黒と灰。
階段の踊り場の窓からは、ふちのぼやけた半月と桜の枝がよく見える。闇ににじんだ薄紅の蕾はまだ小さいが、月が満ちる頃にはいっせいに花開く事が予想できた。
―――それをこの屋敷で見ることは、かなわないだろうけれど。
目を閉じてよけいな感傷を振り切り、櫻子は階段を登りきると、最奥の部屋の扉をノックした。すぐに応えがあり、なるべく音をたてぬように入室すると櫻子は部屋の主に向かい、きちん、と礼をした。
「灰原閣下」
地声よりもやや低めに努めた声で呼ぶと、大きいが簡素な寝台に半身だけ起こした人物は飴色がかった瞳だけ動かした。
「お命じのとおり、使用人はみな逃がしました。屋敷に残っているのは、閣下とわたくしだけでございます」
「そうか」とひどく聞き取りづらい、こもった声で応じて痩せ衰えた男はもう興味を失ったように櫻子から目をそらした。
いつものことだ、と櫻子は思う。「妻」として迎えられても、それは戸籍上のことだけ。「夫」は最も近しい使用人として、剣として、盾として―――番犬として、櫻子を望んだ。
「黒河。…着替えを」
前方をじっと見つめていた「夫」の灰原が櫻子を呼んだ。「妻」となって10年ちかく経つが、彼は櫻子を旧姓で呼ぶ。櫻子、と名で呼ばれたことは一度もない。
それをどうこう思う日々はすでに遠く、櫻子は海の向こうの軍服に似せてあつらえられた黒いお仕着せ姿で灰原の寝台に歩み寄った。毛足の長い絨毯を敷き詰められた寝室は、足音をすべて吸い取ってしまう。
歩き方も距離の取り方も、すべて灰原に躾けられた。命じられたすべてを完璧にこなしても、彼から褒められた事は一度もない。出来て当然だという灰原の考えをすんなりと「是」としてしまうほどに、どこもかしこも教育された。
櫻子はただ、灰原の為にのみ存在を許されている。それを悲しいとも虚しいとも感じなくなったのは、諦観か。身体をおいて、心が先に死んだのか。
病魔は灰原の骨の髄まで蝕み、寝台で座っている事すらつらいはずだ。それでも彼の眼光の鋭さは変わらず、室内着からいつもの背広への更衣を無表情のまま介助する櫻子を冷淡に見下ろす。
着替えが終わり、櫻子がつぎの指示を待っていると灰原の視線が寝台そばの卓にすべった。
「引き出しを開けろ」
言われたとおりに曲線の美しい小さな卓の引き出しを開けると、そこには白い包みが入っていた。紙製の、一目して薬包だとわかる。
灰原は「もう無駄だ」と薬を飲むのをとうにやめている。不思議に思いながら薬包を取り出す櫻子に、彼は何事もないように告げた。
「毒だ。飲め」
…さすがに驚いた。それでも感情を表に出す事を嫌う灰原の前で、櫻子は眉ひとつ動かさない。動かせない。
それをどうとったのか、灰原は淡々と続けた。
「おまえもわかっているだろうが、じき軍の将校が来る。私は彼らに殺されねばならない。だがおまえはちがう」
―――…質問は、許されていない。
この国の中央はすでに腐敗しきっている。腐臭は1年の半分を雪に閉ざされる北国から、常夏の南国まで漂っている。灰原は、有能で、誠実な文官だった。どうにかして国をかつての姿に戻そうと尽力していた。彼は国にすべてを捧げてきた。それを櫻子はずっと見続けてきたのだ。10年間、側近くで。
だが灰原の身体がそうであるように、この国の病巣はふかく、それこそお伽話に出てくるような万病に効く霊薬でなければ治す事などできはしない。看過できぬ、と立ち上がったのが血気にはやる軍の青年将校たちだ。そのなかには、櫻子の軍学校時代の同期の名もあった。
灰原がどれだけ清廉な政治家であろうと、彼らにとっては旧い時代の象徴のひとつ。いや、自身の正当性を示すためにこそ、灰原は弑さねばならないのだ。
今夜、将校たちはここに乗り込んでくる。
櫻子はじぶんが強い事を知っていた。勝手知ったる屋敷内。蜘蛛の巣のように罠を張り巡らせ、灰原を守りながら侵入者を鏖殺するなど造作も無い。ろくに実戦も知らぬ生真面目な青年将校たちの事、櫻子がこれまで駆除してきた暗殺者のような老練さもあるまい。
しかし灰原がそれを命じない。彼は自分が早晩死ぬ事を知っているから。国の為にあれほどもがいていた男は、自身の命はあっさりと捨てる。そして櫻子にも倣えと言外に命じる。やはり、それが当然だろう、と。
―――…ひとり死ぬのがおそろしいから泉下で待っていろ、とでも告げてくれれば
溜め息を押し殺し、櫻子は薬包をひらいた。毒は、新雪のように無垢な顔でそこに横たわっている。
卓の上に置かれていた水差しを手に、自分でも驚くくらい滑らかな動きでグラスを満たす。粉薬は苦手なんだよな、と場違いな事を考える櫻子の耳を灰原の声が打った。
「苦しむ事はない。…眠るように、逝ける」
彼らしくない言い訳のように聞こえて櫻子は思わずちいさく笑い、今さら手を震わせるためらいごと毒を喉奥に流し込んだ。
空にしたグラスを卓の上に置き、何事もなかったように灰原の言葉を待つ。が、彼は口を開く気配も無く、じっと櫻子を見ている。
―――…せめてひとことくれないかな
苦痛はないという言葉通り、さほど時間を置かずして櫻子の頭のなかにゆっくりと白い靄が広がりはじめる。最期の瞬間まで留めておきたいのに、灰原の姿がにじむ。
素鼠色の背広はそのままに、灰原の青白い細面が10年をゆっくりと巻き戻すように変化する。
―――ああ、あの日、はじめてこのひとに会った日だ。講堂の周囲には、桜が咲いていた。
*
15の時、軍学校の真新しい制服に身を包んだ櫻子は、桜の花びらをまとわせて現れた男に一瞬で心を奪われた。
しかつめらしい軍の御偉方に続いて、櫻子たち新入生に向かって淡々とした祝辞を述べた浮世離れして美しいひとが「灰原」という名の文官だというのを知ったのは出会って3時間あと。
軍学校に進んだからとて、どれだけ優秀な成績をおさめようとて、女である櫻子が軍の―――政治の中枢に行けるわけではない。お国の為に、男女問わず闘うべし―――などと御上は謳うが、女の身ではよくて末端の事務屋がせいぜいだ。灰原に近づく事などできはしない。
だから彼が―――灰原が18になった櫻子を望んだ時は一も二もなく承諾した。夢見心地だった。
黒い髪と瞳が一般的なこの国のなかで、先祖返りだという色素の薄い瞳に頬を紅潮させた櫻子を映し、灰原は冷ややかに言い捨てた。
「これからは私の手足となって働け」と。
15歳で灰原と出会い、18になるまで噂を含めた彼の話をたくさん聞いた。それは決して好意的な、ぬくもりはひとつもうかがえないものばかり。だが灰原が私欲をはさまず、ひたすらに国の為に奔走していることだけはわかった。
―――本心を出すのが苦手な、ほんとうは優しいひとなんじゃないか
年若い櫻子はひとりそう納得して、誰にもあかさず、一回り以上齢のはなれた灰原への思慕をつのらせた、が。
―――いいや、噂どおりの男だったわ!
お大尽からの申し出を跳ねのけれるはずがない。まして櫻子は借金をこさえて蒸発した父親、金を返すために身を粉にして働いたあげく儚くなった母親に代わり、叔父夫婦の世話になっていた。ひとの善い叔父夫婦は真っ青になりながら、それでも涙目の櫻子に「嫌なら断れ」と言ってくれた。
女の櫻子を奉公に出すでもなく、自立したいという彼女の希望を知って、伝手をたどってたどって軍学校にいれてくれた―――学費が無料だったのだ―――叔父夫婦への恩を仇で返すなど出来ようはずがない。一晩だけ大声で泣き喚いた櫻子は、次の日には腹をくくっていた。
灰原は厳しいひとだった。厳しいという表現すら生温く感じてしまうほどだった。
櫻子が失態を犯しても、灰原は声を荒げる事はしない。手をあげる事も、食事を抜くような事も、身体的な懲罰はいっさい無かった。ただ静かに叱責し、飴色の双眸でひたと櫻子を見据え、自分の頭で考えろと告げた。
見えない刃で身を削がれ、真綿で首を絞められるような日々でも、逃げ場が無かったわけではない。子供のいない叔父夫婦は櫻子をほんとうの娘のように可愛がってくれ、口先だけでなく「いつでも帰ってこい」と言ってくれた。櫻子が「妻」という名称の手駒だとみなが知っていた。逃げ出す言い訳ならいくらでもできた。
それでも、灰原という人間と関わり、彼を知れば知るほど離れがたくなっていた。
容姿だけではない、彼の美しさを、清らかさを。国の為にさまざまなものを削ぎ落とし、透ける白刃ほどに鋭く脆くなってしまった、悲しいほどの不器用さと一途さを。…知らなければ、どれほど楽だったか。
灰原は櫻子を見ない。彼が見ているのはこの国の未来だけ。だからせめて、彼の背後を守りたかった。…守りつづけて、役に立ちつづければ、いつか灰原の目がじぶんに向くのではないかと期待した。
10年だ。期待して、期待して、…10年。「妻」という名が期待に拍車をかけた。初恋はむくわれないと聞いたのはどこでだったか。真実なら、この帰結はただしい。
体中の血が抜けるように、力が抜けていく。ゆるやかに、だが抵抗を許さない睡魔のように白い靄は黒く視界を塗り潰していく。
「さくらこ」と呼ぶ声が耳をかすめた。
誰の声だったか。灰原ではない。彼は、櫻子を名前で呼ばない。
誰の声だったろう。軍学校時代の仲の良かった級友の声か。そういえば、彼の名も襲撃部隊の名簿にあった。
…もうなにも聞こえない。なにも見えない。
最期に呼んでくれた声が、灰原のものだったらよかったのに。
自分の未練がましさにうんざりしながら、櫻子は心地良い闇に身を委ねた。