第5話 絶望と希望
この儂があんな小娘の下僕になるとは…。
あの忌々しい出来事を思い出すだけで沸々と怒りが湧いてくる。
言霊縛り。それは人と妖を鎖で繋ぐ術。
鎖で繋がれた妖はその人間の命令を聞かなければならないのだ。そして、この鎖を断つ方法は『鎖でつながれた人間を殺す事』
酒呑童子は大きな盃に入った酒を一気に煽った。
だが、果たして本当にそれだけだっただろうか。
何かを忘れているような気がして落ち着かない。
『酒呑はん…?』
『なんじゃ、花里』
酒呑童子の隣にぴったりと座る猫娘、花里は彼の顔を潤んだ瞳で見上げると、ゆっくりと彼にしなだれ掛かる。
『お久しぶりにお会いしたというのに、心ここに在らずといったご様子で…花里、寂しいどす』
『…少しばかり気になる事があってのう。
まぁ、それはお前を堪能した後、ゆっくり考えるとしよう』
酒呑童子は自分にしなだれ掛かる花里を強い力で抱き寄せた。そして片手を腰に、もう片方の手の指先を花里のぷっくりとした紅色の唇に当ててゆっくりとなぞらえる。
『あい。そうしておくれやす』
花里は夢見心地に答えて、頬を赤く染めて酒呑童子を見つめた。
酒呑童子の手が花里の帯にかかる。
『失礼します。やはりここにいらっしゃいましたか』
それと同時に部屋の障子が開き、そこから青髪の青年が姿を現した。
彼の頭には酒呑童子と同じくツノが二本生えている。
『なんじゃ、茨木童子。
今から良い所なんじゃがのぅ』
花里も口にはしないが明らかに不満そうな視線を青年にぶつけた。
茨木童子と呼ばれた青年は、主人である酒呑童子とそれに抱かれている花里を見て、一つ溜息を零した。
『三大妖怪ともあろう貴方が遊郭で女遊びなど…』
『お主には関係なかろう』
『そういう訳にはいきません。我々、鬼一族の士気に関わります故。
それよりも、その首の模様…。それはもしや』
『…言霊縛りじゃよ。古臭い呪いじゃ』
興が削がれた、とでも言うように酒呑童子は花里を自分から引き離した。
花里は名残惜しいそうに酒呑童子を一瞥したあと、彼から少し離れた所に正座する。
『ということは人間がこの【箱庭】に…。
今、その人間はどちらに捕らえているのです?』
『知らぬ。あの娘は鏡妖怪を探しに何処かに行ってしまったからのぅ』
何気なく酒呑童子が呟くと、茨木童子は驚いたように目を見開き、体を乗り出した。
『なっ!?言霊縛りの条件をお忘れですかっ!?
言霊縛りは《繋がれた妖が人間を殺せば鎖は断たれます》が、《鎖で繋がれた人間が他者によって殺された時、もう片方の妖怪も死ぬ》のですよ!?』
暫しの間、部屋に沈黙が流れる。
『おぉ、そうじゃったそうじゃった。
すっかり忘れていたのぅ』
やっと思い出せた。と言わんばかりの笑みを浮かべる酒呑童子。
それとは逆に、顔を真っ青にさせるのは茨木童子だ。
『人間の、それも小娘なんてすぐに殺されるに決まってる…』
『仕方ない、あの嬢ちゃんを探しに行くとするか。やはり儂が殺さなければなるまい』
『えっ、しゅ、酒呑はん!?』
瞬間的に酒呑童子と茨木童子が消えて、一人部屋に残された花里はただただ茫然と彼らの消えた方向を見つめていた。
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「はぁ…はぁ…っ!」
『早く!早く!追いつかれちまうよっ!』
「わかってるっ!」
背中から迫ってくる巨大な殺気の塊から逃れようと木々の間を縫うように走るが、中々距離が離れない。
それどころか、段々縮まってきてさえいた。
『待てぇ!!』
ドスンっ!ドスンっ!
重量のある足音に地面が揺れて、木々が次々となぎ倒されていく。
こんなに走ったのはいつ以来だろう。
そんなこと考える余裕も無いくらい、澪は逃げる事に必死にだった。
澪の少し先を走る一つ目小僧は時々澪を振り返りながら、たまに近くに落ちている石を投げて応戦するがそんなもので止まるはずもなく。
『おい!こっちに来いっ!』
一つ目小僧が何かを見つけて指差した。
その先に視線を向けると丁度澪と一つ目小僧が入れるくらいのスペースのある小さな洞窟がある。
澪は素早く洞窟の方へ向きを変えると、滑り込むように岩の隙間に入り込んだ。
洞窟の中は暗く多湿であり、奥の方からは冷たい風が吹いていて走って火照った体には心地良い。
「はぁ…はぁ…あの大きさならここには入れないよね。
あれ、なんていう妖怪なの…?」
逃げるのに必死で細部までは良く見ていなかったが、とんでもないく巨人だったことは確認できた。
『あれは手洗い鬼だな。普段は東の山の奥に住んでる筈だけど。なんで箱庭に…』
「箱庭って…?」
『そっか。お前何も知らないのか』
そういうと胸を張って自慢げになってこの世界の説明をしてくれる。
が、そもそもここに来た原因は自分だという事に気が付いていないのだろうか。
一つ目小僧の話を聞いてわかった事。
ここは私達の住んでいた現世とは真逆の世界。
妖怪達の世界、所謂《隠世》。
そして、その隠世の中枢、日本で言えば首都東京の様な役目を担うのがこの【箱庭】だという。
『箱庭には色んな種類の妖怪達が住んでて、市場から花街までなんでもあるんだよ。
オイラ達がいるここは箱庭でも端の方の田舎だけどな』
「へぇ…」
『オイラはいつか、箱庭の中心に行きたいんだっ!そこでは西洋や東洋から入った珍しい物がたくさんあるらしくてなっ?
なんて言ったか……そう!くるまとか!』
目をキラキラと輝かせながら話し出す一つ目小僧の姿に、緊急事態である事も忘れて微笑ましくその姿を見守っていた。
電車とか携帯とか、私の世界にはもうある物を無邪気に話すのを見ているのはとても新鮮で。
私も小さい頃はこんな時もあったのかな。
なんて密かに思った。
だが、そんな穏やかな時間は長く続かない。
『こんな石ころに隠れやがって!こんなもの投げ飛ばしてやるっ!』
石ころという程の大きさでは無いはずなのだが、あれだけの巨体ならあるいはそう見えるのかもしれない。
大丈夫だ、ひっくり返される筈ない。と思いながらも心臓は鳴り止まなかった。
『ひぃぃ!』
「大丈夫、大丈夫だよ…」
澪は震える一つ目小僧を抱きしめながら、呪文の様に大丈夫を繰り返した。
それは一つ目小僧に言っているのか、それとも自分言い聞かせているのか。
洞窟の入り口から巨大な手が見えた。
刹那、洞窟内に轟音が響き渡り、そのすぐに後に暗かった筈の視界に月明かりが差していく。
『さぁ、もう逃げられねぇーぞっ!』
石の裏に隠れていたダンゴムシを見つけた虫取り少年のような面持ちで手洗い鬼は澪達に手を伸ばした。
もうダメっ…!
絶望に呑まれそうになりながらも、澪の脳裏にたった一つだけ希望が映し出される。
「助けてっ!!
酒呑童子っ!!!!」
『____儂を呼んだか』
少しの浮遊感。それから数刻前よりもずっと強くなった酒の匂いが鼻腔を刺激する。
「うそ…」
目の前の光景に我が目を疑った。
酒呑童子だ。
本当に来てくれたんだ。
澪は最後の最後に言霊縛りを思い出して、一部の望みを掛けて叫んだのだが…まさか本当に現れようとは思ってもいなかった。
艶のある黒髪は月明かりを受けて更に輝きを増し、琥珀色の瞳は爛々として手洗い鬼を捉えた。
酒呑童子は澪と一つ目小僧を抱えながらも軽やかに宙を舞い、ゆっくりと着地する。
「なんで来てくれたの…?」
『嬢ちゃんが儂に命じたんじゃろう?
それに今、嬢ちゃんに死なれてはちっとばかし儂も困る』
「それって…」
少しでも私の事を心配してくれたの?
そう思うと胸の奥が少しだけあったかくなった。
『その言霊縛りは繋がれた人間が他者に殺された場合はもう一方の妖も死ぬ。
つまり、この状態で嬢ちゃんに死なれては儂も道連れにされるのじゃよ』
そして一気に冷めた。
つまりは自分が死にたくないから助けただけで、自分を殺そうとすることには変わりないと、そう言いたいのか。
「…私に触らないで」
澪が軽蔑を込めた声色で静かに呟くと、澪を抱き抱えていた酒呑童子の身体に強い電撃が走った。