第一話 捨てられ孤竜と水の精霊
「もういいや、お前もうクビね」
疲れ果てて焦土に倒れた私に、勇者様は呆れた様子でそう言い放った。
私は霞む視界で彼の冷え切った朱色の双眸を見返すと、立ち上がるために前足の爪を地面に食い込ませる。
『ご、ごめんなさい……』
噛み合わせた牙を軋ませながら力を入れるものの、うつ伏せの状態からぴくりとも動くことが出来ない。鈍った嗅覚は土埃の匂いばかり感じ、水中のような聴覚は複数の足音と声をとらえた。
「またぶっ倒れたのかよ。橙に黒色の鱗模様、確かにヴァルキリ種だと思ったんだがなあ」
「フォルコ、どうせ飛べないんだし翼でも切り落として身軽にしてあげたら?」
「ちょ、ちょっと皆さん……少し休みませんか」
人語は理解できるはずなのに、意識が朦朧としてよくわからない。最後に食べ物を口にしたのがいつだったか覚えてないし、夜通しの見張りは今日で何日連続だろうか。
いくらドラゴンとはいえ、私の身体はとっくに限界を超えていたのだと本能的に感じた。
「上級竜種だから拾って育ててやったのに、戦闘は雑魚、荷物運びも出来ないし話にならないんだけど」
勇者様は苛ついた様子で私に括っていた四人分の荷物を外していく。
普段なら殴る蹴るの暴行や罵倒で済まされるが、今回の一見大人しい彼の様子は逆に恐ろしかった。
「しょうがない、トゥオノ、ヴィーナで荷物持ちだ」
「は? なんでコイツの代わりをあたしがすんのよ。ヴィーナよろしくう」
「わ、わかりました」
それから私の鞍や竜具も乱暴に取り外され、久しぶりに私の全身が陽の元に曝される。
いくらか身体が軽くなって呼吸も落ち着いたところで、金属の擦れる高い音が枯れた森に響いた。
「フォルコお前、マジで翼切り落とすのか?」
「馬鹿言えムリネロ。もうこんな役立たずに構う暇なんてない」
震える四肢でようやく立ち上がった私の首元に、勇者様は感情の消えた顔で剣の切っ先をあてがった。
彼の全身から漏れる殺気。僅かに残った私の野生が、本気で切るつもりだと教えてくれる。
「地獄で親と逢えるといいな」
次の瞬間、彼の手に持つ銀が一閃。
右頬から左胸あたりまで熱さを感じたかと思うと、鮮やかな赤が勇者様の髪や瞳の色と同化しながら舞い落ちていく。
「おいおいマジかよあいつ」
「うわっ、フォルコったら相変わらず容赦ないわね」
「ひどい……」
私は力なくその場に倒れ伏した。不思議とそこまで痛みは感じない。
勇者一行はしばらく動揺や同情の気配があったが、勇者様の一声でやがて私から目を逸らし先へと進み始めた。
ああ、私がもっと役に立てたなら、あるいは彼が豹変することはなかったかもしれない。
私は近くの枯れ木まで這いより背中を預けると、日が暮れて藍色が染み出した空をぼんやりと眺める。
私がまだ小さいころ、人間と竜との激しい戦争により状況の苦しくなった竜側では、仔竜を育てられる余裕など無くなっていった。もちろん私も例外でなく、戦力にならないとして両親から見捨てられた。
そうして孤竜となってあてもなく彷徨っていた私を、まだ優しかった勇者様に拾われた。
だから、彼は私の命の恩人であるのだ。たとえ二か月前から徐々にその様子がおかしくなっていったとしても、私は親から唯一教えてもらった竜の尊厳により恩を忘れまいと尽くしてきた。
だけど……こんな使い捨てのような最期など、到底納得できるはずないじゃないか。
悔しい。久しぶりの感情だった。私は何もできなかったというのか、こんなに辛い思いをしたのに。
鉄の味のする嗚咽と共に涙を溢れさせていると、ふと地面が緑色に輝いているのが見えた。そこでは私から零れた鮮血が枯れ草に触れ、緑が蘇っているように見えた。
何か、幻覚の類だろう。ここは大厄災によって緑が絶えた汚染地域なのだから。
目を閉じれば、確かな闇が私を包んでいくのが分かった。
これが、死か。
今までのことを思えば、さして苦しくはなかった。
△ ▽ △
意識がふわりと浮き上がってくる。
熟睡から目覚めるような、そんな心地よい覚醒。目を開けると、そこは私の周囲だけ緑が芽吹いた枯れ木の森のままだった。
『……私、まだ、生きてるの?』
少し鈍い身体で立ち上がると、これは確かに琥珀の鱗に覆われた私の身体。さらに胸の傷は傷跡を残して殆ど治っていた。
まさか、傷は致命傷だったし衰弱した私にとっては即死でもおかしくない状態だったはずだ。
一体何が||
『やっと目を覚ましたんだね!』
困惑する私の背後から突然、幼い男の子の声が聞こえてきた。そこには緑と同様に蘇った綺麗な湖の水面、蛇のような形の光がある。
すっかり闇に落ちた枯れ木の森の中、私の周りだけ生い茂った緑に彼の光がぼんやりと広がって凄く綺麗だった。
『あ、あなたは?』
『僕は水の竜脈の精霊、ラヴィだよ! 君がセントラルヴェインを蘇らせたお陰で力を取り戻して、君の怪我も治してあげることが出来たんだ』
光の蛇、もといラヴィは元気に答えるが、聞き覚えのない単語と身に覚えのない感謝によりさらに混乱する。
『セントラル、何だって? それに私は何もしてないよ』
『セントラルヴェインだよ。世界の生命力の源である竜気を運ぶ、大地の血管みたいなものさ』
ラヴィが蛇の身体をくねらせて木の幹を這うと、そこに緑色の光の筋が表れて地面へと枝分かれしながら伸びていく。
私はその場に座って幹の竜脈に触れてみると、強く輝いた後に木の葉の緑がより鮮やかになった気がした。
『今から二月前、世界の竜気のバランスが崩れて大規模なヴェインの閉鎖が起こったんだ』
『じゃあ生命力の源が途絶えるから、緑が枯れ水が淀む……私たちが大厄災って呼んでる現象よね』
『その通り。理解が早くて凄いや。それで、ヴェインの閉鎖は各地に伝播して世界は急速に死へと向かっているんだ』
僕たちにはそれを止める義務がある、と彼は続けたが、その声はやや落ち込んでいるように聞こえた。
『……じゃあ、どうしてここは緑が蘇ったの?』
『それは、君の力さ』
光の蛇はピッと尻尾で私の方を指して言う。
リカバリドラゴン? 聞いたことがない竜種だ、私は上位竜種のヴァルキリ種と呼ばれていたはずだったが。
『偶然にも君の血に含まれる竜気がこのあたりのヴェインを蘇らせたんだ。リカバリドラゴンはヴェインの再生を行う貴重な竜で、今の世界にとって希望となるドラゴンなんだ。僕たち精霊は、君のような存在を待っていたんだ』
全体像の把握できない説明に、私はとりあえず話を聞くことに専念する。
だが、少し嫌な予感がしてきたのは気のせいだろうか。
『僕たち精霊は世界の中枢であるセントラルヴェインの維持が役割なんだけど、大きな異変が起きた時に直接操作できるほどの力はないんだ。でも、リカバリドラゴンはヴェインから多くの竜気を得る代わりに、ヴェインを再び蘇らせる力と責任を持つ』
『つまり、私は大厄災を止めないといけないってわけね?』
『そういうこと。どうかお願いしたい、僕も持てる全てを使って君の力になるからさ』
私の目の前までやってきたラヴィは、光る蛇の頭を下げてお願いしてくる。
昔からそうだ、私の予感は当たりやすい。
『ごめんね、世界とかよく分からないけど、私は力になれそうにないかな』
『えっ、どうして!?』
私の発言にラヴィは驚いたように飛び上がって、動揺しているのかその蛇体の光を明滅させる。
私は居心地の悪さを感じて、枯れ木の森の闇に意味もなく視線を泳がせた。
『私を助けてくれたのには感謝してる。でも、私じゃあ役に立てないと思うよ、そんな重要な役割』
勇者様の時と一緒だ。私は助けられても、何も返せない。
私の恩を返そうとする行動で彼がおかしくなってしまったのなら、私のそれは私の自己満足なのではないか。
私は賢いから、同じ過ちは繰り返さない。どうせ傷つける結果になってしまうのなら、最初からかかわらない方がいいんだ。
『そ、そんな……。十年前、ヴェインを管理できるドラゴンの数は極端に減ってしまった。それからずっと待ち続けて、ようやく君が現れたのに』
『そんなこと、私に言われても困るよ。私は、親に捨てられてドラゴンの常識も知らないし、さっき人間にも捨てられた。もう私に居場所なんて、ないよ』
ラヴィに、私は目を背けるように後ろを向いた。
本当は、自分で自分の感情がどうなっているのかよく分からなかった。声が震えて今にも泣きだしそうだが、私は形だけでもドラゴンだ。竜の尊厳は、守らなければならない。
『わかったよ、君がそう言うなら』
彼の小さな声は、私の背中に深く突き刺さった。
遅かれ早かれ私は彼を傷つけることになるのなら、ここから立ち去ってしまえ。そう心に何度呼び掛けても、私の足は一歩たりとも動かなかった。
私の居場所はない、ならば、ここから立ち去ってどうする?
どこかで野垂れ死ぬのか? 何もせずに?
私はただ、私が傷つくのを恐れているだけじゃないのか?
ガサッ||!
その時、至近距離の茂みから突然何かが飛び出してきた。灰の毛皮に覆われた一抱えほどの大きさの身体に、額には黒色のツノが一本。
『汚染シンリンオオカミ! 全然気が付かなかったっ』
私の首に噛みつかんと大顎を開けて飛び込んでくるそいつを、私はなんとか身体全体で抱きかかえるようにして受け止める。牙は狙いを逸れて私の右腕を捉え、鱗のおかげであまり食い込まなかった。
だが、単体じゃない。私の聴覚は他に複数の物音を拾っていた。
『うわっ!』
『ラヴィ!?』
幼い悲鳴に反射的に後ろを振り返ると、同じく光の蛇に飛び掛かろうとする二体の汚染シンリンオオカミが見えた。
『このっ!』
私は大きく右腕を振るい、噛みついていたオオカミをラヴィを襲う一匹へと投げつけた。それから大きく踏み込んで、もう一匹に渾身の体当たりをお見舞いする。
オオカミと一緒に枯れ木に激突し、乾いた音と地響きが酷く頭の底まで響いた。
『君、戦うのが苦手なんだね。逃げなよ! 他にもいっぱいいるよ!』
『はあ、はあ、うるさいな! 私だって必死なの!』
私は背後から飛び出してきた一体を翼で押し返すが、横腹と正面からさらに別のオオカミが肉薄する。
数が多すぎる上に、私の攻撃も決定打になり得ない。このままじゃあまずい。
『ラヴィ! 力を貸して!』
『あ、でも……わ、わかった!』
私が叫ぶと、光の蛇は細かい粒子となって私の身体に吸い込まれていく。
『いいよ。やってあげる。どうせ私に居場所なんてないんだから!』
全身に力が漲り、走馬灯のように近接格闘の身体の動かし方が脳裏に浮かんでは消える。
私は本能に従って身体を捻り、左足を軸とした渾身の尻尾で確実にオオカミの頸を打ち抜いた。さらにその一撃は正面の一体まで巻き込み、遠くに転がった二体はピクリと身体を震わせて事切れた。
『かかってこい! 私が相手だっ!』
世界の再建なんて大層な責任なんて、今は知らない。
ただ、もしかしたら、ここでなら私も役に立てるかもしれない。そんな淡い期待があるだけだった。






