白と灰。
闇のなかに、満開の桜。
一瞬の混乱は、すぐに正体にかき消された。
「…黒河…」
床に倒れ伏した黒い衣装の女の長身の上に、あざやかな桜模様の色留め袖がかかっていた。その向こうには、寝台に腰掛けた灰色の男。
「…灰原、閣下」
「白峰中将の令息か」
座っている姿もやっとといった風情の男は、暗殺者を目の前にしても一部の動揺も見せない。白髪の多い頭をゆるりと傾げた。
「君ひとりかね。御同輩は?」
「下で待たせている」
嘘をつく必要も無し、正隆が答えると「そうか」と灰原は浅く首肯した。
「すまないがこれをそこの長椅子に運んではくれまいか。そう警戒せずともいい、この場には私と君しかいない」
「これ」。櫻子をもののように言われ、正隆の脳が沸騰する。怒りを力づくで押さえつけ、正隆は櫻子を抱きあげた。櫻子の青白い瞼は閉じられ、正隆が衝撃を受けた鉱物じみた黒い瞳は完全に隠されている。そうすると、学生時代に慣れ親しんだ気さくな櫻子が思い出されて胸が痛くなる。回顧するのは、その時代が自分にとってほんとうに美しく輝かしかったからだ。
正隆が櫻子を長椅子に横たえるさまを、灰原はじっと見ていた。
「…そこがそれの定位置でね」
「彼女は物ではありません!黒河櫻子という名があります!!」
戸籍上は「灰原櫻子」だということを忘れ、正隆は声を荒げていた。正隆の目に、耳に届く灰原の櫻子への扱いはほんとうにひどいものだった。彼女が大切にされているのは「犬」として「手駒」としての能力だけ。そこに櫻子の人格は無かった。
肩を怒らせる若い将校を、やはり灰原は温度の感じられない目で見ている。透徹しきった飴色の双眸は、もはや人間のそれとは思えなかった。この目だ。この目で見られると、自分のいちばん深い場所まで暴かれ、さらされた気になる。ひるんだ己を恥じ、正隆は顎をあげた。
観察するように正隆を眺めていた灰原が、ややあって白茶けた唇をうすく開いた。
「…父君の、…白峰中将の事は残念だった」
正隆の鳶色の双眸がおおきく見開かれる。
正隆の父、白峰中将は国と軍を憂い、諌める為、自ら腹を切った。介錯もつけず、たった独り。上層部からは信頼を、下の者からは畏怖と同時に敬愛されていた軍人の抗議の切腹に軍の―――特に若い者たちには衝撃が走った。白峰中将が現状を嘆き、変化を願って投じた一石は、息子である正隆をおおきなうねりへと呑み込んだ。
今日まで手にかけた要人たちも、正隆を見ると助命のために父の死を惜しむ言葉を発した。それは正隆のなかに憤怒を呼び起こしただけ。凶行を後押ししただけだった。
だが灰原は違う。清廉な政治家である彼は真実、白峰中将を悼んでいる。だからこそ、なぜと問いたかった。
櫻子のそばには白い粉―――それを包んでいただろう紙が落ちていた。状況を見れば、あれが毒だとわかる。櫻子が灰原を置いて自ら死を選ぶなど考えられない。灰原が命じたのだ。櫻子に毒を飲め、と。
なぜ白峰中将の死を悼めて、櫻子に死ね、と命じられる。櫻子を物のように扱える。その命さえも!
―――正隆にとっては、どちらも大切な存在なのに!!
櫻子も櫻子だ。どうして拒絶しなかった。その場から逃げる事だってできたはずなのに!
「ぶれるなよ、これくらいで」
握りしめた拳を震わせる正隆に、灰原が冷ややかに言い放つ。
「感情に支配されるな。感情に走った時点で、君の行為は大義を失うぞ。…君と兄君がいるから、白峰中将は死という最終手段を採る事が出来たのだ」
正隆は息を呑んだ。灰原は知っているのか。正隆をはじめとした若手将校のクーデター、その裏に潜むものを。
ぶれるな、と言われたそばから動揺する正隆に嘆息し、灰原は黒檀の杖を支えにようよう立ち上がった。
「…閣下」
「今さら惜しむ命ではないよ。ただ、この場では勘弁していくれないか。…おおきな音をたてては、起きかねない」
灰原の目が長椅子の上の櫻子に向けられる。「もう死んでいる」。「冷たくなりはじめていた」。そう言いかけて、正隆は歯をきしらせる。
影で死神が大鎌を構えていても、素鼠色の背広をまとった男は端正な佇まいを崩さない。軍学校の入学式で、はじめてこの男を見た。同性の正隆でも見惚れる美丈夫に、多感な少女だった櫻子はどんな想いを抱いたのだろう。
ゆっくりと進んでいた灰原の足が止まる。長椅子の―――櫻子のとなりで。杖を握る肉の落ちた手に力がこもるのがわかった。
「…哀れなことをした」
前を向いたまま、ぽつりと灰原がつぶやいた。
「花が咲く前に摘み取った。…好きな場所で咲くことを許されていたのにな」
はじめて、灰原の瞳が揺れた。唇が上下したが声はない。
「灰原閣下」
唇の動きを読んだ正隆に、灰原はほんの少し困った顔をした。わずかに灰原をつつむ鉄壁がはがれ、そこからのぞいたものに不意に正隆は泣きたくなった。
なぜ、なぜそれを櫻子の前で―――…
「…君の目はほんとうによく見える。だが、すこし感情が大きすぎるな」
間近で聞いた正隆でなければ気付かなかっただろう、苦笑をひらめかせ、すれ違いざま灰原はこれから自分を殺す青年の背中を叩いた。
どこもかしこも病で蝕まれた人間の手など軽い。そのはずなのに、巌がぶつかったほどの衝撃を受け、正隆は息をつめた。
父が、そして灰原が背負ってきたものを身に感じ、正隆は震えそうになる膝を叱咤する。
それでも逃げる事は許されない。この身に流れる血が、誇りがそれを許さない。
灰原を追いかけ、正隆は足を進める。
扉を閉めれば、もう後戻りはできない。できるだけそっと、扉を閉める。
音で起きた櫻子が男ふたりの決意を止めようとすれば、灰原も自分も、言う事をきいてしまうだろうから。
誤字、脱字報告ありがとうございました。
何度も見直してるのにねえぇ―――…(ノД`)・゜・。