高嶺の花
珍しいことに私を出迎えた婚約者の顔には笑みがなかった。
どんな状況であろうが慌てず余裕を持ち堂々としている王太子である美丈夫、それが光栄にも私の婚約者であるのだけれど、今は様子が違った。
そもそも、二人きりで重要な相談がしたいなどと呼び出された時点で、これはおかしいとは思っていたのだが。
「それで、ご用は何なんですの?」
対面に座り、にっこりと微笑んで促す。難しい表情で彼は押し黙っている。これも今までにはない光景だ。
沈黙が続く中、私は用意された紅茶を口に運ぶ。おそらく彼の従者が淹れたのだろう。しかし常に付き添っている筈のその従者の姿も、談話室のどこにも見られない。完全な二人きりだ。悪くない。
彼は人気者だから、学園にいると引っ張りだこなのだ。
しばらく紅茶を舌の上で転がせていると、彼はやっと口を開いた。
「頼みがある」
「何ですの?」
「婚約を解消したい」
「…へえ」
叫び出したいのをぐっと堪えて相手の感情を読み取るべく目を凝らす。
彼の目には明確な迷いと、罪悪感と、羞恥があった。
「理由を聞いても?」
すると、彼は再び無言になった。自らの情けなさを恥じるかのように形の良い顔を振り、言葉を選んでいるのか、艷やかな紫色の目を泳がせた。
次の言葉をじっと待つ。
「恋を、してしまった」
「あらまあ」
何かと思えば、恋。
おそらく生まれてから一度も、誰かに愛情を注いだことのない彼が、恋。
「お相手は?」
「ニーナ・カーポリカ」
「カーポリカ…?ああ、村の名前ですのね。そういえば、辺境から来たお嬢さんがいるとお聞きしましたわね」
初めて聞いた、と言わんばかりの素振りを見せる。本当はずっと前から知っている。彼がニーナと親密にしている、という学園の誰もが一笑に付す噂に、私がどれほど心をかき乱されたか、知る者はいまい。
ニーナ・カーポリカ。かつて国の英雄を生み出したカーポリカ村出身の、田舎娘。本来ならそのまま村で老いさらばえる筈だった女。だが魔術の才能を秘めているということで、この学園に招致された。
見た目も体付きも普通の域を出ない、ただ能力があるだけの、女。
「それで、アルフレッド様は、その子とどうなりたいんですの?」
「…分かり切ったことを聞くな」
「ごめんなさい、でも、どうしたいのかはっきりさせるのは大事でしょう?彼女と結ばれたいなら、妾でもよろしいのではなくて?」
また黙る。
こんな姿を見るのは初めてだ。
彼は決して愚かではない。国の運営において、王妃に最も相応しいのは誰か。それだけを基準に婚約者を選んだ。それは当然であると彼は宣言していたのに。
「…分かっている。これは俺の我儘でしかない。あの子だけに報いたいと、どうしようもなくそう思うようになってしまった」
そこでようやく彼は笑みを見せたが、あまりにも似付かわしくない、口角を上げるだけの弱々しい笑みだった。
「馬鹿げている。俺は、狂ってしまった」
「……」
簡単に言わないで、と声を荒げそうになるのを耐える。
これまで私は彼に必要以上に接触してこなかった。彼がそれを望んでいたからだ。
彼にとって、恋も愛も、不必要なものだった。
不必要だったのに。
「…一応、考えてみてくれ。俺がお前と婚約を解消する場合、何が問題となる?」
「…不可能ですけれど、まず第一に。アルフレッド様は、私だけでなく、他のご令嬢にもお声をかけていますわね」
正確には令嬢が彼に取り入っている。
このままいけば婚約者に選ばれた私は正妃となる。だが、彼を慕い妾になりたいと、そう思う女は、大勢いた。そして彼は彼女らを拒絶しなかった。彼は望む者を皆平等に迎えるつもりだったのだ。
それが、白紙となるとすれば、諍いは免れない。彼が彼女らを宥めるより、彼女らがニーナを殺す方が早いだろう。
そもそも、今の彼に血気盛んな彼女らを制御できるとは思えない。
「それらの賠償も必要でしょうし、娘の気持ちを弄ばれたと怒鳴り込まれてもおかしくありませんわ。汚名を受けるのはアルフレッド様だけでなく王家もです。そして何より…いえ、やはり、何でもありません」
「…続けろ」
「…何より、私が、婚約を解消したくありません」
彼の婚約者となるために、私がどれだけ奮闘したか。自分より優れた令嬢を陥れ、自分と同程度の令嬢を蹴落とし、自分より劣る令嬢を黙らせた。その努力が水の泡になるなど耐えられない。
「…そうか」
「取り敢えず、ニーナさんと話をさせていただけません?彼女にも色々と、聞きたいことがありますので」
そうお願いすると彼は少しばかり部屋を出て戻ってくると「しばし待て」と言った。従者は部屋の外に待機させていたらしい。
十数分の後、従者が小柄ながらもなよやかではない少女を連れてやって来た。従者が退室するのを見届け、緊張の面持ちでニーナは「失礼します」と、彼と私の中間の位置に座った。
彼の視線が彼女に注がれる。それはあまりにも優しく、柔らかく、甘かった。予想を大幅に超えていた。
ギリ、と小さく奥歯が鳴る。
「では前置き無しでお聞きしますわね。ニーナさん、本当に貴女は彼を慕っているのですか?」
「そうです」
絶対に目を逸らさなかった。現在の彼より余程強く見える。
「婚約者の前で、随分とはっきり仰るのね」
「アルフレッド様を慕う人は、ここにはたくさんいますから。私もそのうちの一人というだけです」
「それもそうね」
だから私はどんなに辛くても婚約者に上り詰めるのを諦めなかった。
「…そんなに好きなら、駆け落ちでもしたらどうなの?」
「いいえ、それは絶対に有り得ません。私は、責務を投げ捨てて幸せになろうとする人に興味はありません」
「そう。その割には、我儘を押し通そうとしているようだけれど…妾では満足できないのでしょう?」
「いいえ、私は立場にこだわりはありません。アルフレッド様のお力になりたいだけです」
話が違う、と目線を送れば、彼は「だから、俺の我儘だと…」と気まずそうに俯いた。正妃云々はニーナはどうでもいいようだ。妾なら私も反対はしないのに。
「もし、貴女がいるせいでアルフレッド様が堕落していくとしたら、貴女は…」
「村に帰ります。アルフレッド様には、二度と会いません。私は何よりも、アルフレッド様の幸福を望んでいます」
即答だった。
少なくとも彼女は話の分かる女のようだ。
となれば問題はただ一つ。彼の想いだけだ。
「分かりました。私が何とかしましょう」
「何だと?」
驚いたように、そして意外そうに彼が頭を上げた。その美麗な顔ににっこりと微笑みかける。
「私にお任せください。全部すっきり、解決してみせますわ」
*****
柔らかいベッドの上で、彼は静かに目を覚ました。
傍らに佇む私と、その隣に立つ名高い魔術師の姿を視界に入れると、その眉間にシワが寄る。それでも美しさが損なわれることはなく、むしろ男らしさが増した。
「お前、俺に何かしたな?」
「ええ。おはようございます、アルフレッド様」
彼はするりと身を起こすと、軽く伸びをしてベッドから降りる。そのままどこかへと歩き去ろうとする背中に、声をかける。
「何をしたか、気になりませんの?」
彼は顔だけ振り返らせると、薄く笑みを浮かべた。
「お前のすることに間違いなどあるまい?」
「…ええ、勿論」
ああ、これだ。
これこそ、私の婚約者だ。
誰かを特別扱いすることはなく、人に愛情など抱かず、能力のみで判断し、さりとて使えない者を邪険にすることはない麗しい王太子。
帰って来た。私の王子様。
彼を取り返して、満足である筈だった。
なのに、私の中には、何故か物足りないという感情が生まれていた。
「お前らしくないな」
そう言われて、私は唇を噛み締めた。
ここ最近、何かがおかしかった。狂っていた。
ただ、私は彼女から聞いたことを実行してみただけだ。
一緒にお忍びで街に繰り出したり、人のいない森や、川辺で自然を体感したり、精霊、動物と触れ合ったり。
そうしていくうちに、彼女は彼と仲を深めていったと言っていたから。
そうすることで彼の特別になったと言っていたから。
だから、私もやってみた。でも、うまくいかなかった。
「何を吹き込まれたのか知らんが、お前は俺の婚約者だ。そう不安がらずとも、俺は約束は違えない。義務を全うする」
「いえ…不安な訳では、ないのですが…」
婚約者。約束。義務。そんな言葉が頭の中でぐるぐると回っている。
私と彼が庭園で話しているのを、妾候補の女達が遠巻きに見つめている。それらに一瞬目を向けて、彼は諭す。
「お前は彼女達とは違うだろう。あいつらは俺に惚れている。だからまあ、それなりの対応はするが…お前は違うだろう?俺に可愛がられたい訳でもあるまいし。お前が欲しているのは正妃という座だろうに」
その通りだ。
彼の外見はとても綺麗だから、好ましく思っている。好意はある、しかし、私が婚約者になりたいと思った最大の理由は、王妃になりたかったから。王妃になって、自分が一番なのだと証明したかったから。私は、彼から優しくされてそこに愛があると勘違いしている女達とは違うのだ。
それなのに。何なのだ、このもやもやとした感情は。
「…アルフレッド様は、誰かを愛したい、愛されたいと思ったことはありますの?」
「何だその質問は。分かり切ったことを聞くな」
そう嘲笑して答える彼の顔には、迷いはない。声の中に熱は存在しない。その目に、狂おしいほどの愛おしさは一切ない。
それを実現した女は、もうここにはいない。
つまり。彼が愛を宿すことは、もう、二度と、
「運命…」
「何?」
「運命、の人…が、いたとしたら、どうします?」
「くだらん迷信だ」
鼻で笑われた。だが、私の心臓はバクバクと鼓動していた。
彼女は、彼の運命だったのではないだろうか。
彼が心底迷うことも、あそこまで追い詰められることも、罪悪感を覚えることも、自分を情けないと思うことも、私の知っている彼ならば絶対になかった。そして、私の知っている女の誰も、それを為せなかった。私自身も含めて。
誰も彼に愛されなかったし、それが当然だった。
彼女は、一体彼に何をしたのか。
私も彼女と同じことをやってみた。だが結果はこの通りだ。他の女がやったところでそうだろう。
それなら、あと、考えられるとすれば、それしかないではないか。
ニーナはアルフレッドの運命だった。
アルフレッドを変えられるとすれば、彼女しかいないのだ。
私では、できないのだ。
「おい、ミランダ?」
「…え?」
「顔色が悪い」
「あ、ええ…ご心配なく」
私は、何をそんなに驚いているのだろう。彼は私を愛さないし、私は彼を愛していない。そんなことは婚約を結んだ時に理解していた筈なのに。
「ねえ、アルフレッド様」
「どうした?」
「私の婚約者なら、たまには愛の囁きでもしていただけません?」
「はは、何だそれは。あいつらへ嫉妬でもしたか?珍しいこともあったものだ」
「別に、ただの戯れですわ」
「まあ、たまにはいいだろう」
彼がぐっと身を寄せてきた。女達がざわめくのがちらりと聞こえた。
髪の毛を撫でられる。存外優しい手付きだった。慣れているのだろう。そのまま頰に手を添えられる。女達の悲鳴が上がったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
耳元で囁かれる。当たり前だが声が近い。
「お前には感謝している」
「感謝、ですの?」
「ああ。お前以上の女はいないだろうからな」
いつもより声色は低く、穏やかだった。
これは毒だ。脳に浸透して痺れさせ、それなしでは生きられないようにする毒。女達が入れ込むのも当然だと思い知らされる。
何故今まで私は平気だったのか?
違う、私は今までこんな接触をしてこなかったのだ。それが正しいと信じていた。
だが、今はどうだ。
この声が、眼差しが、他の女に向けられていた。その事実が、気が狂わんばかりに、腹立たしい。
何故私は、婚約をする際「妾が何人いても気にしませんわ」などと言ったのか。どうして平気だと思ったのか。折角婚約者になれたのに、何で独占しようとしなかったのか。
過去の自分が恨めしい。
もしかしたら…あの時そうしていれば、色情の一つくらい、抱かせていたかもしれないのに。
「…本当に、らしくないな」
「え?」
「お前のその顔、あいつらにそっくりだ」
彼の目は冷ややかだった。一瞬で熱が冷める。
「ご、ごめんなさい」
「構わん。そういう時もあるだろう」
あっさりと彼の腕が離れていく。名残惜しいと訴えてくる体を無視し、「たまにはいいですわね」と平気な顔をして取り澄ます。
それ以来、私は彼への一切の身体的な触れ合いを禁じた。そうすれば元の自分に、ただ正妃という地位を望んでいた頃の自分に戻れると思った。
だが、執着は日に日に強まっていくばかりだった。
金色のさらりとした髪も、葡萄酒のように酔わせる瞳も、よく響き人々の心に焼き付く声も、少し骨張っているけれど華奢ではない手も、すらりとしているように見えて意外に筋肉の付いている体躯も、自分に絶対の自信を持ち横柄な態度をとりながらも礼儀を忘れないところも、国のため、婚約者のためにできることをしてくれる誠実さも、何もかもが私の心を掴んで離さない。
私の頭の中から、彼が消えてくれない。
何をしていても、どんな時でも、彼がいれば目で追ってしまうし、姿が見えなければ無意識に辺りを見回して探している。
このままでいいのか。
いい訳ない。
彼からも、様子が変だと忠告されている。
でもどうしようもない。
考えまい、考えまい、と案じても、結局は彼のことを思ってしまう。
そんな自分が恥ずかしく、情けなかった。
どうすればいいのか分からなかった。
婚約者だったから許されているけれど、そうでなかったら、今の私は不埒者以外の何者でもない。
…彼もそうだったのだろうか。
悩んで、迷って、それでも覚悟して、そうして私に相談を持ちかけたのだろうか。
だとしたら、私は。
私には、しなくてはならないことがある。
「珍しいことが続くものだな。お前から呼び出されるとは」
誘いに応じた彼は軽口めいた口火を切った。
「それで、何の用だ?」
事前に用意していた文は頭から吹き飛んでいた。
何と言えばいい。何て言えばいいのだ。
黙り込む私を彼は急かすこともなく紅茶を飲みながら観察している。見られている、と、そう意識すると体温が高まる。
まずは、そう、謝罪だ。
「ごめんなさい。私は、貴方を謀りました」
「何?」
「貴方の記憶を奪い、歪め、なかったことにしようとしたのです。到底、許されることではありませんわ」
彼は、いきなり何を言い出しているんだこいつは、という顔をしている。
そこに疑問はあっても、警戒は存在しない。
それも、これまでだ。
「貴方に、心をお返しします」
待機していた名高い魔術師が姿を現す。何度も呼び出して申し訳ないが、これだけはやらなくてはならない。
「術を、解いてくださいませ」
手をかざして小さく詠唱する。かける時は長時間かかったのに、解く時は一瞬だった。
ぴくり、と彼の体が揺れた。それを確認した魔術師は一礼して速やかに退室していった。
恐ろしくて彼の顔が見られなかった。
「…なるほどな」
声は震えるほど平坦だった。
「それで?」
「え?」
「用はこれだけか」
弾かれたように頭を上げる。
彼の顔には、理解、それ以外の感情はなかった。
背筋が凍る。
「な、何故…落ち着いていられますの?」
「何故、とは何だ」
「私は、貴方からニーナさんの記憶を奪ったのです!貴方が抱いていた想いを消して、踏みにじった!それがどんなに悪辣か、今なら分かりますわ。吊し上げられても文句は言えません!それなのに」
「何を言う。お前の判断は正しかった」
彼は、怒りも、悲しみも、迷いも、してくれない。
「国の未来を担う者が、色恋沙汰などにかまけていられるか。正気を失っていた俺を引き戻してくれたお前に感謝こそすれ、恨みなどしない」
彼は、変わらない。
「ニーナ・カーポリカは確かにそこらでは見られない良い女だった。だがそれだけだ。王妃に相応しくはない」
もう誰も、彼を変えられない。
それでは、私は。
私は?
「…私は、変わってしまいました」
「何だと?」
不思議そうに首を傾げる彼から、目を離せない。
「恋を、してしまいました」
「意趣返しか?やめてくれ、あの時の俺はどうにかしていたんだ」
「私だってどうにかしてしまったのです!」
叫ぶ。苦笑していた彼の表情が固まる。
「誰にも貴方を渡したくない。誰にも、貴方の笑顔を、声を、眼差しを、一片たりともあげたくない!」
「それは、無理だろう」
「分かっていますわ!」
自分が一番よく分かっている。これはただの我儘だ。分かっているけれど、どうしようもなくそう思ってしまうのだ。
彼を独占したいと。誰にも邪魔されたくないと。
彼は唖然としていた。そんな顔も、好きだった。
「ミランダ…お前、本当にそう思っているのか?」
力なく頷く。
ニーナは、どうしてあんなことが言えたのだろう。彼の幸せのためなら身を引くと豪語して、そして彼女はそれを実行してみせた。
理解できない。好きなら、離したくないと思う筈なのに。本当はそれほど好きではなかったのだろうか。
けれど、あの時見た彼女の決意は、本物だった。
「…私は、狂ってしまいました」
ボロボロと、涙がこみ上げて零れ落ちていく。彼がそっと抱き寄せて涙を指で掬ってくれる。
けれどそこに愛はない。
愛は、なかった。