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白と黒。

天上には夜の帳が広がり、茫洋とした半月がやわらかく存在を主張している。


その下の屋敷は主人の性格を表したような無機質な印象で、国家の首脳の住まいとはとうてい思えない、飾り気の無いものだった。異国風の、ひたすら機能を追求した佇まいのなかで、庭に植えられた桜の木だけが例外だ。たくさんの蕾がいっせいに花開けば、それは見事なものだろう。


桜の枝の向こうの窓に、人影を見たのは気のせいか。正隆は軍帽の下の目を細める。


クーデターの最後の標的―――灰原卿の屋敷は静まりかえっており、人の気配が感じられない。銃を持つ手が冷たいままに汗ばむのが不快だ。


ちらりと視線を走らせれば、先ほどまで血のにおいと力に酔い、自分たちの手で国を変えるのだと意気込んでいた青年たちは薄闇の中でもはっきりとわかるほど表情を強張らせていた。


それもそうだ、と正隆は思う。灰原は国の為、大義の為と今日までに暗殺してきた軍、政府の有力者たちとは格が違う。彼を殺せば、真実、後戻りできなくなるのだ。


それから―――…


「…おまえたちは、ここで待て」


玄関ホールで正隆が命じると、同行してきた将校、下士官がぎょっと目を瞠った。


「白峰中尉。ですが灰原卿のそばには、灰原の番犬が…」


「だからだ」


反論を許さぬ口調でぴしゃりと言い置いて、正隆はひとり、正面の階段をあがりはじめた。ああは言ったものの、一歩一歩が地獄のあぎとへと近づいているような感覚に囚われる。


―――灰原の番犬。


喉奥で、ちいさく悲しく、正隆は嗤う。


「…ひどい言われようだな、我が友よ」



                                      *




正隆は代々続く軍人の家系だった。白峰家は父も兄も、祖父も、曽祖父も、男は軍学校に通い、みな軍人となり。女は男を支え、家を守る役目を負った。


正隆も例に漏れず15になった時に軍学校へ進み、そこで黒河櫻子と出会った。


崇高な理念も無く、腕っぷしに自信があるという理由だけで成り上がれると勘違いした者も多くいる。そういった連中は早々に教官たちからきつい指導・・を受けていたが、そうでなくても多感な男子が多数を占める閉鎖的空間。兄の時代とは違い、女子も軍学校への入学を許可されていたが、人数は圧倒的に少ない。数少ない女子たちは好奇や下卑た視線にさらされていたが、櫻子だけは別だった。


彼女は強かった。それも、異様なほどに。


貧困にあえぎ、絶えず暴力の脅威にさらされていたからか危機察知能力がたかく、身体は軽業師のように身軽。さらに膂力は同年代の男たちのそれをゆうに凌ぐ。天賦の才に加え、根拠の立証された訓練で磨かれた櫻子に、正面切って敵う者はいなかった。


すでに軍の役職に就いていた父は、その話を聞くと、ゆったりとうなずき「いるのだ」とつぶやいた。


「天に愛された、…とでもいうのだろうな。常人には理解できぬ、真似できぬ高みに最初から立っている者は、存在する。そのうえで慢心せず、さらに己を錬磨する者もな。だが、…」


父の言葉はそこで途切れた。待っていても続きはなく、鉄を宿したような鋭く強靭な光を放つ父の双眸は、あの時、息子ではなくほかの誰かを見ていた。


それからしばらくして、夏の休暇の際に父から櫻子を連れてくるよう命じられた。その時には櫻子は正隆のいちばん仲の良い級友になっていたが、異性を実家に連れて行くなど、なにか誤解が生まれるのではないか。しかし父の命令は絶対だ。正隆が赤と青のまだらになった顔で櫻子を誘うと、彼女は勝ち気そうな眉をひそめた。


「えぇー、あんたん、いいとこの軍人家系なんでしょ?あんたもすごいボンボンじゃん。やだよ、緊張するよ、気詰まりだよ」


…正隆の憂慮とはまったく別の場所で、櫻子は拒否してきた。そうだったな、おまえはそういう奴だ。男とか女とか、そんな目で俺を見ちゃいないよ、ああそうだった。ありがとう!それからボンボンでごめんね。そんな扱い一度もしてこなかったくせに、都合いいなぁ、おまえ!


そういう櫻子だから、正隆も腹蔵なく付き合ってこれたのだ。父の命令なのだ、と正直に言うと察してくれたらしい。櫻子はしぶしぶ首肯した。駅通りの和菓子屋の水羊羹と引き換えに。


緊張のため、気持ち輪郭が四角くなった櫻子をともない実家に帰ると、余所行きの笑みを張りつけた母が迎えてくれた。未成年の息子が若い娘と家の敷居をまたぐ事を良く思わない以上に、女は男をたて、尽くすもの、という考えが骨の髄まで沁みている。櫻子のように軍学校で男たちに交じり、時に圧倒する娘は母の許容を超えている。はっきり言えば、きらいなのだ。


横目で櫻子をうかがうと、真っ直ぐに相手を見る彼女の双眸は足下に固定されていた。唇は引き結ばれ、色を失っている。


ほんとうに申し訳ない気持ちになり、正隆が出来たのは櫻子をその場から連れ出す事だけ。子は親に従うもの。両親に歯向かうなど想像もできない正隆が、父の待つ客間に向かう途中でみじかく詫びると、櫻子はそれでも気丈に微笑み「いろんな考えのひとがいるから」と言ってくれた。


櫻子は悪意にも敵意にも強い。だが級友の母から、初対面であんな目で見られて虚心でいられるわけがない。正隆は父の命で頭がいっぱいで、母の事まで気が回らなかった。でも櫻子はこうなるとわかっていたのではないか。彼女は、敵には容赦しないが、いちど懐に入れた人間をとことん思いやり、気遣える為人だ。


正隆のなかに、徐々に母に対する怒りがわきあがる。櫻子が軍学校に来た理由も、彼女の振る舞いのおかげで正隆が「白峰中将の息子」という肩書きに縛られずにいれる事も、母は知らない。


台所で茶を準備する母の美しい横顔には、化粧の上から櫻子への侮蔑が塗りたくられていた。艶やかな紅を刷いた唇が、毒を吐く。


「お父さまのお言いつけだから仕方ないけれど、これきりにしてちょうだい。軍学校は女も受け入れ始めたというけれど、まともな娘はあんな場所には行きません。あんな子と懇意にしては、あなたも悪い噂をたてられかねないのよ?」


17年生きてきて、正隆ははじめて母に対して声を荒げた。女のくせにと言われないために、櫻子がどれだけの努力をしているか知りもしないのに、上っ面だけ見て―――、俺の親友を侮辱するな。


呆然とする母から茶をひったくり、正隆は客間へと向かった。悲しかった。母の気持ちは想像できる。物心つく以前からの教えと、息子が偏見の目にさらされてしまうのでは、という危惧もわかる。けれど、理解してほしかった。


櫻子は父が、そして自分がはじめて招いた友なのだから。


客間の櫻子はおおきな革張りのソファで居心地悪そうに縮こまっていた。向かいに座った父からの問いにしゃちほこばって答えながら、ずっと正隆を案じてくれる気配がして、それがまたひどく悲しく、申し訳なく。



夏の休暇を終えた白峰は、それから乞われても家に帰らず、寮で過ごした。



転機が訪れたのは、卒業間近。


ふたりきりの教室で、櫻子から結婚するのだと告げられた。好いた相手なら喜ばしいが、彼女の表情は暗くはないが、明るくもない。ただ戦地に向かう兵のような覚悟に満ちていた。


相手を聞いて正隆は二重に仰天した。あの(・・)灰原卿だという。櫻子とはそれこそ父子ほどの歳の差だ。政略結婚ならめずらしくもないが、櫻子が世話になっている叔父夫婦は不況のあおりを直接受けているような雇われ技師。


女たちがこっそり回し読む身分違いの恋を書いた浪漫小説ならばいい。だが正隆はすぐに灰原の思惑を看破した。


―――櫻子の能力だ。


女でなければ、と教官からも軍の人事部からも惜しまれる櫻子の身体能力と格闘術。灰原は雇用の「契約」ではなく、よりにもよって結婚という「支配」でもって櫻子を手に入れた。常に命を狙われている自身を守らせ、場合によっては敵対者を殲滅するために。


灰原は、そういう男だ。私利私欲はないが、ひとに感情があるとも思っていない。いや、あっても平然と踏みつけれる。国の為、という大義の名のもとに。


「…ぃ、いいのか…?」


「いいも悪いも、ねぇ?」


声を絞り出した正隆とは対照的に、どこまでも飄々と櫻子は肩をすくめた。


そうだ。櫻子に拒否権はない。言われた通り、灰原と「結婚」して「手駒」のひとつとなるしか、道は無い。


正隆にはなにもできない。つよく優しい友が、自分が選んだわけではない茨の道を強いられているのに、指をくわえて見ていることしか。


血が滲むほどに唇を噛みしめる正隆をじっと見つめていた櫻子が、「ねえ」と声をかけてきた。顔を上げると、そこにあったのは優しさがにじんでこぼれおちそうになった黒い瞳。


「一度は家に帰んなよ。お母さん、心配してるよ」



あんな状況に置かれた櫻子に言われ、帰省しないわけにはいかず。実家に戻った正隆は記憶のなかにあるよりやや窶れてしまった母の姿に、今さらながら罪悪感をおぼえた。


道すがら手折った桜の枝の蕾はまだ固いままだったが、涙を浮かべた母はそれを受け取り、「お茶を淹れるから」と正隆を居間に通した。


父も兄も不在の家はなにやらもの寂しく、若い鶯の下手くそなさえずりが妙に響いて落ち着かない。ややあって、しとやかな衣擦れの音とともに居間の障子が開かれた。緊張をぎこちない笑みに隠した母が、茶と桜餅を焼杉の茶卓に置く。


その母は、ひどく思いつめた顔をしていた。仲違いした息子がとつぜん帰ってきた事だけではない。父の事だろうか、それとも兄の事か。軍は今、ろくな話が出てこない。そんな正隆も春から軍に配属となるのだが。


「…櫻子さんの、ことなんだけれど」


母の言葉に、湯呑を持った手が震えた。正隆が動揺を押し殺し目線で先を促すと、母は紅の乾いた唇を震わせた。


「あの子、結婚するって。…灰原卿と」


「…誰から、聞いたのですか…」


身を乗り出した正隆の形相に母は顔を強張らせ、みじかく呻いた。


「…ほんとうなのね…?」


がっくりと肩を落とした母が落ち着くのを待って訊くと、彼女は自ら櫻子に非礼を詫びに出向いていたという。貧乏長屋にいきなり現れた良家の奥方に手をついて謝罪され、櫻子も叔父夫婦も恐慌状態になり。混乱の極致に達した叔母が「とりあえず御飯にしましょう!」と謎の提案をし、4人でのだいぶ早い夕食となった。


正隆は以前、櫻子が叔母について「ものすごく善良で、だいぶ変わったひと」と言っていたのを思い出した。


妻として、母として。ひたすら自分を厳しく律していた白峰夫人は、貧しいながらも気負わず、朗らかな黒河家の奥方に魅了され、手土産を持ってこっそり長屋を訪ねる仲になった。その流れで櫻子とも文を交わすようになり、学校での正隆の様子を教えてもらっていたという。


正隆はなにも知らなかった。もしかしたら、父も。男の知らぬところで、彼女たちはまるで年端のいかぬ少女のように秘密を共有し、笑いあっていたのだ。そのなかで母は櫻子を理解し、黒河夫人同様、彼女の将来に幸あれと願いはじめていた。


それなのに。


母の色の失せた頬をゆっくりと涙が伝う。こぼれおちた涙は、彼女の手におさまった桜の枝を濡らした。蕾のまま、手折られた枝。


「…これから花開くというのに、どうしてこんな…」


母の嘆きに対する答えを、正隆は持たない。


                          *



もしかしたら自分たちの不安は杞憂で、櫻子は灰原に愛され、幸せになれるのではないか。



願いは3年後、櫻子と再会した時に灰燼と化した。


灰原を背に庇い、血塗れで倒れ伏した暴漢5人を硝子のように無機質な目で見下ろす黒衣の女はたしかに櫻子だった。だがなんて変わってしまったのか。白い頬には返り血が飛んでいるのに、眉ひとつ動かさない。


駆けつけた憲兵に一瞥もくれず、灰原を車に先導する櫻子の姿は訓練された軍用犬か、でなければ機械仕掛けの人形のようだ。


灰原を守り、灰原を害する者を排除する、彼の名目上の「妻」についた呼び名が「番犬」。


そこに、「黒河櫻子」という名は存在しない。


               *


―――昔を思い出して感傷に浸るなど、老人のする事だ。正隆はひっそりと溜め息をつく。


階段を昇りきり変わらず人の気配のしない廊下を進むと、辿り着いたのは最奥の部屋。ここに、いるのだ。灰原と―――櫻子が。


櫻子が白峰の前に立ちはだかった場合―――十中八九そうなるだろうが―――、果たして自分は勝てるだろうか。軍学校時代、櫻子に勝てるのは教官だけだった。それも経験を積み、卒業間近になった頃には歴戦の猛者たちも苦戦していた。


灰原の「犬」として実戦を繰り返してきた櫻子の実力はどうなっているのか。勝てる見込みは薄い。まして生け捕りなど―――


いいや、と正隆は己の計算を奥歯で噛み砕く。これまで何人を手にかけてきたのだ。友だからと情をかけるな。それが許されるほど櫻子は―――灰原の番犬は甘い相手ではない。


罠を承知で扉を開ける。


正隆の目に飛び込んできたのは、漆黒の闇に咲いた満開の桜の花だった。









































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