二十六 〜霊器【天秤】〜
八尋視点
「天秤」
霊器、天秤を喚ぶ。金属製であろう黄銅色の古びた天秤が眼前に現れる。
神獣や霊器ーー意志を持つ器物ーーは自身の作り出した異界に居る。異界とは術者の周りの位相が現世とズレた状態とその空間を指す。
遠く離れた位置から突然に現れる事が出来る様なものではない。
相性の良い容器に異界を作って持ち運んで貰う、異界を常に作りながら移動し必要になった時に現れるなどの手を取る必要がある。従属契約を結んだ場合には別だが。
この天秤だけは普段何処にいるのかが分からない。ただ喚べば来る。
知らぬ間に従属契約でも結んだのか、影の中に居るーー従属契約の象徴的な事象ーーのでは? と疑いもしたが、見つからず。謎は深まるばかり。
「稔麿ぉ、相変わらず息災かぁ?」
おどけた口調で天秤から音声が発せられる。
この霊器は何故か自分の事を稔麿と呼ぶ……僧正師によれば前世の因縁であろうとの事だが、この霊器は喋りはしても答えはしない。
目も耳も無いのにどうして此方を認識しているのか、何処から発声しているのかを聞いた時は概念と認識について随分と饒舌に喋べり続けたが。
答えられないのか、答える気が無いのかは分からないが、その類の質問には只々、目線の高さで漂い、ゆっくりと回転する様を見せるだけだ。
「八尋! 天秤を出したと言う事は、まさか契約するつもりか! 同意が得られるとは思えんぞ!」
玄武から至極当然の疑問が発せられる。契約とは双方の合意を持って締結される。一方的な契約はこの世界の理を無視する事になり効力を発揮しない。
「そのまさかだ……同意は必要ない。義母と契約する。更にはそこから自身で契約して貰う」
咒式は義母の精神に深く食い込んでいる状態から今は胎児と同化しながら、少しずつーーしかし一瞬のうちにーー義母から分離しようとしている。これを利用する。
先ずは咒式が義母から離れた瞬間に契約を行う、契約内容は庇護。これで義母の庇護者として義母への仙術貸与が可能になる。そして今度は義母と胎児の契約だ。貸与した仙術でそれは可能になる。
咒式が胎児に同化し母体を食い破り現世に出る前に式神にしてしまう。母と子の関係であれば契約は成りやすい。
咒式にしても受胎転生などと言う押し付けられた役割より、世界に認められた式神として存在する方を選択する筈だ。
古来より凶悪な妖魔や悪鬼を式神として契約する事で制御するのはポピュラーな手法で、勝算はあると思える。
考えるだけなら簡単だが、そんな都合の良い方法を実現する為の契約術式は現時点でこの世に存在していない。タイミングもさることながら仙術を貸与した後の行使を仙人でも無いものが出来る様にする術など聞いたことも見た事も無い。
ではどうするのか? ……無ければ作るまでだ。天秤はそれを可能にする権能を持つ。天秤を出した時点で玄武もその手法に辿り着いた。
「流石じゃの! ……しかし契約の対価は何を差し出す? 眼も鼻も手足、内臓、主要な部分は儂らが貰うておる、儂らで有れば貰うてから手入れして強化し、貸して返してやれるのでお主に取っては困る事も無かろうが、今回の場合はそのまま持って行かれるぞ?」
「肋骨を一本差し出す。自分では出来ないので頼めるか?」
「仙人の骨……まあ対価としては釣り合うか。良かろう、契約が終わるまで、再生仙術も使えんし取り出すのも痛むぞ!!」
玄武の嘴が剣呑な光を放ちながら弧を描く。左の脇腹を撫でられたかの様な感触の後、血が噴き出し激痛が走る。このまま立っていられる自信は持たせてくれそうに無い痛み。
「ぐぅッッ!」
「行けるか?! 八尋!?」
「この間、姉弟子に顔面を壊された時よりも、随分マシだ……」
「やはり藤堂流は恐ろしいのぉ……ほれ綺麗に一本だけ取れたぞ」
綺麗とは言いつつも血がべっとりと付いた自分の肋骨が嘴に咥えられる様は気分が良いものでも無い。
秒毎に痛みが強くなり、身体を動かすのも声を出すのも辛くなってくる。天秤へ意識を向け此方へ来るよう促す。
「対価は骨だなぁ、右に載せろよ? 間違っても左に載せるなよ」
天秤の権能は捧げた対価に見合うものを用意すると言うものだ。
自分の肋骨を握るのは抵抗があるが、玄武の嘴から骨を受け取り右の皿に載せる。
「願いを言えぇ」
「今から一時間の間、次に説明する契約を可能にする術式を俺にくれ」
「聞こうぅ」
黄道色の天秤が僅かに光を帯び、台座ごと回転を始める。契約内容と対価が釣り合わなければこの回転は止まる。
「一、遠藤真由美は遠藤八尋の庇護に入る。この契約はこの二名、かつ今から一時間のみ効力を発する」
天秤の回転は止まらない、契約者の指定や効果時間までを指定すればコストは随分と軽くなる。
「二、契約締結後、遠藤八尋は式神契約術式を遠藤真由美に譲渡する」
式神契約術式は元々自身で作成し持っている符札だ。再作成する手間も特に無い。回転は勢いを緩める事もなく回り続ける。
問題は次だ。
「三、遠藤真由美は式神契約術式を行使し胎内の胎児と式神契約を結ぶ、行使に必要な仙気、龍気は遠藤八尋が全て賄う」
回転が一気に遅くなる……毎秒一回転はあった速度が五秒経っても一回転もしない。やはり契約に対して咒式を入れ込む余裕は無かった。咒式が拒絶しない事を祈るしか無い。
「これ以上は釣り合わん、術を出すぞぉ。右の天秤に珠として出すから割って使えぃ」
天秤の回転が止まり、僅かに震える、左の皿に載せた肋骨が溶ける様に呑み込まれ、右の皿に拳大の鈍色の珠が光を伴って現れる。
「げぇふぅぅ、暫く仙人由来のものは喰いたくないのぉ、仕事は終わり、帰るぞぉ。達者でなぁ」
許可も無く気ままに消える様は見慣れたものだが、空中に放り出されたものは受け取らないといけない。だが身体の痛みが意識を保つのに精一杯な程には警鐘を打ち鳴らしており、珠はゆっくりと地面に激突し割れた。
「馬鹿秤め、いつになったら配慮というものを覚えるんじゃ」
玄武の天秤への罵声と溜息を合図とばかりに割れた珠から術式が溢れ出す。仙人が使う甲骨文字が空間から無数に浮き出し、己の定められた位置を探しながら術式として作用するように整列していく。
だがこのままでは術式は発動しない。動作させる為には体内に取り込み動力となる気を纏わせ再度体外に排出せねばならない。そうして初めて仙術が完成する。
辛うじて動かせる右手を前にかざし、術式を取り込む為、掌の経絡穴を開く。
「集え……あ、ぐ、か、うっ!」
勢い良く飛び込んでくる術式の余波が身体に叩き付けられる、普段であれば心地好いそれも、今は傷口を更に開けるものでしか無い。左の腰から下が血で濡れて不快だが今は構っていられない。
仙術とは仙人が練る気〈仙気〉を龍の力〈龍気〉と混ぜ合一し、術に対して必要量用意し全体に行き渡る様に組み上げ、制御する技術体系だ。
学び始めた当初ならまだしも得意な契約系術式であれば重傷を負っていようとも正確に気を送り込み、組み上げられる。
「解……」
出来上がったものを止め置く必要性は無い、印を切り術を放つ。
対象に向かって放たれた陣形を持った甲骨文字は術式として問題なく動作したようだ。懐に持っていた契約術式の符札が発動と同時に意志があるかの様に動き出し、術式と一緒に義母の周りを漂っている事からもそれが分かる。
先ずは第一段階クリアと言ったところだが問題は次だ。
先程放った術式は、まだ続きがあるぞとばかりに明滅している。次の段階へ移行する為には合図が必要だ。気を必要量練り、浮遊し明滅を続けるそれへ放つ。
「どうじゃ八尋? 上手く行ったか?」
「ああ、義母の意識はないが間違いなく契約術式は動作している、見ろ契約陣が浮き出てきた……」
想定してはいたが、咒式が抵抗している。契約が問題無く成る時、契約陣は真円を描くが問題がある場合は今の様に歪んだ陣形を取る。
「咒式が邪魔をしとるのか……ん? 外は終わったようじゃ」
母体が持たない……何故邪魔をする。お前にとっても利点しかないだろう……
術の圧力と咒式の抵抗に挟まれた義母はもう持たない……彼女と言う規格外が作り出したであろうルートでも駄目なのか……。
身体の力が抜けて行く……。
「呼んだ?」
「良子さん……!」
「さっきすんごいのが来たんだけど、とりあえず、すんごい帰り方で帰ってったわね、……ところでそのデカイ亀はなんなの? あと篠塚さんは?」
彼女は散歩から帰ってきたかの気軽さで唐突に現れた。
何処にも怪我は無い……まさかこの短時間であの相手を無傷で撃退したとは。玄武が異界に招き入れたのだろう、目線をやると頷きで返してきた。
「ご無事でしたか……何よりです。これは亀というか神獣玄武です。力を貸してくれています。篠塚さんは裏手の扉から避難して貰いました」
「そう、無事ならいいの。亀さん宜しく。こっちは何か大分ヤバそうね、真由美さん、空中に浮いちゃってまあ。悪魔祓いシリーズじゃないの。水嶋知ってる? 悪魔祓いシリーズの映画」
挨拶を受けても玄武は言葉を発しない。彼女に対してはまだ警戒を解いてはいないからか。
「我が君、申し訳有りません。存じておりませぬ」
「花札は持ってこないわ、悪魔祓いシリーズは見た事ないわ、アンタ私について来るってんなら、そういうとこ抑えとかなきゃダメよ?」
事態は何一つ好転などしていないにも関わらず緊迫した空気が解けて行く。諦めから悲観に逃げようとしていた心に喝が入る。そう、諦める程まだ足掻いていない。泣き言を吐くなら事破れてからだ。
「面目ありませぬ……」
「そんでさ?」
いつの間にか腹部にハンカチを添えられていた。脇腹から流れ出る血を拭ってくれているのだ。手を止めず彼女は語りかけてくる。
「ありがとうございます。ですが血で手が汚れますから、程々に。ところで話を遮ってしまいましたね、どうされましたか?」
「ここに来てからアクアがね?」
「御霊が?」
「出来るって言うのよね、真由美さん助けるの。水嶋なら出来るって、にしてもアンタ血が出過ぎよこれ? よく平気な顔してられるわね」
理解が追い付かない。水嶋さん〈東王〉なら出来る? 彼女の顔を見るが何を見落としたのかは思い浮かばない。
「早く、早くって、もうスンゴイ大きな声が頭に響いてくるもんだから、頭痛いのよさっきから。水嶋に聞いてもそんなやり方知らないって言うしさ。 八尋何か知んない? 真由美さん、どうなってんのか分からないけど、助けられるなら手伝うからさ」
呆けた顔をしていたせいだろうか。彼女から説明が繰り返される。
「東王、全てを喰らうもの……」
口に出して整理を試みる。後、一手。最後のピースが有れば、確信に変わりそうな予感が脳内を過ぎる。
「ちょっと八尋やめてよ、東王とか大層な呼び名あるのに、全てを喰らうものまで追加してくるから。思い出しちゃって、ふふふ」
堪えきれない様子で彼女は笑い出す。……神を従える者。
「我が君……」
「揶揄った訳じゃ無くてさ。いやだってアンタ、顔の形とか身体とかグニグニさせては変形させたりするでしょ? 最初はびっくりしたけど見慣れると大分カワイイのよね? 分かる? デフォルメキャラとかに通じるものがあるのよ、二つ名がイカツイからその対比でつい」
不定形、喰らうもの。
「それにさっきさ、ほら、あたしの周りを覆った時。あれ流石に雰囲気的に黙ってたけどスンゴイいい匂いしてたのよ? お花の」
違う。花の匂いは契約者の魂のあり様を感じとり、それをそう表現しているに過ぎない。
天啓にも似た答えが脳裏で像を結ぶ。
「理解したぞ! 全てを喰らうものじゃない!!」
肋骨の痛みも忘れて思わず叫ぶ。
「ちょっ! びっくりするでしょ! 大きな声でどうしたのよ? ほら、そんなに動いて興奮しないの。本当に失血死するわよ?」
「違うんです。喰らうものじゃない。彼は自身の神格を抑え込んだ。現に良子さんは喰われてなどいない。そんなことは出来ない筈なのに」
「えっ。私喰われるかも知れなかったの?」
「我が君、その様な事は誓って有りませぬ。八尋、はやく説明を」
点が漸く繋がった。
「水嶋さん……義母の周辺を貴方自身で隔離し結界を張って頂けますか? 出来る筈です」
「それは容易いが……そう言えば、そんな事は従属契約前は出来なかったな……」
気付いた様だ。そう、彼女と契約した事で彼は進化している。伝えられる先代の強さとその権能を完全に掌握する姿から彼を不足していると見る向きが眼を曇らせていた。
この見事な変化を見れば分かる。ここまで形態変化して人間形態に容易く戻れるというのは天才以外の何と呼ぶのか。東王を超えた者に既に彼は成っている。
全てを喰らうものであれば身の内に取り込んだ物を喰らわずにはいられない。だがこの光景はどうだ。
義母を優しく包み込む、薄く伸ばされた羽衣の如き膜が彼自身とは……全てを喰らうものを知る者からは想像出来ない筈だ。
「水嶋さんには眷属を作って頂きます。なし崩しでお願いして良い事では有りませんが」
「眷族……経験が無いな。我が身に取り込み権能を分け与えると伝え聞くが」
「そこは御霊が調節してくれるでしょう。ご覧下さい」
「わわっ! ちょっと、どうしたのよ、出るなら出るって言ってよアクア!?」
御霊が住処としていた、彼女が身に着けていたペンダントから溢れ出す様に現出した。
そして御霊は透き通る体、クリオネの様な体形状から伸びる二本の触腕を伸ばし義母の周りに浮かぶ歪んだ契約陣に触れる。
「書き換え……」
触れた箇所から広がる様に契約内容が書き換えられて行く。一度発動した術式を書き換える、新たに術式を作成するコストより確かに安い。それを可能にする超高度の技術は置いておいてだが。
受胎転生を式神契約に置き換える術式は強度はそのままに神の眷族の誕生に書き換えられていった。
契約陣は歪んだ円から真円に近づいていく。何故式神契約を拒まれたのか、その理由。
世界に押し付けられた魔の役割であろうとも咒式は胎児と共に生命として誕生したかったのだ。
神の眷属として、生命としてならば今の様に何も拒みはしない。今回の答えだ。
自身の気付きの不足には大いに反省すべきだが、大掛かりな術式、儀式であり元と成る基底部分を作った事については良しとすべきか。
御霊の書き換えが終わり、透明の膜、その覆いが閉じる。
「「祝えや祝え沸き起これ」」
神の眷属、亜神とも称される存在が産み出される際の言祝ぎを同時に発した。
彼女は犯人はお前か、とばかりに此方を見る。驚いたのは此方だと言うのに。自身にしても師より教えられた作法をなぞっただけに過ぎない。
彼女が知っている筈は無い、困惑顔がその証拠だ。何故かは分からない。御霊との関係なのか、それとも他の何かなのか。
今後の優先確認事項として設定すべきかは後で考える事にし、言祝ぎを続ける。
「「此方に来やれ疾く来やれ」」
「「あまつち、かぜはや、あそびける」」
無事に言祝ぎを紡ぎきる事が出来、義母を包む覆いが半透明から乳白色に変化して行く。亜神の誕生などに立ち会ったことなどは無いので、これが正常なのかは分からないが。
御霊が彼女のペンダントに収まって行くのを見るに、問題は無さそうだ。
「ちょっとッッ! 八尋!」
身体から力が失しなわれ、膝から崩れ落ちる。素早く反応した彼女の腕に受け止められた。
血を流しすぎたせいで意識が遠のいて行く。




