輪廻
青年は、街の新幹線駅を訪れていた。先週か先々週だったか、青年は母親から引っ越しの提案を受けた。あまりに突然の事であったため困惑したものの、父親を失った悲しみを引きずっていたため「ハイ、そう致しましょう」と二つ返事をしてしまったのである。もちろん、青年はその提案を承諾することに少なからず抵抗を感じた。しかし、父親を奪い、更には母親の生気までも奪い去ったこの「街」の脅威から逃れるためには仕方がない、そうするしかないとも思案していた。そういう訳で、彼は今、母親に連れられ人通りの多い駅の構内を、乗り口を探し右往左往していたのだ。
ところで、青年は以前に家族旅行でこの駅を訪れた事が何回かあった。当時、香水の薫り、瓶詰の砂糖菓子…… 脳内で咀嚼し飲み込む暇すら無い程、途方もない(驚きと感動)に駆られた青年は、数多の感動を言い表す語彙を紡ぐことが出来ず、嬉しいもどかしさに一喜一憂したものだった。
しかしながら、今ではその感動すら過去の遺物となってしまった__ 乗り口探しに疲れ、近くの手ごろなベンチに腰掛けた青年は、ふとそう感じた。以前は気にも留めなかった天井の薄汚れた染みがやけに目立つ。そうした粗をいちいち探して回る自らの浅はかさに、自らのことでありながらも辟易とした。
思えば父親の一件を発端に、青年の身辺は変貌した。青年の通う学校では「親父が不慮の事故で」との説明が成され、その知らせを聞いた大勢はぎこちない悔やみの言葉を青年に残していった。しかしながら、青年にとってのそれは「お前の家庭は欠けている」という事実を脳髄に何十回と刷り込まれる所業でしかなかった。そんな日々が続くうちに、青年は自らの至らなさを無理やりにでも探し出しては落胆する「粗探し」という悪習を覚えたのである。現に青年を見送る人物が一人も存在していない理由も、この悪習を誘発させないためであった。
正直なところ、家族というものにここまで苦しみ、自らをこんなにも卑下することになるとは一分たりとも思いもしなかった。街を離れる決断を下したのは親父のせいなのか、はたまた自分のせいなのか―― そうした堂々巡りを繰り返しながら、青年は足をベンチの下に引っ込めて座っていた。
一方で青年の隣で列車の到着を待つ母親はというと、先程からピクリとも動かず、目線を明後日の方向を捉えたまま微動だにしていなかった。実のところ、彼女は先月、勤め先の店主からの言葉を耳にして以来、あれから随分と悩み続けていた。あの店主のように立派な矜持を持ち得たい、たとえ僅かでも安穏とした生活を送りたい―― 悶々と考え続けた末、彼女が最終的に出した答えというのが「逃避」だった。街という名の苦界で生じた出来事のすべてを墓石の下に葬り去り、不安で曇った視界を晴らすことで、新天地にてその高尚な矜持を得ようという、彼女なりの解釈だった。しかしながら、例の店主の姿や励ましの言葉を完全に埋没させることは難しく、墓穴から溢れんばかりの思い出に蓋をしようと躍起になっていた。
現状から離れさえすれば、また幸福を手にする機会に巡り合える。そうに違いない。そうした考えが青年にも等しく当てはまるはずだ、どこかでそう感じていたのも事実であった。
このように心身ともに疲弊している二人であるが、当時の柔らかな表情のままでいて欲しかったという願望が無い訳では無い。もしかすると、そうした考えを母親の方も持っていたのかも知れない。だが、そうした過去の記憶や後悔についてあれこれ談義する余裕など、今の二人には無かった。互いの不幸を案ずるがあまり、そんな甘い想像に身を委ねる事すら罪だと痛感してしまう程、二人の精神は破綻していた。あまりにも多くのものを失ってしまった。
そうした静かな腹の探り合いを続けているうちに、列車の到着時刻が近づいていた。まるでゼンマイ仕掛けの玩具のようにカクンと跳ね起き我に返った母親は、時計を見るなり「あら、いけない」と一言、うわ言の様に呟き、青年の手を取って人混みの中に飛び込んだ。
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平日の遅い時間帯ということもあり、車内はそれほど込み合っていなかった。旅行帰りの観光客、サンドイッチを頬張る老婦人、缶ビールを飲みかわす会社員…… 家路に着いているのであろう乗客の姿が認められた。しかしながら、両手が塞がるほどの大荷物を抱えた乗客は、青年と母親の二人以外、誰一人として居なかった。
その後、青年は母親に促されるまま窓側の席に座り、楕円形の窓から外を眺め見た。そこからはあの市街地が見えた。見知らぬ女に抱き付かれたあの路地も、哀れな男が見限られたあの交差点も、ささやかな慰めを得たあの喫茶店も、淡い街頭の明かりに照らされ、暗い市街地の中にぼんやりと浮かんでいた。それらは小さな窓枠の中にすっぽりと嵌り、まるで絵画のように一枚の風景として、また一種の物語として完結しているように見えた。その絵画に映り込んだ明るい車内と硝子越しの暗い市街地を見つめながら、自分があの絵画の住人ではなく、こちらの明るい世界の住人であることに青年は安堵した。この時ばかりは、どんな不幸からも隔絶されているように感じられた。
列車の扉が閉まる音がした後に、青年と母親、それからその他幸福な乗客たちを乗せた汽車は、歩くような速度で進みだした。青年は絵画をもう一度覗き見た。暗い風景の中の見知った場所が次々に流れてゆく。そうした風景を見送る度に、過去の青年の脳裏にまるで走馬燈のように瞬時に現れては消えていった。そうした心象風景はしばらく続き、川を飛ぶような速度で横切った後、ようやく終わりを迎えた。
しばらく微弱な揺れに揺られ、誰に聞かれる訳でもない外国語のアナウンスに耳を傾けている内に、青年はうとうとと睡魔に襲われた。まあ、ここでひと眠りしたとしても、目的地はまだ先なのだから。
薄れゆく意識の中で、
「この先は、きっと大丈夫だ。」
そう思い込んだ。