糸崎食卓
絵本を読み出してから小一時間ほどが経過した。
内容が全く頭に入ってこないまま1冊目を読了し、2冊目に突入した頃だった。
「コンコン」
後ろのドアからノックが聞こえる。
「はぁい」と返事をするよりも先に、ドアを開けられる。
父さんは家にいないし、姉貴もついさっき家を出て行ったばかりであるため、ノックをする人間は1人しか思い当たらない。
「水井ちゃん。もし良かったら——、あららぁ~♪」
母さんが言い終えるよりも先に俺と水井さんとの距離感にニヤァと口が裂けんばかりの笑みを浮かべる。
絶対に何か誤解している。
いや確かに誤解されてもしょうがない状態に今俺はいるが、母さんが想像していることは全くの誤解であり勘違いである。
母さんの登場に流石の水井さんも引っ付き虫のような状態を解かずにはいられないようで、名残惜しさを感じさせながらも少しだけ俺と距離を置く。
「ごめんねぇ、お邪魔だったかしら?」
「いえ、そんなことは」
水井さんはそう返すものの、表情は少しばかり曇っていた。
「それで、どうしたのさ。母さん」
来客が来ているというのに用事もなく部屋に来るはずもないだろう。
何かしらの用件があって部屋に入って来たに違いない。
「そろそろお昼時でしょ? 良かったら水井ちゃんも一緒にご飯食べていかないかなって」
ああ、そういえばもうそんな時間か。
部屋の時計を見ると二本の時針と分針は一本の線となっていた。時刻は十二時半である。
言われて見れば空腹感がなくもない。
今日はまだ日課のランニングをしていないため、それほど食欲に駆られてはいなくても、時間が経てば腹は減るものだ。
水井さんの家が何処にあるかは知らないが、この時間帯ならもううちで食べて行った方がいいかもしれないな。
「そうだね、せっかくだから水井さんも家で食べていかない?」
もちろん彼女が良ければの話だがな。
もしかしたらお昼は自宅で食べるように家の人に言われているかもしれないからな。
「翔くんがそう言うなら、お言葉に甘えちゃおっかな」
そのことを考慮しての問いだったのだが、彼女は二つ返事で了承する。
俺としても友達と食卓を囲めるという初めての体験ができることはこの上なく嬉しいことだ。
願ったり叶ったりである。
「じゃあ決まりねっ。もう大体用意できているから下に来て頂戴」
「うん」「はい、わかりました」
言われてすぐに俺と水井さんは腰を上げる。
「ただいまー」
俺と水井さんが下に降りるのとほぼ同時に不幸にも散歩に出かけていた姉貴が帰ってきた。
しかも廊下でばったり遭遇。
「げっ、まだいんのかよ」
俺らの顔を見るなり姉貴は眉間にしわを寄せて愚痴をこぼす。
「おい、お客さんの水井さんに失礼だろうが」
「こいつじゃなくてテメェに言ったんだよ愚弟」
どのみち客をコイツ呼ばわりする時点で失礼だ。
「俺はいて当たり前だろ。俺んちなんだから」
「知ったことか今すぐどっか行けよ。もしくは土に帰れ」
「そういう姉貴こそ野生の群れに帰れよ」
「あ゛?」
「あ゛?」
お互い内から沸々と怒りがこみ上げ、爆発寸前でメンチを切り合う。
顔を合わせれば喧嘩ばかり。
しかし今日は目の前に水井さんがいるということもあって感情を抑制しているのか、姉貴は一度大きく舌打ちをしてからリビングのソファに寝転がる。
俺も水井さんの前で大喧嘩しようとするほど自制心は脆くない。
いがみ合うだけで事は済んだ。
一方の母さんは着々と食事の用意を進めていく。
パチパチという油が跳ねる音と、香ばしい醤油の香りからして今日の昼飯は唐揚げか。
「あっ、よければ私も食事の用意手伝います」
そんなキッチンの様子を見た水井さんは率先して母さんの手伝いに名乗りを上げる。
「あらいいのよ、水井ちゃん。お客さんなんだからゆっくりしていて」
「いえ、ただでお世話になるのも申し訳ないのでやらせてください」
「そう? じゃあ、食器を持ってきてくれるかしら」
あっさりと折れた母さんはそうお願いすると、水井さんは快く承る。
来客の彼女が手伝って、家の人間である俺が手伝わないというのはおかしなことだ。
ここは俺も手伝った方が良さそうだな。
そう思い立ち俺もキッチンへと向かう。
「おい愚弟」
リビングでくつろぐ姉貴に相も変わらぬ悪意混じりな呼び止め方をされる。
さっきいがみ合ったばかりだというのに性懲りもなくまた話しかけてくるとは。
まあ今このタイミングで話しかけてくるということは今キッチンにいる水井さん絡みのことだろう。
「なんだよ」
「お前、アイツと友達なのかよ」
「まあ、そうだけど」
「今まで友達一人いなかったお前がか?」
「なんだよ悪いかよ」
「……別に。ただ変だと思っただけだ」
よくよく考えてみれば俺みたいなのが水井さんとこうして仲良くなることは傍から見れば不自然なことだ。
片や俺は冴えない奴、片や彼女はクラスの人気者。
絵本趣味の秘密を共有しているという事情を知らない人間が見れば、俺と彼女が仲良くしていることを不釣り合いに感じるのは至極当然のことだ。
水井さんが俺に必要以上と言っていいほど仲良くする真意をまだ掴めていないというのも相まって、劣等感やら不信感やらで胸がモヤモヤする。
「なんかお前、最近変だよな。色々とさ」
「……それは――」
「ただいまぁ」
ガチャという鍵が開く音と同時に父さんが帰ってきた。
そういえば上司とのゴルフ会は午前中に終わると言っていたな。
「ん? 誰か来てるのかな?」
玄関に見知らぬ靴があり、父さんは来客の存在を勘づく。
廊下を歩く音が徐々に近づいていき、リビングに姿を現した父さんは真っ先に来客である水井さんに視線を向ける。
「お邪魔しています。水井ヒメです」
「えっとぉ、もしかして翔のお友達?」
「……ええ、今はそのような者です」
水井さんの肯定に父さんは目を丸くする。
母さんとはまた違うリアクションだが、俺に友達がいるということに驚いているのは共通のようだ。
俺ってそんなに家族からはボッチとして見られているのか? つい最近までボッチだったのは事実なんだけどさ。
「いやぁ、まさか翔がお友達を連れてくるなんてなぁ。いつも翔がお世話になっているね」
驚きはしていたもののすぐにいつも通りの穏やかな笑顔に戻った父さんは、水井さんと目線を合わせるように膝に手をついて中腰になり俺としては少々お節介にも感じられることを言う。
「いえ、私の方こそ翔くんのお世話になっています。お義父様」
「お父様だなんて、なんだかそう呼ばれるのはこそばゆいな。ハハハ」
父さんは小恥ずかしさを誤魔化すように微笑む。
「ほらアナタ、もう少しでご飯できるんだから早くシャワー浴びてきて」
「ああ、うん。わかったよ」
母さんの指示を受けると父さんはお風呂場へと向かう。
炎天下とまではいかずともそれなりの高気温を記録している今日に野外で運動をしたのだから、そのまま食卓に着くというのはいささか不衛生な行いだ。
何よりお客さんがいる前だからな。
◆
「「「「「いただきます」」」」」
父が軽くシャワーを浴び終えて食卓をいつもとは一人多い人数で囲み、全員が手を合わせてから箸を持つ。
来客用のために物置の奥から引っ張り出してきた椅子を俺の左隣に置き、水井さんにはそこに座ってもらった。
食卓の上には五人前の味噌汁と白米、あとは大皿に山盛りに乗った唐揚げとサラダが並んでいる。
「………」
「……? どうかしたの?」
母さんや姉貴たちが箸で大皿から唐揚げやサラダを取っていく中、水井さんは少し困惑した表情で食卓に並んだ料理を眺めており、それを見た俺がそう尋ねてみる。
「私の家ではあまりこういう食べ方はしなくて……」
「ああ、そういうことだったんだね」
うちでは大皿に乗ったメイン料理を個々で取り皿によそっていくというのが主な食事スタイルである。
きっと水井家では一人ずつ分けられたものが主流なのだろう。
それならウチの食べ方に違和感があってもおかしくはないか。
中には大皿から個々に取っていくというのに抵抗がある人間もいるらしいし、どうやら配慮が足りなかったようだな。
「なんなら最初に水井さんの分だけ個別によそおうか」
予め彼女の分だけよそっておけばよい話であるため、そう提案する。
「ううん、新鮮に思っただけだから大丈夫——」
首を横に振りかけていた彼女が言いかけた言葉を途中でやめる。
「……」
そして少しの沈黙の後、再び口を開く。
「やっぱりお願いしてもいい?」
「え、うん。もちろん」
さっきの間は一体何だったんだ?
「じゃあ唐揚げをよそってもらってもいいかな」
「うん」
自分の箸は既に口を付けてしまったので水井さんの箸を借りて、彼女の取り皿に唐揚げをよそう。
別に彼女が自身でよそってもいいのだが、ここは配慮の足りなかった俺がよそうのが礼儀というものだろう。
「サラダもいい?」
「はいはいっ」
サラダもよそう。
「ドレッシング取ってくれる?」
「はいはいっ」
サラダドレッシングを手渡す。
「飲み物もお願いしていいかな?」
「はいはいっ」
コップにお茶を注ぐ。
「じゃあ食べさせて♪」
「はいはいっ」
箸で唐揚げを持って彼女の口に運ぶ——。
「って、そこまではしないから」
口を開けてスタンバイしていた彼女の口に唐揚げが運び込まれることなく、俺がギリギリのところで手を引っ込める。
あまりに自然に要求されたため、何の疑問も抱かずに従ってしまいそうになった。
水井さんは残念そうに小さな口をすぼめる。
「ふふふっ、いいじゃない翔。それくらいしてあげても」
俺の前に座る母が微笑ましそうに茶化す。
「いやそれくらいって」
見ている側の母さんにとってその程度かもしれないが、やってあげる側の俺はものすごく恥ずかしいんだぞ。
二人っきりならまだしも、家族の前でなんて恥ずかしさ倍増どころじゃない。
「私はやんない方がいいと思う。キモイし。愚弟が」
「あ? なんだとやんのかクソ姉貴」
「は? 上等だよクソ愚弟」
俺の斜め前に座っている姉貴と食卓テーブルを跨いで喧嘩が勃発する。
「あんたたちやめなさい! お客さんの前でしょ!」
すかさず母さんが仲裁に入るも、本日三度目となればお互い怒りへのブレーキが利きづらくなっている。
仏の顔も三度まで、翔の顔も二度までと、相場が決まっているのだ!
「ご、ごめんね、水井ちゃん。騒がしい家で」
机を挟んで喧嘩する二人とそれを止める母さんを他所に、俺の右隣に座る父さんが水井さんに申し訳なさそうに笑う。
「いえ、私の家は物静かな方なので、こういう沢山おしゃべりしている食事は新しくて、——楽しいです」
父さんとの間に俺を隔てた状況で、お世辞なのか本音なのか彼女はそんなことを口にする。
「そうかい? なら今日一日は家に泊まって糸崎家を体験してみるかい?」
ほとんど冗談のつもりで父さんはそう口走る。
実際はいくら小学生とは言え、男の子の家に女の子が泊まるというのは相手側の親としてはいささか容認し難いことのはずだ。
それに保護者間の事情だってある。
両親間で全く面識がないというのに、そこにご厄介になるというのも
また難しい話である。
本来なら子供の一存で決められることではない。
父さんだって断られる前提でそう言ったに違いない。のだが——。
「はいっ、お願いします!」
「え?」
水井さんは食いつき気味に願い出る。
まさかお願いされるとは思っていなかった父さんは豆鉄砲をくらった鳩のような顔をする。
「いやでも、ご両親とか——」
「私が電話で話しますので大丈夫です」
「しかし泊まる用意だってしてきてないだろうし——」
「こういうこともあろうかと着替えは持ってきています」
「けど寝る場所も確保しなきゃいけなくて——」
「翔くんの部屋で翔くんと一緒に寝るので大丈夫です」
「……」
「大丈夫ですっ」
穏やかな笑みで断言する。
ここまで言い返されてしまうと、特に若干気の弱いところのある父さんは、
「——じゃ、じゃあ、別にいいか」
簡単に押し切られてしまう。
こうして俺が姉貴と未だに喧嘩をしている最中、知らぬ間に水井さんの宿泊が決まった。
姉に対する批判がとにかく多かったので、ちょっとだけ改善しました。
姉のキャラ設定等々は今後思案していく予定です。




