二十五 〜外法咒式 三〜
八尋視点
「了解、んじゃドアの前で見張ってるから、あと宜しくー」
ドアが閉まる音がこれほど心強い事はあっただろうか。彼女なら何が来たとしてもこの扉を守り切ってくれる筈。
まだ短い付き合いだが、彼女の強さ、そして優しさは充分に理解してきた。例えどんな敵が来たとしても殺さず、心根が曲がっていれば打ち据え、延ばし、正す。倒れ伏す者がいれば助け、見守り……先程彼女が解いてくれた右の掌を見る。
暖かく優しい感触に気恥ずかしさを覚えた事を思い出す。だが、何より励まされた。今日の事が終われば彼女には全て伝えようと思う。
上手く出来るだろうか……言葉にまでは出ないが、迷いとも取れる心の動きを感じる。義母に取り憑いた物をどうにか出来る時間とその間、義母の体力が果たして持つのか……
これ以上大事なものを失うことは許容し難い。もしそうなれば、力に呑まれず自己を保っていられる自信は一欠片も無い。これ以上何を耐えろと言うのか。調停者とはつまり、世界を維持する為の奴隷だ。その事に不満は無い、だがせめて報いが欲しい。これは求めるその一つ。
「八尋坊ちゃん……」
早くに父を無くし自分をずっと支えてくれた、もはや父とも呼べる人から声が掛かる。考えこんでいたせいで心配をかけたようだ。
「篠塚さん、私はもう二十八歳になります、こそばゆいので坊ちゃんは勘弁して頂きたいのですが……」
だが立つ事も出来ない時から自分を知っていては、何歳になろうと坊やのままだろうなとも思う。そして、そんな人が自分にはまだ居てくれるという事が嬉しくもある。
「これは申し訳ない。室長、いえ専務とお呼びすべきでしょうか」
「八尋とお呼び下さい。二十歳になった時からお願いしているのに、貴方は私の父同然なのですから」
「大恩ある貴方のお父上をお守りする事も出来ず、貴方自身の危機も防ぐ事が出来ぬ老ぼれを父などと……」
「卑下される事は何もありません、貴方が私を守ろうと行動した結果、父の残した会社は存続し、私が受け継ぐ事になったのですから……」
「坊ちゃん……! すみません、癖でまた……そう仰って頂けただけでもう爺は満足でございます、私はこの一件が終われば田舎に引っ込みまする、もう老ぼれの出番は終わりました」
「まだまだ私では務まりなどはしません、支えが必要です」
「そこまで仰って頂けるとは……微力ながらお支え致します」
帰ってきた答えに深い謝意を込め頷きで返す。いつまでも甘える訳にはいかないと分かっていても、どうしても頼ってしまう。
だが此処からは己の力で乗り越えねばならぬ領域。仙術の神髄ここにありと披露出来るような少々手の込んだ術式を組む。符術は問題ない。問題なのは術式対象の体力だ。
義母を部屋の中央へ仰向けにし寝かせる。先程の術が解け始めている。急ぎ次の準備に取り掛かる。
「玄武、北の守護、門を放ち、定め守る限りの約にて現れたまへ」
印を結び神獣を呼ぶーー神獣を呼べるという事は仙人である証でもあるーー義母の中に巣食う咒式は精神に同化している。
無策で身体から引き剥がせば義母の精神も体外に出る事になり、意思を無くした人形が一つ出来上がってしまう。神獣の力が必要だ。
「いよいよ本番か。八尋よ」
「ああ、今日、この時が俺の視た未来の特異点だ」
空間がほつれ、異界ーー現世とは位相の違う空間ーーその中からのそりと首を出し神獣玄武が問いかけてくる。玄武とは長い付き合いだ。いつからか言葉使いも友人に接するそれになっている。
「玄武様、宜しくお願い致します」
「篠塚の任せておけ。後程、祝杯じゃ。用意を頼むぞ」
篠塚さんとも仲が良いどころでは無い。毎夜とはいかないが結構な頻度で晩酌を共にしている。
「よっこいしょ。異界におると眠くなって叶わん。もういっその事ずっと出しとってくれんかのぉ?」
「姿を一般人には見せない様にする事、無理なら身体のサイズを今の人間大のサイズから掌に収まる程度に……顔が龍に似た亀は目立つな。やはり姿は隠してくれ。それと絶対に喋らない事」
「姿やら大きさはどうとでもなるが喋るなというのは、そりゃ無理じゃ」
「今は我慢してくれ。対価と言う訳では無いが新鮮な鶏肉を用意しよう。それで収めてくれ、烏骨鶏でどうだ? よし決まりだ。時間があまり無い、始めよう」
「腿肉を塩焼きじゃからな。では……そこのおなごを儂の神気と龍門で覆う。一時的にじゃが肉体は強化され、腕が捥げた程度では死なんくなる。精神的にも儂に繋がるから咒式にも嫌がらせになるじゃろ」
玄武の神気が亀甲紋様となり、甲羅のすぐ上の宙を廻る。十数個にまで増えたその連なりが義母と玄武を結ぶ様に繋がっていく、繋がりを強固にするにはゆっくりと馴染ませる必要がある。
その間に咒式を義母から剥がす為に必要な術式を符術で構築していき、札として出来上がったそれを義母の身体に貼り付けて行く。
……今現在Aのルートを通って居て分岐点に差し掛かった状態だ。次のルートは無数にあり、どのルートを選んでも少し先の分岐点に収束する。
ここまでは良くある事だ、未来の変化と収束を現している。問題は義母を救うルートの場合、この先の分岐点から先が視えない。他のルートでは義母が居らず……だが未来は確定的となる。
そしてその未来は世界にとってそれほど悪くは無い。言い方は悪いが一を犠牲に五から六は助かる様な、自分に取っては納得の行かないそんな未来。
この未来が視えないという現象は向井良子と言う規格外が作り出している様に思えてならない。彼女が関わると未来は変化する。だが良い結果を得れている。ならそれに賭けたい。
本来であれば調停者としてこの様な選択をとる事はあり得ない。安定した未来は平穏に繋がり、繁栄を産む。それを先が視えない不安定な未来にしようと言うのだから。
◇ ◇ ◇
「もういいのよ八尋くん……」
「真由美さん! お目覚めに?!」
玄武の術が始まって二十分程だろうか、術が完成する前に義母の目が開かれた。
「もう疲れたの……あの人が居なくなって、自分が自分で居られる時間も少なくなって、あの人の忘れ形見の貴方にも随分酷い事をした」
人格侵食タイプの咒式……二十一年前、僧正師でも完全には対処出来ず、本体の人格を隔離保護するしか無かった。
それも侵食の時間を伸ばすだけでいずれは食われる、だが一般的な寿命程度の時間なら確保出来ていた筈なのに。
咒式の行った行為も義母には記憶として残る、それが不味かった、罪の意識で精神が弱り、咒式の侵食が強まる。
この二年と半年で一気に侵食が進み、猶予はもう無いのだろう……表に出ている時間が半日以上あった義母の意識、人格は今は一日の内、一時間も無い。
「貴女に昔、作って頂いたコーヒーゼリー。あの味が忘れられなくて、今お店で出していましてね。食べに来て欲しいんです、再現度をチェックして頂かないと」
術式が安定しない。彼女自身が玄武の神気を拒絶している? 何故? ……咒式の抵抗か?
(八尋。不味いぞ、この女子はこのまま消えて無くなるつもりじゃ)
玄武から思念が飛んでくる、否定したいが現象としてはその通りで焦燥感だけが増していく。
「……ありがとう。何回か作っただけなのに覚えてくれてたのね。あれは、あの人に初めて会ったバイト先の喫茶店メニューなの」
「それは初めて聞きました……もっと父と、どんな話しをしたとか、何処へ行ったとかが聞きたいですね」
仰向けのまま、義母の顔がこちらを向く。彼女が意識を保っている時の顔だ。腹部を庇うような仕草?
「……この子ね、あの男に利用されてる」
(咒式人格の戯言と聞き流していたが、まさか本当なのか? 外道めっ! 胎児を贄にするとはっ)
「周防の子供を妊娠したんですね!!」
「そうみたいね……あんな男にいいようにされて……うぐっッッ!」
周防国親、二年半前から義母の周辺に現れた男。元、藤堂流……それだけでも怪しいどころか全ての事象はあの男に繋がると断定出来るのに、肝心な証拠は何一つ残さず、その身柄は何処にあるのかも掴めない。
あの姉弟子をして捕捉出来ないと言わしめた相手。
「真由美さん!」
全身を強ばらせ目を見開いたまま、彼女は宙に浮き始める。身体を保護する為にしか玄武の術式は作用しておらず、この現象は咒式によるモノだ。身体に貼り付けて置いた符札は次々と焼き切れて行く。
こちらからの問いかけに反応が無い、まるで咒式が次の段階の行動を起こそうとしている予兆に見える。
どうすればいい……咒式は今、義母の精神のみならず胎児とも既に融合しようとしている……。
「八尋……事情が変わったぞ? 手をこまねいておるなら儂がやる」
玄武の体高が四メートルを超すサイズに膨れ上がる。部屋の天井に届こうかという大きさ、これでもまだ本来の一割に満たないサイズではあるが。
契約者の了解が無い、制約を無視した動き、神獣であれば世界のあり様を変えるーー制約の無い力の解放などは彼等にとっては禁忌に近いーー事象は忌避する筈……それ以上の事態という事が否応にも知らされる。
「玄武! どうするつもりだ!」
「受胎転生などさせてはならん、かといってこの女子とやや子諸共にお前が始末する……などという事は出来んだろう?」
「他に何か手があるはず!」
受胎転生、神が本来の役目を失い悪神として産まれ変わる、若しくは、魔なる者として定められた存在が現世に堕ちてくる現象の事だが玄武は後者が起きると断定したという事か。
「今取れる手が無い。時間も迫っとる。だから儂がこうして出張ろうかという訳じゃ。それに外への意識が疎かになっておるぞ?」
外? 玄武の呆れにも似た溜息で、意識を外に向ける。これは……!
「何だこの大きな気勢は?!」
気付きと同時に声に従い部屋の大型モニターへ注意を向ける。社内で異常が発生した場合先ずは警備用ドローンが現場へ向かい映像を各部署へ流す。
映し出されていたのは、本社別棟高層階壁面に取り付く飛行物体。
「この機動兵装は……まさか機械仕掛けの悪魔か? 壁をくり抜いているのかこれは? 篠塚さん、社のデータベースで照合を、解析チームの立ち上げと録画の指示もお願いします。それと念の為、部屋の裏側から抜けて社長室へ退避を」
「承知しました。ご無事をお祈り致します」
後ろ姿を見送りながら何故未来がズレたかを考える。確かにこの相手が乱入してくる未来はあった。だがそれは婆娑羅に今日出会う限りは無かったパターンで、救う事を諦めたルートでしか出てこない筈。
「アレは神格を狩るモノらしいの。では儂狙いか? それともあの親子? はたまた目に映る者は皆殺しか?」
「良子さん……!」
幾ら彼女でもアレの相手は危険……だろうか? 世の総てを見たなどとは言えないが、彼女にはこれまでの物差しなどは通用しない事だけは分かる。
姉弟子は重火器の類すら生身で捌いた……弟子である彼女もまた……それに東王が居る。防御に専念すれば物理攻撃で抜かれる事は無いだろう。
「あの規格外の娘に任せるしか無い」
玄武はこれまでの戦闘全てを把握している、彼女に万が一が無いよう、常に側に異界を作り陰から見守って貰っていたからだ。
「どう見る?」
「手加減さえせねば完勝するじゃろうな」
神獣のお墨付きとあれば、安心出来る。
「未来視の結果とズレが出て動揺した。彼女なら大丈夫か」
「随分と信頼しておるの? 藤堂流なぞ、いつ敵に回るかわからんぞ? ここ二十年程度は大人しくしておるが、あ奴らは元来我らとは相容れぬ」
「彼女に討たれるような事があれば、俺に道理も大義も無いと言う事だ、寧ろ本望だな」
冗談めかして言ったつもりだが、僅かに含まれた本音を捉えられたようだ。玄武の目が細まり、深い呼吸を一つ……怒りや呆れを覚えた時の仕草だ。今のは呆れに近いか。
「それについてはコレをどうするか決めて、事が終わった後に再度話し合うとするか、それか……まあ良い、流れ弾が来ては敵わん、一旦、異界に入るぞ」
玄武から冷気が放たれる。辺りが静寂に包まれ、空間が色褪せていく、この部屋が玄武の作り出した異界に入った証だ。
異界に入り位相をずらし現世と切り離す、外部からの干渉は術者の同意がない限りほぼ不可能だ。この部屋はひとまず安全と言える。
外の様子は玄武にしか分からない。彼女であれば無事切り抜けるという玄武の判断を信用するしか無い。
「後どれくらい時間があると?」
「一刻もないのぉ……四半刻かそれ以下か……それ以上だと恐らく受肉が進み腹を破って出てくるじゃろうな、そんなレベルまで育てば儂が相打ち覚悟で討てるかどうかじゃ」
「五分くれ。考える」
……もはや丁寧に咒式と義母を分離している時間は無い、彼女ごと封印する? 駄目だ、何ら解決にならない。
分離……物理的に? たとえ胴体が無くなったとしても仙術で生命維持は出来る、これしか無いのか? 彼女は自身はあくまで一般人……胴体が無くなってショック症状でそのまま死んでしまうというのは充分過ぎるほど考えられる。
それを考慮して安全に分離する為の術式に掛かる時間を短縮出来たとしても時間は必要だ。その時間で彼女への負担が増し死に至る……いや、その前に受肉が完了してしまうか。
何か、何かないのか……良子さんに咒式の排出をお願いする? ダメだ、咒式と胎児は一体化していて、受肉は始まってしまった……どんな挙動になるか想像出来ない、それにまだ外では闘いが。
「何か無いのか……!」
自身を叱咤しもう一度思考を回す。このままでは神獣である玄武すら凌駕する存在が魔として産まれる? まて……母体、咒式、胎児、契約として成立出来ないか?!
一条の光明が指す、これに賭けるしか無い。




