無く匿名リークの形ですが」
「良子ちゃんは内調にすっかりマークされちゃってるねぇ……彼らこっちが出した特秘情報とかちゃんと読んでるのか?」
特秘情報……三鷹警視正はGGと呼称される人物、向井良子と同じ流派の兄弟子という関係性から得た、彼女の取り扱い説明書とでも言うべき重要情報をレポート化し三鷹文書と呼ばれるそれをGG案件に関連する各関係省庁へと配布している。
その甲斐あってなのかGG案件に関連する人員の負傷件数は劇的に改善され彼女への安全な接触方法のレクチャーは新人担当者の必須受講項目となっている。
「先日の総理大臣の辞任、交代の余波で内調で統制が取れていない状況があるようです」
「話に噛みたがるのは結構だが、本質が分かってないんだよな彼等」
眼鏡に光が当たりキラリと輝く。瞬間、刃物の様な冷気が十和子の身体を通り抜ける。時折この男から発せられる怒りによって放たれた怒気では無く、冷たい何か。彼女はこれを浴びる度に恐れでは無く別の感情を抱く。それは彼を本能的に欲する感情か、はたまた別の何かか。彼女はまだその気持ちが何かは掴みきれてはいない。
課員にそれを悟られぬよう鉄面皮を保ちながら、彼女は三鷹へ質問を発した。
「課長の嗜まれる武術については、いわば新興組織である内調レベルでは詳細は掴みきれないかと。MI6やCIAも掴んでいる情報をリークさせない方針ですし」
「だろうね。良子ちゃんだから軽い事件で済む事が殆どなのに。いい加減分かってくれないかな? 三十八歳になってまで師匠に詰められたくないんだよねぇ」
「お会いした事は有りませんが、それほどの方なのですか……?私には三鷹課長がそうなるような場面は想像がつかないのですが……」
三鷹が各国情報機関実務トップとの会談で、こちらの不都合な情報を一方的に握られていた状況に焦ることも無く、ブラフと脅しと胆力だけで乗り切って見せた場面を十和子はその場で目撃している。
その彼女からすると今の三鷹が出すため息にも似た諦観は理解が追いつかないものであった。
対策課の評価が国内外で一気に高まった時期は三鷹が課へ配属されて一年後で、間違い無くその評価は三鷹自身への評価と言って差し支えない。
この日本でスパイ映画さながらの活躍を見せるこの男が端から勝負すら挑まない相手。彼の扱う武術の師。分かっているのは女性であると言う事……十和子はあり得ないと思いつつも、一つの下世話な想像が浮かんだ事を気取られまいと心の奥底にしまうべくゴクリと喉を鳴らした。
「おや? 鏡君? ……そうか。少し遠いな、耳を此方へ。内緒話だ。そうだな今日は現場に向かった後は上りにしよう。そのあとは飯でもどうだ?」
冷静な顔を保つ彼女だが、中では血が逆流するかの如く体内を爆発的な感情が迸っていた。好意が筒抜けになった恥ずかしさ、それは構わなくとも、今のは中にあったドロドロとした感情までを読み取った上での誘いだったからだ。そう十和子は認識した。
つまり二人の関係は一方的な勘違いなどでは無く、三鷹も十和子を求めている。その事実。まだ全ての答えとするには早いが、いずれにせよ駒は一つこの時進んだのだ。
それだけは間違いが無い。彼女自身、仕事漬けの日々に嫌気が差さない職務への誇り以外の理由、それは随分と前から気付いていたが、まさかのタイミングであった。十和子は思わず、嬉しいとでも呟きそうになるのを堪え返事を返す。
「っ……! お供させて頂きます」
「うん、良いね。実に良い。さあ、現場に向かうとしようじゃないか。因みに何分前の情報になるのかな?」
彼もまた二人の関係が一つ進む事に嬉しさを感じている。課員達には見えないよう彼女にだけ見せる微笑みからもそれは明らかだ。
「EIM本社一階搬入口から関東獅堂会系の三次団体、岩瀬組の人員が重傷者、軽傷者含めて二十名前後転がり出て来たとの情報が約五十分前との事でした。GG案件と特定されたのはその情報を得た内調が監視カメラ情報を確認し、その三十分前に彼女が次期社長と目される遠藤八尋氏に同行する形で本社に入って行くのを確認した事からです。ちょうど今ですと、ごろつきが叩き出されて来たのが……七十分……一時間十分前と言うところでしょうか。」
二人はその他の情報共有を行いながら、課が入っているフロアから出て階段を使い、足早に階下のエントランスへと進む。
「ここからだと車は余計な時間を食いそうだね。鏡君」
「課長。お願いですから、この間、マル被を追っかけた時みたいに突然走り出さないで下さいね?」
そう、三鷹課長は走る。支給品の革靴を履いて走る。
目で追うのが精一杯の速さで息一つ乱さず走り、逃げるマル被を確保する。
彼女はそのあまりの速さが気になり調べた。その結果百メートルを十秒切る選手のトップスピードよりまだ速く、しかも五百メートル以上もそれが持続していた事が分かった……が。
彼女はこの件については考える事を辞めている。追求したからと言って誰も得をしないし、そもそも公益としてその力は振るわれているのだからと無理矢理納得している。
「ははは! 鏡君、この間置いてけぼりにしたのを気にしてるのかい? 今日は後の事もある、私のバイクで現場に向かうとしようじゃ無いか。乗ってくれるかい」
警察官僚らしからぬオフロード仕様のバイクに二人乗りで跨り、EIM本社へと向かう。目と鼻の先とまでは行かないが十五分も走れば直ぐに着く。
心地よいバイクの走行音の中、仕事中ではあるものの好ましい状況に十和子は浮かれそうになる。何とか気持ちを抑えつけるが、三鷹の引き締まった腹部に回した手から伝わる感触がそれを難しくする。
やがて視界の半分はもうEIM本社ビルで埋め尽くされようとする距離に差し掛かった時、甘い時間の終わりを告げるには不似合いな爆音が鳴った。




